異世界旅行
「異世界旅行を始めました」
終電終わりの深夜25時。閉店作業中の居酒屋で、突然声を掛けられた俺は戸惑い固まり眉を寄せる。
「はあ」
「最近、ち
ょっと流行っているんですよ。別の世界にいきたい、別の世界にはきっともっと良い……まともな人生が自分を待ち受けているはず。そんな異世界に、数時間だけの旅行をする。そういうプランです」
突然声を掛けてきたのは、どこにでもいそうな、中年の男だ。
ワックスで塗り固められた髪の毛、真っ黒なスーツ、シワ一つないシャツに、ビジネスバッグ、革の靴。
電車で隣に座っても、駅に着けば顔を忘れてしまう。そんな平凡なサラリーマンに見えた。
駅近くの居酒屋はラストオーダーが24時半、閉店は25時半。
今日みたいな平日の真夜中に客は少なく、カウンター席には俺とこの男だけ。それにすっかり酔いつぶれた二人ばかりの親父がテーブル席に突っ伏している。
店員の若い男が困ったような顔をして、モップを片手に駆け回る、いつも通りの風景だ。
……この男を除いて。
「や、ちょっと何言ってんのか分かんないっすね……」
「あなただって、お疲れでしょう。こんな時間までこんな場所で……終電を逃して、近くのカプセルホテルでも取るつもりでしたか? 明日もお仕事でしょう」
男はすらすら、にこやかに話しかけてくる。
いつ、この男が隣に座ったのか記憶にも無い。
気味悪く、少し椅子をずらす。と、男は無言で間を詰めた。
「いや、まあホテルは取るつもりだけど、でも何かそういう……良くわからないの、興味ないんで……」
温くなったビールを飲み干して立ち上がろうとしたが、足がもつれて椅子に落ちた。
「お疲れだ。失礼ですがお見受けする限り、まだお若いようですね。疲労が溜まっていらっしゃる。このままホテルで数時間眠ってもとれない疲れなら、いっそ数時間の旅行で疲れを癒されては」
「……その旅行ってのは……」
なぜ、賛同する気になったのか。
足がもつれて尻を固い椅子に打ち付けた途端、一瞬にして全てが嫌になったのだ。
ここのところ毎日の残業で、まともに家に戻ってもいない。ここのところ、どころではない。
入社して3年、日が変わる前に帰ったことなんて数えるほどしかなく、休みは寝て過ごすだけ。
楽しい仕事なら、よかった。
俺は鞄に詰め込んだ、書類の束を思って溜息をつく。
就職難に喘いで喘いで、結局滑り込めたのは最も苦手な企画職。
毎日毎日パソコンに向かい合って、駄目だしばかりの企画案を作り上げる。馬鹿にされ、破り捨てられることにももう慣れた。
……慣れたつもりだった。
「質問はいくらでもお受けしますよ。我々営業マンはそれが仕事ですので」
にこやかな笑顔の男を見て、俺は急に腹が立つ。
そうだ、俺は営業になりたかったのだ。
昔から口が立つと言われていた。動き回るのも嫌いじゃ無いし、人と話すのも好きだった。
しかし、営業職希望で入ってみれば謎の配置転換で、最も合わない仕事をさせられている。
俺は少しばかり、男が羨ましいのかもしれない。
……きっと、こんな時間まで仕事をさせられる営業なんざ、ブラックであるに違いないが。
しかしこの男を見て、数年前まで胸に抱いていた自分の希望や期待が、堰を切ったように溢れ出す。悔しさと後悔がない交ぜになって、足が震える。
「異世界ね。どこに行けるんだ。変なところじゃないだろうな、それに」
金は無いぞ。と俺は小声で呟く。財布は常に寂しい。いつも仕事終わりに居酒屋へ駆け込んでビールと突き出しだけで終電まで粘るのだ。そして時折、こうして終電を逃してホテルに泊まる。そんな生活である。
「サービス期間中ですので」
男は爽やかな笑顔で笑う。
「無料でのご招待です。変な所なんてとんでもない、ただの異世界です。何が出るかはお楽しみですが」
3年ぶりに、心が沸き立つ音がした。
「ふうん……まあ興味は無いけど」
どうせ蓋を開けてみれば、風俗かなにかの営業だろう。
