僕の部屋のジェシカ
部屋の四隅が丸みを帯びてきた。煙が身体に馴染んできたのだ。そろそろ灯りを消さないと目が痛くなる。
冷えたビー
ルが食道を伝い胃に落ちる。そのとき、ぽちゃっと音がする。ボロいラジカセからモータウン系が流れている。
〈Up side down. Boy, you turn me.〉
ダイアナ・ロスが耳元で囁いている。でも彼女にはお引取り願いたい。
ベースが聴きたい。ベースの音だけを聴こう。そう念じると僕の身体はスピーカーになり、重低音に震えだした。そのうち、僕はバスドラとベースのタイミングが微妙にずれていることに気づく。そのことが気になってしかたがない。
「あれに気がついたのは世界中で俺だけだ」
僕は右隣に座るクヌートに言ってみた。
「何のこっちゃ? おまえはもうストーンドなの?」
そう応えると、クヌートは水パイプを咥え、煙を吸い込み息を止めた。このすけこまし野郎。
僕はカリフォルニア州立大学サンノゼ校のキャンパス内にある寮〈ロイス・ホール〉に寄宿する学生である。
いまは夏休みで、ほとんどの学生はホームタウンに帰省している。寮に残っているのは僕のような留学生と管理人のウィルとウィルの娘のジェシカだけだ。ジェシカもアート・メィジャーの学生である。
クヌートの部屋のルームメイトも帰省した。その部屋で僕ら三人は車座になって、タイ産の上物を廻している。
オスロにあるというクヌートの実家から送られてきたノルウェー産のキャビアは、でかい歯磨きチューブのような容器に詰められている。僕らは煙を吸い込む合間にそれをクラッカーに擦りつけ、口に運ぶ。クラッカーが口中で砕ける音は、まるで土木工事の掘削機のように煩く感じられる。
「臭い、と言っても過言ではない!」
僕は指に付いたキャビアを舐めとり、そう叫んでみた。学食のメニューは肉類ばかりで、水産物を口に入れるのは久しぶりなのだ。左隣に座っていたジェシカが「賛成」と歌うように応え、右手を上げる。
ジェシカの脇から発せられる脂が僕の鼻腔を刺激する。僕はジェシカがいい、と思う。
三人がストーンドになるころには、キャビアもクラッカーもなくなってしまった。クヌートが「ハングリー!」と叫ぶと、僕は自国の言葉で空腹を訴える言葉を吐く。「腹減ったー!」。ストーンドの最中には、空腹感も伝染しやすいのだ。
僕たちはロイス・ホールから一番近いファースト・フード店に向かう。途中、キャンパス・ポリスの巡回と鉢合わせするが、容易にそれをやり過ごす。何故か判らないが、ハッパはアルコールと違って瞬時に通常の状態に戻ることができる。
信号を渡ればそこがハンバーガーのファースト・フード店だ。僕はフィッシュバーガーをふたつとコーラのミディアムをテイクアウトした。
ホカホカの湯気が手に持った袋から立ちのぼる。僕らは歩道に立って信号が変わるのを待っている。信号が変わるまでがすごく長く感じられる。まだストーンドは持続しているようだ。ストーンドの最中は色んなことがいつもとは違う。例えば信号は、通常より強い電圧で発光しているように思える。赤や緑の光の玉は輪郭がぼやけ、でっかく見えるのだ。星空を見上げれば、そのまま大空に吸い込まれそうになる。
ストーンドで気が大きくなった僕は、横断歩道を渡る途中で、ジェシカに近づき肩に手を廻してみた。ジェシカは僕を嫌がらず、腕を僕の腰に巻きつてきた。僕は、何の問題もないのだ、と自分に言い聞かせる。そう言い聞かせながら背中にクヌ―トの視線を感じていた。
先週末の深夜、バスルームから出てきた僕は、廊下を歩き自室に戻る途中で、クヌートの部屋から出て来るジェシカと出くわした。ジェシカは僕と顔を合わせることなく、小走りで自室に戻っていった。ビーチサンダルの音がペタペタと廊下に響いた。Tシャツにジョギングパンツ姿のジェシカの肢は小鹿のようにしなやかで陶器のように白かった。
4thアベニューを曲がると、ロイスホールのエントランスが見える。管理人部屋の窓からウィルがいまいましそうな顔で僕らを見ている。そろそろ深夜巡回の時刻なのだろう。僕はウィルと目が合いそうになって夜空を見上げた。大きくて赤い月が空の低い位置に在る。まるで僕らを祝福しているかのように。
ジェシカ、今夜は一緒にいよう。
僕の部屋へようこそ。
了