リコーダー
音楽の時間は、教室中が騒がしい。実はピアノが弾けない担任の末次俊樹先生の代わりに武藤洋子先生が担当するけれど、男の子たちには完全に舐められている。大声で叱
ってもかえって囃し立てられる。最近では諦めたのか、騒々しいままで授業が進む。なんで先生になろうと思ったのだろう。「なりたい」と「なれる」は違うはずなのに。
かろうじて聞こえた指示に従って、ケースから取り出したリコーダーを口に当てる。
唇よりも温かい。
鳥肌が立った。気づかれないようにそっと唇を離し、あたりを窺う。男の子たちの目はあからさまにそっぽを向いている、ように見えた。
クラスの中で男の子が女の子のリコーダーにこっそりイタズラするのが流行っていた。高木蒼真や金田拓希みたいな、どちらかと言えばスポーツ少年団系の子が中心だ。ベックを舐めるくらいならまだいい。アルボース石鹸液で洗えばまだなんとかなる。男の子たちはどんどん調子に乗る。パンツの中に差してお尻で挟んでみせたり、前のチャックの中に突っ込んで出し入れしてみせたりする。こういうのって、洗ったからってチャラにはならない。リコーダーを吹こうとするたびに囃し立てる声が教室中に響き渡る。先生に言ってことが公になった場合、男の子も叱られるけれど、女の子は目の前で謝られて、しかも許さなければならなくなる。宍倉佐良がやられたとき、思い切ってリコーダーを弁償してもらいたいと言った。どうなったか。それを聞いた男の子のパパやママがものすごく怒り出したそうだ。洗えば済むのに、そこまでさせるのか、と。先生はこういうとき、とにかく簡単に話を終わらせたいから「洗って解決」の男の子側につく。謝っているんだから許してあげなさい、みたいに。男の子のお尻や股間に擦りつけられた自分のリコーダーを使い続けなければならなくなった経験のない人からすれば、ちいさな問題なのだろう。佐良は納得できないまま謝罪を受け入れることになり、結局、リコーダーを自分で買い換えた。
ふだんは気の強い佐良が私の前で悔し涙を流した。
「でもさ、弁償してもらうのも考えものだよ」
私が囁くと、佐良はものすごい目で睨んできた。先生の理不尽な仲裁以後、身の周りは全員、蒼真や拓希の味方ばかりだと思い込んでいる。かぶりを振って、ゆっくりと言葉を続ける。
「だってさ、あいつらなら新品を買って、渡す前になにしてくるか分かんないでしょ?」
佐良の顔がみるみるうちに萎えた。なんだよそれ。ふざけてる。でも、ありうる。
「梨央、助けてよ」
肩に腕を回してくる佐良は汗っぽいにおいがする。そっと顔を背けながら髪を撫でる。
「じゃあさ、あいつらにやられたリコーダー使って、カンチョーしちゃえ。先っぽが太くなってるから抜けないよ」
みるみる表情が明るくなる。いいねー。やっちゃおうか。
「お尻をすりすりしてもらいたいんだから、むしろご褒美でしょ」
声をあげて笑う。そのあと、男の子への復讐の方法をさんざん話し合い、最後には笑いながら帰った。ひどい、と思った人は、そんな馬鹿な話でもしないと耐えられないことがあるとを知るべきだ。
結局、佐良のリコーダーが男の子を血祭りに上げることはなかったけれど。
私のリコーダーケースは机の左横の手提げに差してあった。イタズラしようと思えばすぐできる。ケースには「眉村梨央」と名前まで書いてあるから、間違えようがない。
ただ、窓際の私の席には三時間目から給食時間にかけて陽が射している。ケースごと陽射しを受けて、それで温かい、という可能性もある。
蒼真や拓希が首謀者なのは間違いない。でも、実行犯じゃない気がする。こういうとき、お調子者の田の口匠や尾折歩がそそのかされてやることがある。叱られたり笑われたりすると得意がる、そんな子だ。勉強でも運動でも大したことがない子はそんなことでも目立たないと苛めに遭う。ただ、「そんなこと」自体がほかへの苛めなのがアレだけれど。苛めって、基本的に「爆弾回し」だから。
