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第52回 てきすとぽい杯〈夏の24時間耐久〉
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継ぎ言葉 〔賢治の妹トシ〕
 投稿時刻 : 2019.08.18 03:17
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継ぎ言葉 〔賢治の妹トシ〕
白取よしひと


 さながら赤子にするように。兄さは恥じらうわたしの手をとて、土いじりで節くれた指で、いつまでもいつまでも擦るのです。吹き付ける風が、窓を乱暴に叩きました。スペイン風邪の憎らしさよ。本女の華やかな日々も、教鞭を振るう夢さえも、悲しいほどに白いこの獄屋に封じられました。
 兄さが憎らしい。しとなる女の付き添えに、来る日も暮れる優しさが恨めしくて堪りません。どうして病人は意固地が悪いのでしう。兄さのトシは、こんなに意地悪に変わり果ててしまいました。
「あめゆじとてちてけんじ
 兄さは、校庭の端で拾た団栗のように目を丸くすると、少しばかり窓を窺て、
「いいよいいよ」
 と、笑て見せました。そして何の躊躇いもなく、ベドの床から真鍮に似たアルマイトの手洗いを持て、病室を飛び出しました。サラサラと鳴きやまない霙がひきりなしに落ちていて、擦り硝子のように外は見えません。外套も羽織らず外へ出た兄さは、懸命に空へ向けて手洗いを掲げているでしう。
「兄さ兄さ……
 身勝手な寂しさに身をよじれば、病室の扉は、順番を待つ火葬場の扉のようで、涙が落ちるたびに業火で涸れるのです。先立つ不義理をお許しください。兄さま。どうかお父さまと仲よくなすてください。今生の別れのこの時に、心残りはそれだけでございます。
 天水桶に落ちた鼠のように、すかり濡れた兄さは、童のように鼻を垂らし、それでも屈託のない笑みを浮かべて戻て来られました。差し出したアルマイトの手洗いには、波打つ兄さの涙の海に、ほんの僅かな霙が浮いていました。
「あめゆじとてちてけんじ
 わたしは、ふたたびせがみました。
「あめゆじとてちてけんじ
「トシや、そんなに雨雪ば欲しいのがい?」
 兄さ。ありがとうでがんす。ありがとうでがんす。どんなに心で思ても、言葉は霙を求めて止みません。
「そうがそうが。したらば、兄さが田んぼさいぱい積もた雪ば集めでな。トシさ大きな雪だるまば拵えるべ」
 兄さはそれきり外へ出ず、ずとわたしの手を握ていました。
『部屋さ霙が降てきたよ』
 白濁した兄さの顔がどんどん見えなくなて、辺りは雪が眩しい花巻の田んぼになりました。
死にだくねえ。トシは、兄さと離れでぐねえよ。
「あめゆじとてちてけんじ
 もはや用を足さないこの言葉を、兄さは本に書いてくれる。したら、トシは兄さといつまでも一緒にいられる。微かにそう思いました。
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