つれて行かれるのは、雑居ビル。汚い扉の向こうはコンセプト系のガールズバーか、風俗。こうして軽口で騙して男を連れ込み、金でも盗るつもりに違い無い。
「そこまでいうなら、行ってみてもいいけど。ただしほんっとに金はないぞ」
「……結構です」
しかし財布にはカプセルホテル代しか入っておらず、ほかに取られて困るものは一切ない。いっそ、殴られて怪我でもしたほうが、会社を休む口実になる。
……多分、頭が沸いていたのだろう。
「危なかったら警察呼ぶからな」
「どうぞどうぞ」
俺はふらふらと、男の後をつける。
居酒屋の支払は、気付けば男が払っていたようで、そのまま出ても咎められることはない。
「で、その店ってどこにあんの?」
「すぐそこです」
「へえ、この辺にそんな店、あったっけ……」
「ええ、すぐそこですね」
男は、嗤う。
その声が、妙に不気味に響き渡った。
居酒屋の外へ出ると、そこは不思議と闇が深い。
都会とはいえ夜は、どこも暗い。
しかし、今、俺の目の前に広がっているのは真の闇だ。
「なん……だここ……」
嗅いだことのない、土と木々と腐ったような香りがする。
自分の手さえ見えない真の闇。
「ご満足頂けましたか」
どこかからか、先ほどの男の声が聞こえる。
「てめえ、嘘を!」
「嘘じゃ有りません。数時間で戻れば良いだけの話です。戻り方は、とてもシンプルでしてね。誰かを騙して異世界に放り込む、それだけです。運動にもなりますし、寝て過ごすよりは健康的でしょう」
せせら笑うような男の声が響いた。
その姿は全く見えない。この場にはいないのだろう。
段々と闇に目が慣れ、見えて来たのはぞっとするほど美しい、闇の森だった。
目の前を角の生えた馬が走る、天を巨大な鳥が飛ぶ。どこからか、雄叫びのような声が聞こえる。
遠くに見えるのは、人の住む町か。淡い光が揺れている。
ここはどうも、深い森の中らしい。
いつか、ゲームで見たような、そんな風景が目の前に広がっている。
「私ももともとは別の世界から騙されて連れて来られた口でして」
男の声だけが続いた。
「数時間と言いましたが、そちらの世界とこちらの世界のスピードは異なりますので、そちらで一時間過ごせばこちらは1日。2時間過ごせば20日……おきをつけて」
笑う声は悪魔のようだ。しかし、俺は不思議と、腹も立たない。
「誰かを騙して異世界に放り込む。それだけでいいんだな?」
ジャケットを脱いで腰に巻き付ける。
鞄の中に入っていた企画案の束をその場に捨てて、軽くなった鞄を背負う。
「おや、存外、楽しそうですね」
「そうだな。俺は」
妙に楽しくなってきたのだ。そうだ、俺は、
「営業職をしてみたかったから」
と、胸を張る。
疲れは吹き飛んだ。言葉が通じるかどうかは、問題にぶち当たってから考えればいいことだ。
そうだ、三年前まで俺は、そんな人生を歩んできていたじゃないか。
「でもせっかくだから1日くらいはここですごすよ。そうすれば……」
自分が消えた職場を、思い浮かべる。きっと最初は大騒ぎだ。しかしそのうち何事も無かったように席は消え、皆が自分を忘れるに違い無い。
「まあ」
男はあきれ果てるように息を飲み、やがてその声も小さくなっていく。
「罪悪感を抱かせない人だ。ああ、良かった」
「お前、もう帰るのか」
ええ。と、途切れそうな声で男は答える。
一人きりになるのは恐ろしかったが、背負ったビジネスバッグの軽さが心を沸き立たせる。
「私は10年を無駄にしました。元の世界はどれだけ時が経っていることか。きっと元の世界に戻っても、私を知るものは誰もいない」
男は寂しそうに、しかしどこか楽しそうに呟いた。
「それこそ、異世界でしょうね」
あとは闇の音だけが響き、そして男の声は完全に消えた。
平凡なビジネスマンにしか見えない男の顔など、もう忘れてしまう。
「……じゃあ、俺も異世界に戻るために頑張るか」
腕をまくって伸びをする。
いつか、眠気などどこかに消えて無くなっていた。