神は隣にいまし、小さき世は事も無し
これは夢だ、と気が付いたのは、自分の体が小さく頼りなくな
っていたからだった。
『いいかい、お前はこれからこの人間を殺さなければいけないよ』
しゃがれた声に、私の体は意思に反してゆっくり動く。錆びたブリキよりも緩慢に顔を動かせば、皺皺の手が私の頬を潰すように掴みながら揺さぶって、無理やり顔を上げさせた。
皺塗れの醜い老婆は、手に持った写真を押し付けるようにして私に見せている。私が顔を逸らそうとすれば、老婆の手に力がこもった。痛い気がした。夢なのに、痛い気がした。
『ちゃんと見な。こいつだよ、こいつを殺すんだよ』
泣きたい気持ちで写真を見れば、そこにいたのは黒い枠の中で曖昧に笑っている白黒の私で。
『殺すんだよ。ちゃんと殺すんだよ。殺すんだよ……』
返事は、と唾のかかる距離で言われて、自由の利かない体は勝手に頷いた。それと同時に、私は吐き捨てるように外に投げ出された。
手入れのされていない庭に生えるのはトゲトゲと硬い草で、私はそこに尻をつきながら老婆を見上げていた。老婆の背丈は家より大きくて、彼女はおかしな位置にある腰をぐにゃりと曲げて私を見下ろしている。
『はやく行きな。はやく殺すんだ』
はやくはやく、と蹴りだされて宙を舞った私は、今度は真っ暗闇の中にいた。
手には鋭いナイフがあって、恐れをなして思わず放ればそれは闇の向こうに消え去って、そのすぐ後に私の背中に刺さったようだった。ナイフは私の背中を鞘にしているはずなのに、私の手には、なぜかまたナイフがあった。
放る。刺さる。手の中にある。その繰り返しを何度も何度も。
気が付けば、私の背中はナイフだらけになっていた。
俯瞰視点で自分を見ながら、私は『不格好なハリネズミみたいだ』と思ったが、『いや、ハリネズミに失礼か』と思い直した。
だってそうじゃないか。私の出した針は、全部私を刺して貫いているんだから。
なんだかおもしろくなって笑ったら、今度は私は宙ぶらりんになった。
慌てたのは、最初だけだった。だって、首に食い込む縄は私の全体重を支えていて、しかし、私の喉の奥底までは食い込むことはないのだ。
私は笑って笑って、それから泣いた。
だってきっとそういう事なのだ。
深層心理が、夢を伝って這いあがってきたのだ。そういう事なのだ。
ああ、まだ私はきっと、死にたいのだ。死にたくないのに、死にたいのだ。だからこんな夢を。
周りを包んでいる暗闇が私の心に入り込んで、心を黒く塗りつぶしていく。
死んでもいい。未練なんかない。できれば、眠ったまま――と思ったところで、柔らかな石鹸の香りがあたりに漂っていることに気が付いた。
良い匂いだった。私の好きな匂い。その香りは私の心をじゃぶじゃぶ洗って真っ白にしてくれたようだった。
『それ、痛くないの』
優しい声に気が付いて目を開ければ、辺りは自然公園へと姿を変えていた。
『それ……って、どれ』
『それだよ、それ』
私は背中のナイフの事を言われているのかと思ったけれど、どうやら違うようで。目の前に立つ女性は、私の膝を指さしている。
『あれ、いつ切ったんだろ』
『もー、鈍感だねぇ。ほら、絆創膏貼ってあげるからベンチに座って』
既視感のある流れに戸惑う私とは裏腹に、私の体はよどみなく言葉を発してはベンチに動く。
『これくらい、ほっといても治るよ』
『だめだめ、傷になっちゃうよ。ほら、足』
私は目の前の彼女のつむじを見下ろしてから、空を見上げた。飛び交う鳥たちの声に耳を澄ませて――
******
――そこで目が覚めた。
開いているカーテンの向こう、マンションの最上階から見える空はまだ若い朝の青だった。雀のさえずりとコーヒーメーカーの音が気持ちよくて枕に頬を寄せれば、「あ、起きた」と優しい声が降ってきた。
「おはよ」
夢にも出てきた彼女が、ベッドの端に頬杖をついて笑っている。
「おは、よう……」
「魘されてたよ」
「……えぇ、起こしてよぅ……」
言いながら寝返りを打てば、ベッドに染みついた彼女の優しい石鹸の香りが鼻腔を満たす。今、二度寝すればいい夢を見られそうだった。
「ねぇ、何か夢でも見てた」
「……あくむ、みてた……」
「えー、どんな悪夢」
私は横目で彼女を見て、それから枕に顔を埋める。
「じさつ、するゆめ……ないふで、せなかをぐさぐさって……それから、くび、つって……」
「やだ、やめてよ。そんな夢見ないでよー」
だめだめ、と言いながら彼女は細い指で私の髪をかき混ぜる。温かい。
「そんで、そのあと……」
顔を埋めた枕の中で欠伸を噛み殺す。枕越しにも香ってくるコーヒーの匂いに、少し、頭が冴えてきた。
「その後、君がでてきた。昨日の公園の、絆創膏」
「へぇ」
「痛くないの、って」
私は観念して枕から顔を上げる。そんな私を、彼女は猫のように大きな目で見つめている。
「あ、じゃあ最終的にはいい夢じゃない」
「まあ、そう……かな。うん、そうだね」
そこは断言しなさいよ、とコロコロ笑う彼女から石鹸の良い匂いがする。大好きな匂いだ。
私はベッドから摺り降りて、彼女の腹に抱き着いた。温かい体温と鼓動と、石鹸の匂い。彼女の匂い。私の神様の匂い。
「甘えるねぇ」
「だって、最後が良い夢でも前半が悪夢だったことには変わりないんだもの」
細い指が私の背中を撫でている。とんとん、とゆっくりリズムを刻んでいる。
彼女の胎にでも入りこんだ気持ちになりながら、私はぽつりと呟いた。
「あのね」
「うん」
「夢の中でも、こっちでも」
「うん」
「助けてくれて、ありがとね」
「気にしなさんな」というのんびりした声を聞きながら、私はゆったりと柔らかな溜め息を吐いて、静かに目を閉じた。