第43回 てきすとぽい杯〈てきすとぽい始動6周年記念〉
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リコーダー
大沢愛
投稿時刻 : 2018.02.17 23:43
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リコーダー
大沢愛


 音楽の時間は、教室中が騒がしい。実はピアノが弾けない担任の末次俊樹先生の代わりに武藤洋子先生が担当するけれど、男の子たちには完全に舐められている。大声で叱てもかえて囃し立てられる。最近では諦めたのか、騒々しいままで授業が進む。なんで先生になろうと思たのだろう。「なりたい」と「なれる」は違うはずなのに。
 かろうじて聞こえた指示に従て、ケースから取り出したリコーダーを口に当てる。

 唇よりも温かい。

 鳥肌が立た。気づかれないようにそと唇を離し、あたりを窺う。男の子たちの目はあからさまにそぽを向いている、ように見えた。

 クラスの中で男の子が女の子のリコーダーにこそりイタズラするのが流行ていた。高木蒼真や金田拓希みたいな、どちらかと言えばスポーツ少年団系の子が中心だ。ベクを舐めるくらいならまだいい。アルボース石鹸液で洗えばまだなんとかなる。男の子たちはどんどん調子に乗る。パンツの中に差してお尻で挟んでみせたり、前のチクの中に突込んで出し入れしてみせたりする。こういうのて、洗たからてチラにはならない。リコーダーを吹こうとするたびに囃し立てる声が教室中に響き渡る。先生に言てことが公になた場合、男の子も叱られるけれど、女の子は目の前で謝られて、しかも許さなければならなくなる。宍倉佐良がやられたとき、思い切てリコーダーを弁償してもらいたいと言た。どうなたか。それを聞いた男の子のパパやママがものすごく怒り出したそうだ。洗えば済むのに、そこまでさせるのか、と。先生はこういうとき、とにかく簡単に話を終わらせたいから「洗て解決」の男の子側につく。謝ているんだから許してあげなさい、みたいに。男の子のお尻や股間に擦りつけられた自分のリコーダーを使い続けなければならなくなた経験のない人からすれば、ちいさな問題なのだろう。佐良は納得できないまま謝罪を受け入れることになり、結局、リコーダーを自分で買い換えた。
 ふだんは気の強い佐良が私の前で悔し涙を流した。
「でもさ、弁償してもらうのも考えものだよ」
 私が囁くと、佐良はものすごい目で睨んできた。先生の理不尽な仲裁以後、身の周りは全員、蒼真や拓希の味方ばかりだと思い込んでいる。かぶりを振て、ゆくりと言葉を続ける。
「だてさ、あいつらなら新品を買て、渡す前になにしてくるか分かんないでし?」
 佐良の顔がみるみるうちに萎えた。なんだよそれ。ふざけてる。でも、ありうる。
「梨央、助けてよ」
 肩に腕を回してくる佐良は汗ぽいにおいがする。そと顔を背けながら髪を撫でる。
「じあさ、あいつらにやられたリコーダー使て、カンチしちえ。先ぽが太くなてるから抜けないよ」
 みるみる表情が明るくなる。いいねー。やおうか。
「お尻をすりすりしてもらいたいんだから、むしろご褒美でし
 声をあげて笑う。そのあと、男の子への復讐の方法をさんざん話し合い、最後には笑いながら帰た。ひどい、と思た人は、そんな馬鹿な話でもしないと耐えられないことがあるとを知るべきだ。
 結局、佐良のリコーダーが男の子を血祭りに上げることはなかたけれど。

