あんたに会いたい
昨日、爺さんが死んだ。大往生とでも言うのだろうか、大きな病気や怪我をしない人だ
ったのに、逝くときはあっという間だった。畳を掻き毟らん勢いで泣いていた嫁の肩を抱き、息子がなにも言わず寄り添っていた姿が目に焼き付いている。俺はあんなに取り乱すほど感情を顕にすることはできない。ただ爺さんが育てていた蘭棚のそばでうずくまり、寂しさに包まれるだけだった。
10年前、生まれたばかりの俺は爺さんに拾われた。親のことはまったく覚えていない。兄弟の行方さえも分からない。瞼だってちゃんと開いていたかさえ分からない。一番古い記憶は天井の灯りと毛布の感触、未知の言語と巨大な生物に囲まれた不安と温かいミルクだ。
しばらくのあいだ、自分が犬だという意識はなかった。いつの間にか家の外に住まわされ鎖で繋がれていた。散歩で出会う他の犬も紐で繋がれていたから、そういうものだと思っていた。正月や盆に息子夫婦が帰省すると、自分と違い家の中で過ごすことに気がついた。なんとなく、彼らとは違うと考え始めた。息子夫婦の子どもは俺をワンちゃんと呼んだ。爺さんが好きな春蘭からハルと名付けてもらったのに、爺さんも子どもに合わせてワンちゃんと呼んだ。時間が経つにつれて、自分が人間ではなく犬だと理解していた。しかも家族のようでありながら、本当の家族とは違うことも知った。婆さんが死んだとき、俺は家の中に入れてもらえなかったのだ。
生まれてこのかた、俺には家族がいない。爺さんが死んだあと、息子夫婦がこの家へ住むようになったが、やはり家族のフリをしている。雨の日も雪の日も、俺はもう枯れてしまった蘭棚のそばにいる。息子夫婦の子どもが俺を散歩へ連れて行くけれど、義務感で嫌々なのを感じる。
ある朝、首輪と鎖を繋ぎ止めている革が破れかかっていることに気がついた。案の定、少し遠くまで走ったら勢いで鎖が外れた。俺はこの家を出ようと決めた。人間みたいに家族を作ろうと思った。
身体中の筋肉が興奮しているようだった。いつもの散歩道を、俺は全力で駆け抜けた。知っている犬に何匹か出会った。俺は、人間始めましたと宣言したい気持ちを抑えて彼らを無視した。俺の姿を見て、彼ら自身が気づけばいい。俺たちは人間じゃない。犬なのだと。
見知らぬ景色が目の前に広がっている。どれだけ走ったかもう覚えていない。ここがどこかなんて分からない。ただ俺が目指した家族がある世界とは、まったく異なる場所だとは分かる。俺は人間に追われていた。あいつらは俺を捕まえようとしていた。理由なんて知らない。俺はまだ、なにもしていないはずなのだ。
人間は犬を殺す。最後の最後で知らなくていいことを俺は知ってしまった。爺さんは教えてくれなかった。蘭を育てていたくらいだから殺し方を知らなかったのだろう。蘭を枯らせた息子夫婦は殺し方を知っていたに違いない。俺はもっと早く、あの家を出るべきだったのだ。
生まれ変わったらまた婆さんに会いたいと爺さんは言っていた。じゃあ俺は、爺さんの本当の家族にしてくれ。もう、それでいい。