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第10回 文藝マガジン文戯杯「気づいて、先輩!」
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気づいて、先輩!
 投稿時刻 : 2020.02.06 09:44 最終更新 : 2020.02.06 21:14
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- 2020.02.06 21:14:01
- 2020.02.06 21:04:24
- 2020.02.06 20:58:18
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- 2020.02.06 09:44:27
気づいて、先輩!
bananafish


 うかりクリーンルームから出てきたようなツナギを着たその女に、加藤カズヒコが気づいたのは、本格的な暑さを予感させる初夏の朝、勤務先のクンタムテクノロジー社開発ラボへ出勤する途中だた。
 女は誰かを探しているのか、勤め先に向かて急ぐ人の列を熱心に見つめている。研究機関がひしめくこの界隈で、いたいどんな会社が防護服で出歩くような非常識な女を雇ているのかと、加藤はツナギの肩に胸に背中に目を走らせたが、社名らしきものが見つからない。顔立ちからすると東洋人だが、髪は淡いブルーブロンドとでも呼べそうな見たことのない色をしていて、どういう製法なのか継ぎ目の見当たらないツナギは、未来から消防士がやて来たのかと思うほどに銀色にテカテカ光ている。その銀色が地味なスーツの群れのなかで異様に目立ていた。
 昼、ラボの食堂で鯖味噌定食を食べながら、加藤はふと、朝に見かけた女を思い出した。どうせ素材メーカーが遊び半分に作たサンプルを学生気分の抜けない若い社員がふざけて着ていたのだろうとひとり得心して、仕事に追われているうちに、帰るころにはすかり忘れていた。
 それでも翌日に、またその次の日にも、同じ場所でツナギを着たあの女を見かけるに至り、不穏なものがモヤモヤと胸に湧きあがるのを抑えられなかた。すぐに逸らせたとはいえ、目を合わせてしまたことが悔やまれた。
 今朝、女は歩道に座り込み、どこで拾てきたのか薄汚れたキリーグをデスク代わりに型落ちのノートパソコンを開いている。ブツブツとつぶやきながら一心不乱にキーボードを叩くその形相は鬼気迫り、いかにもいわくありげなその風情が、いつもの通勤の列に不自然な蛇行を生んている。人影に隠れて通り過ぎようとする加藤を見つけ出し、まるで古い映画でも見ているようなノスタルジクに潤んだ目で追う女の視線が、いそう不安を掻きたてた。

「どこかの研究所でキリアを潰されたメンヘルだろ」
「上司とデキて捨てられたらしいぜ」
「彼女まだ新卒くらいじない? かわいそうに」
「うろついてるルートからするとクンテク社あたりが怪しいな」
「加藤さんのことじと見てたらしいよ、イケメンだもんねえ」
「どうやら加藤氏のことを入り待ちでフローしてるようですね」
「怖いなあ、リケジ
「カズヒコちん、やばい研究してるらしいからひとして産業スパイかも」
「画期的な研究らしいけど行き詰まてるて聞いたわ」
「あの人チームプレイが苦手だからなあ」

 自分がどんな仕事をしているかとか、どんな研究をしているかとか、そんなことを口外しようものならそれこそ未来を失うことになりかねない反動からか、この界隈では、やたらと噂やデマが広がるのが早い。そして今まさにその最先端のトレンドがツナギ女だた。
 もちろんそれは加藤の耳にも入ている。どこから漏れたのか、噂は加藤の研究についても痛いところを突いていて、足踏みしていることへの焦りは募るばかり。見えているのに掴めないところがもどかしい。あと一息。その一息が遠かた。

 ツナギ女が現れて五日目の朝。
「加藤先生ですね、お時間は取らせません、少しだけ話を聞いてください」
 本社での早朝会議を終えていつもより遅くラボに向かていた加藤の前に、銀の塊が立ちはだかた。風呂に入ていないのかブルーブロンドの髪が頭に貼りつき、唇は乾いてひび割れ、匂ている。
「わたし、ミカ・サデスと言います。遭難してるんです」
 幸い通勤時間を外れていて人通りがほとんどない。何も見ず、何も聞かなかたことにしようと、下を向いて通り過ぎようとしたとき、女が力なくへたり込んだ。加藤はイケメンで臆病ではあるが、決して優しくないわけではない。
「きみ、大丈夫かい」しかたなく声をかけると、女がにじり寄て、近い方の腕にすがりついてきた。
「お願いです。少しだけ話を聞いてください。損はさせません」
 なんだか宗教か危ない儲け話のようでいかにも怪しいが、潤んだ瞳で見上げる女の真剣さに、またく根拠はないけれど、嘘はないような気がする。フミニストを自認し、周囲にも常々そう公言している身としては放てはおけない。
「きみ、ひとして腹減てるんじない?」と聞くと、みるみるミカの目に涙が溢れた。