 私のリコーダーケースは机の左横の手提げに差してあた。イタズラしようと思えばすぐできる。ケースには「眉村梨央」と名前まで書いてあるから、間違えようがない。
 ただ、窓際の私の席には三時間目から給食時間にかけて陽が射している。ケースごと陽射しを受けて、それで温かい、という可能性もある。
 蒼真や拓希が首謀者なのは間違いない。でも、実行犯じない気がする。こういうとき、お調子者の田の口匠や尾折歩がそそのかされてやることがある。叱られたり笑われたりすると得意がる、そんな子だ。勉強でも運動でも大したことがない子はそんなことでも目立たないと苛めに遭う。ただ、「そんなこと」自体がほかへの苛めなのがアレだけれど。苛めて、基本的に「爆弾回し」だから。
 口から離したリコーダーのベクが、なんだかいつもとは違う気がする。いつもより粘こいというか、べたついているというか。でも、そういえばふだん、自分のリコーダーについて気にしたことなんてなかた。いつも授業で吹いて、そのままケースにしまう。考えてみれば汚い話だ。唾が乾いたり、汚れがこびりついたり。そんなものをわざわざ舐めたがる男の子が何を考えているのか想像できない。「ヘンタイ」というのはそういうときに使う言葉だろう。そんなものでお尻や股間を擦て喜ぶなんて。ただ、この場合、どちが汚いかと言えばやぱり下半身だと思う。末次先生が、お尻より唇のほうが細菌の種類が多い、なんて言てた。だからお尻より唇の方が汚い、て。眼鏡越しのドヤ顔が忘れられない。じあ、使た直後のトイレトペーパーで唇を拭いてみせて。できないなら、いい加減なことを言うな。できたなら、絶対にそばに寄らないで。
 教室ではリコーダーがばらばらに吹かれていた。武藤先生の指示が聞こえないんだから仕方がない。開かれた教科書のページがばらばらだたりする。そういえば楽譜の読み方、1年生から6年生のいままで、一度もきちんと教わていない気がする。それでどうやて音楽の成績をつけて来たんだろう。ピアノを習ている子は当然、読めるけれど。ついでに、リコーダーの指使いもあまり習ていない。リコーダーケースに指使いを解説した紙が入ていて、それで何とか憶えた。でも、男の子の中には買て早々にその紙を捨ててしまた子もいるし、ひどい子になるとケースまで捨ててしまい、剥き出しで机に放り込んでいたりする。いくらでもイタズラし放題なのに、なぜかそういう子たちは被害に遭わない。やても面白くないと思われているのか、それともなにをされても気づいていないのか。
 ベクを口から離していると、リコーダーを吹いていないのが丸わかりだ。武藤先生は教室のうるささにすぐ切れる。自分で静かにさせることができないからだろう。それを知てて、蒼真はときどき大声で「せんせ、〇〇くんが吹いてません。叱てください」と叫ぶ。この「叱てください」が曲者で、武藤先生からするとなんらかの対応をせざるを得なくなる。でも、うるさい子たちを放ておいて「〇〇くん、ちんと吹きなさい!」と金切り声をあげるのはなんだか滑稽だ。すかさず蒼真が「いまの、ウソです」と付け加えて爆笑を呼ぶ。
――眉村さんが吹いてませ
 そんな声が聞こえた気がした。でも、騒がしい教室の中ではほんとうに聞こえたかどうかも疑わしい。もし、蒼真が言たなら、間違いなくこのリコーダーにはなにかされている。いそのこと、そうであてほしい。こんな宙ぶらりんでいるよりはましだ。
 いたん意識し始めると、リコーダーのベクを口に触れさせるのはもちろん、鼻先にも近づけたくなくなた。うかり決定的ななにかを嗅ぎ当ててしまたら。もちろん乾いた唾のにおいなんて嬉しいものじない。給食のあとの授業で、食べかすがついてしまうことだてあただろう。でも、いちいちベクを拭いている子なんていないし。私に落ち度は……たぶん、ない。たとえば、口を近づけただけで何かされたと気づく人なんているんだろうか。大抵は気づかずに、あとで囃し立てられて、じないのか。それにしても、こうして気づいてしまたとしても、どうしようもない。吹かずにいるのも限界がある。ささとばらしてほしい。そうすれば怒るなり洗いに行くなり、やりようがある。お願い。こんな訳の分からない状態にしないでよ。
 「えー?」
 甲高い声が上がる。男の子の声だ。木内葵。どちらかといえば色白で女の子ぽい顔立ちの子だ。蒼真が何か言ている。またなにかからかいの種を見つけたのだろうか。
 ひそひそ笑いの中、葵がこちへ歩いてくる。顔が真赤だ。先生はピアノの向こうで、誰も聴いていない曲を弾いている。音大出身らしいけれど、上手いのか何なのか。少なくとも、静かに聴かれないピアノは騒音でしかない。
 私のそばまで来た葵は、いきなり頭を下げて、ごめん、と言た。
「蒼真のやつが、ぼくのリコーダーの上半分と、眉村さんの上半分とを取り替えたらしいんだ。知らなくて吹いてしまた。ほんとうにごめん」
 間接キスだー、と拓希の声が響く。葵の唇を見つめてしまう。なんだかものすごく生々しい気がする。葵はもじもじしながら言葉を続けた。
「あの、眉村さんも、その、吹いちた?」
 体温とは全く関係なしに耳朶が熱い。吹いてないよ、とつぶやく。なんかへんな気がして、吹くふりをしてた。ベクの温かさが蘇り、頬まで熱くなる。
「そうなんだ、よかたー
 葵が笑顔になる。たぶん、きういちばんの笑顔だたけれど、私の中でなにかがずれてしまう。
 なにが、よ。自分のベクに私の唇が触れなかたのがそんなに嬉しいんだ?
 自分は私のベクを咥えたくせに。
 もやもやしてくる。
「じ、洗て来るから交換しよう」
 そう言て教室から走り出る。武藤先生はもはや教室の出入りにも気づかない。
 耳朶の熱がすこし冷めて、私はふと思た。
 これて蒼真の嘘じないの?
 取り換えなんてしてなくて、人のいい葵を唆して私のリコーダーの上半分と交換して、あとで笑うつもりなんじ
 もしそうなら、完全に思う壺だ。どうすればいい。こんな悩み方ができるのも、「お尻疑惑」だけはなさそうだと思えたからだ。
 要するに、お互いのベクが入れ替わていたとしても問題ない、と納得できればいいんだ。間接キスでも大丈夫て。葵に、これからも蒼真たちにからかわれ続けるのが嫌ならここで平気な顔をしなきダメだよ、と言たら?
 ここで男の子の根性据えてよ。逃げ回るんじなくて。私のフストキスの相手(かもしれないん)だからね。

 なんかもう、自分でも何を考えているのか分からない。
 でも、たぶん生まれて初めて、男の子になにかを期待していた。

 葵は、まだ帰てこない。
                       (了)
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