継ぎ言葉 〔賢治の妹トシ〕
さながら赤子にするように。兄さは恥じらうわたしの手をと
って、土いじりで節くれた指で、いつまでもいつまでも擦るのです。吹き付ける風が、窓を乱暴に叩きました。スペイン風邪の憎らしさよ。本女の華やかな日々も、教鞭を振るう夢さえも、悲しいほどに白いこの獄屋に封じられました。
兄さが憎らしい。しとなる女の付き添えに、来る日も暮れる優しさが恨めしくて堪りません。どうして病人は意固地が悪いのでしょう。兄さのトシは、こんなに意地悪に変わり果ててしまいました。
「あめゆじゅとてちてけんじゃ」
兄さは、校庭の端で拾った団栗のように目を丸くすると、少しばかり窓を窺って、
「いいよいいよ」
と、笑って見せました。そして何の躊躇いもなく、ベッドの床から真鍮に似たアルマイトの手洗いを持って、病室を飛び出しました。サラサラと鳴きやまない霙がひっきりなしに落ちていて、擦り硝子のように外は見えません。外套も羽織らず外へ出た兄さは、懸命に空へ向けて手洗いを掲げているでしょう。
「兄さ兄さ……」
身勝手な寂しさに身をよじれば、病室の扉は、順番を待つ火葬場の扉のようで、涙が落ちるたびに業火で涸れるのです。先立つ不義理をお許しください。兄さま。どうかお父さまと仲よくなすってください。今生の別れのこの時に、心残りはそれだけでございます。
天水桶に落ちた鼠のように、すっかり濡れた兄さは、童のように鼻を垂らし、それでも屈託のない笑みを浮かべて戻って来られました。差し出したアルマイトの手洗いには、波打つ兄さの涙の海に、ほんの僅かな霙が浮いていました。
「あめゆじゅとてちてけんじゃ」
わたしは、ふたたびせがみました。
「あめゆじゅとてちてけんじゃ」
「トシや、そんなに雨雪ば欲しいのがい?」
兄さ。ありがとうでがんす。ありがとうでがんす。どんなに心で思っても、言葉は霙を求めて止みません。
「そうがそうが。したらば、兄さが田んぼさいっぱい積もった雪ば集めでな。トシさ大きな雪だるまば拵えるべ」
兄さはそれきり外へ出ず、ずっとわたしの手を握っていました。
『部屋さ霙が降ってきたよ』
白濁した兄さの顔がどんどん見えなくなって、辺りは雪が眩しい花巻の田んぼになりました。
死にだくねえ。トシは、兄さと離れでぐねえよ。
「あめゆじゅとてちてけんじゃ」
もはや用を足さないこの言葉を、兄さは本に書いてくれる。したら、トシは兄さといつまでも一緒にいられる。微かにそう思いました。