 いちばん近い喫茶店に入り、金を持ていないというミカにスパゲテを注文してやる。
 コプの水を加藤の分まで一気に飲み干して「これを見れば先生の研究は完成するはずなんです」と言いながらミカはキリークからノートパソコンを引張り出した。起動させて、壁の時計で時間を確認すると、いくつかの数値を打ち込んでからデスプレイを加藤の方に向けて差し出す。
「パソコンは差し上げます。私のことはこれ以降すかり忘れてください。いえ、忘れていただかないと困るんです。研究が完成したらそれは先生おひとりの成果です」
 研究者なのか、どこに属しているのか、なぜこの辺りをうろうろしているのか、聞きたいことは色々あたが、注文したスパゲテが運ばれてきて、ミカの思考がストプするのがわかた。「絶対、完成させてください。お願いします」と言うが早いか、掃除機のような猛烈な音を立ててスパゲテを啜りだした。
「先生の……究が……うま……いけば……今か……二十分後……助け……くる……です」口いぱに頬張りながら喋るので、なにを言ているのかさぱりわからない。食べ終わる前に、ミカがもう一皿追加した。
 パソコンのデスプレイには加藤が取り組んでいる馴染みの数式が表示されている。興味深いのは、それにいくつかの変更が加えられているのと、新しい項が導入されていることだた。加藤は魅入られたように数式から目が離せなくなた。ミカの立てる激しい咀嚼音が、あたかも輝かしい未来をノクする運命の音に聞こえる。
「詳細についてはフイルにまとめてあります。先生なら理解できるはずです」一皿目を食べ終ると、それだけ言てすぐに二皿目に取りかかた。ようやく食べ方が人間らしくなている。
 おかわりのスパゲテも食い終わたミカは満足げに喉を鳴らして水を飲み、ひと息ついて「あらぬ噂を立てられる前に先生はもう行てください」と、用は済んだとばかりに加藤をせき立てた。そして「そのパソコンは盗品ですからフイルをコピーしたら処分しちてください」と付け加えた。
 おごりでメシをたらふく食ておいてあらぬ噂もないもんだ。しかも、あれほど目立ておきながら、誰の注意も引いていないと思ているフシがあることに呆れる。おまけに盗品ときた。しかし、そんなことは、もうどうでもよかた。数式を眺めているうちにわかてきた。これは使える。行き詰まていた研究に解決の糸口が見える。今までぼんやりしていたものが隅々まではきり見えてきて、興奮で体が震えた。
 ここで、若干の冷静さを取り戻す。この式を使うとなると、女を共同研究者にするべきではないのかと、頭の中で小さく囁く声がする。一方で、こんな見ず知らずのホームレスは忘れろ、パソコンを持てささと席を立つんだという叫びが頭の中にこだまする。この女も自分のことは忘れろと、そう言たではないか。余計なことは知らなくていい。ここまで進めたのが誰であれ、なんといても早いもの勝ちの世界だ。
 たちまち決断が下された。一万円札を一枚テーブルに置き「お釣りは取ておきなさい」と言い残し、加藤はパソコンを抱えてそそくさと店を出た。イケメンで臆病で優しいが、加藤はなにより独占欲が強かた。

 ミカは大きなげぷをひとつして、加藤の後から店を出た。
 急ぎ足で逃げるように遠ざかていく加藤と入れ違いに、銀色のツナギを着た背の高い男が近づいてくる。その姿を見つけたミカが全身に乙女を爆発させて「センパーイ!」と叫んで駆けだした。
「ミカ! 無事でよかた。二〇二〇年六月十五日十時三十二分、喫茶黒船の前。ぴたりだ」
「さすがです、先輩」
「オリンピクが目的だたから、迷子になるとしたらここ半年前後だろうて考えててピンときたんだ、〝加藤理論〟が二〇二〇年だて。量子テレポーテーンは空間では加藤理論でうまくいくんだけど、空間から時間に拡張しようとすると無意味な定数項が出てくるていうのは講義で聞いただろ。そいつを無視すればうまくいくことがわかていたから最近は定数項を抜いた形で教わるんだけど、くさいと思て調べてみたら、案の定、その無意味な定数項てのは時間座標と位置座標だたというわけさ。おまえが加藤カズヒコに直接会て紛れ込ませたんだろ」
「またくビンゴです。先輩ならきと気づいてくれると思てました。でも、それて、過去変でまずいことになるんでしうか」
「心配すんな。世界なんてタイムパラドクスが起こるたびに分岐してどんどん重なていくだけなんだから。時空てのは想像以上に柔軟なんだ。それにしても、量子化してないコンピタでよくあれを計算できたなあ」
「そりもう必死でした。先輩が来てくれなかたら、私ひとりじ帰還ルートがわからなくて、この時代で遺跡になるとこでした」
「バデを遭難させるなんて伝統ある歴史探検部にあるまじき失態だから俺も焦たよ。とにかく無事でよかた。さあ、帰ろう」そう言て先輩がミカに歩み寄ろうとしたとき「あ、ダメです。それ以上近づいてはダメです」とミカが慌てて手を振た。
「なんだ? やばいウイルスでも拾たのか?」
「違います。そういうのとは違います」
「ならいいけど。それより……おまえ、ちと匂うな」
「そんなこと、気づかなくて、いいです、先輩」

 二人は、ちと離れて、仲良く未来へと消えましたとさ。
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