口から離したリコーダーのベックが、なんだかいつもとは違う気がする。いつもより粘っこいというか、べたついているというか。でも、そういえばふだん、自分のリコーダーについて気にしたことなんてなかった。いつも授業で吹いて、そのままケースにしまう。考えてみれば汚い話だ。唾が乾いたり、汚れがこびりついたり。そんなものをわざわざ舐めたがる男の子が何を考えているのか想像できない。「ヘンタイ」というのはそういうときに使う言葉だろう。そんなものでお尻や股間を擦って喜ぶなんて。ただ、この場合、どっちが汚いかと言えばやっぱり下半身だと思う。末次先生が、お尻より唇のほうが細菌の種類が多い、なんて言ってた。だからお尻より唇の方が汚い、って。眼鏡越しのドヤ顔が忘れられない。じゃあ、使った直後のトイレットペーパーで唇を拭いてみせて。できないなら、いい加減なことを言うな。できたなら、絶対にそばに寄らないで。
教室ではリコーダーがばらばらに吹かれていた。武藤先生の指示が聞こえないんだから仕方がない。開かれた教科書のページがばらばらだったりする。そういえば楽譜の読み方、1年生から6年生のいままで、一度もきちんと教わっていない気がする。それでどうやって音楽の成績をつけて来たんだろう。ピアノを習っている子は当然、読めるけれど。ついでに、リコーダーの指使いもあまり習っていない。リコーダーケースに指使いを解説した紙が入っていて、それで何とか憶えた。でも、男の子の中には買って早々にその紙を捨ててしまった子もいるし、ひどい子になるとケースまで捨ててしまい、剥き出しで机に放り込んでいたりする。いくらでもイタズラし放題なのに、なぜかそういう子たちは被害に遭わない。やっても面白くないと思われているのか、それともなにをされても気づいていないのか。
ベックを口から離していると、リコーダーを吹いていないのが丸わかりだ。武藤先生は教室のうるささにすぐ切れる。自分で静かにさせることができないからだろう。それを知ってて、蒼真はときどき大声で「せんせ~、〇〇くんが吹いてませ~ん。叱ってくださ~い」と叫ぶ。この「叱ってくださ~い」が曲者で、武藤先生からするとなんらかの対応をせざるを得なくなる。でも、うるさい子たちを放っておいて「〇〇くん、ちゃんと吹きなさい!」と金切り声をあげるのはなんだか滑稽だ。すかさず蒼真が「いまの、ウソで~す」と付け加えて爆笑を呼ぶ。
――眉村さんが吹いてませ~ん
そんな声が聞こえた気がした。でも、騒がしい教室の中ではほんとうに聞こえたかどうかも疑わしい。もし、蒼真が言ったなら、間違いなくこのリコーダーにはなにかされている。いっそのこと、そうであってほしい。こんな宙ぶらりんでいるよりはましだ。
いったん意識し始めると、リコーダーのベックを口に触れさせるのはもちろん、鼻先にも近づけたくなくなった。うっかり決定的ななにかを嗅ぎ当ててしまったら。もちろん乾いた唾のにおいなんて嬉しいものじゃない。給食のあとの授業で、食べかすがついてしまうことだってあっただろう。でも、いちいちベックを拭いている子なんていないし。私に落ち度は……たぶん、ない。たとえば、口を近づけただけで何かされたと気づく人なんているんだろうか。大抵は気づかずに、あとで囃し立てられて、じゃないのか。それにしても、こうして気づいてしまったとしても、どうしようもない。吹かずにいるのも限界がある。さっさとばらしてほしい。そうすれば怒るなり洗いに行くなり、やりようがある。お願い。こんな訳の分からない状態にしないでよ。
「えーっ?」
甲高い声が上がる。男の子の声だ。木内葵。どちらかといえば色白で女の子っぽい顔立ちの子だ。蒼真が何か言っている。またなにかからかいの種を見つけたのだろうか。
ひそひそ笑いの中、葵がこっちへ歩いてくる。顔が真っ赤だ。先生はピアノの向こうで、誰も聴いていない曲を弾いている。音大出身らしいけれど、上手いのか何なのか。少なくとも、静かに聴かれないピアノは騒音でしかない。
私のそばまで来た葵は、いきなり頭を下げて、ごめん、と言った。
「蒼真のやつが、ぼくのリコーダーの上半分と、眉村さんの上半分とを取り替えたらしいんだ。知らなくて吹いてしまった。ほんとうにごめん」
間接キスだー、と拓希の声が響く。葵の唇を見つめてしまう。なんだかものすごく生々しい気がする。葵はもじもじしながら言葉を続けた。