海の底の方程式 ~ どの手でいくか ~
「
――なんですかそれ? 心理テストですか?」
新たに海底施設に着任した若い研究員が訊いた。
「いやいや単なる世間話だよ、実際に起きた軍の極秘事項だがな。あれは不幸な事故だ
った」
湯気の上がるポットからコーヒーを注いでひとつを新任の研究員に差し出た年配の研究員。その口元には微かな笑みが浮かんでいた。
「極秘事項ですか?」
「ああそうだ。だから内密にな。ところで実際どういう結果になったと思う。つまり潜水服を着られなかったのは誰かということだがね」
「そりゃあ、やっぱりリーダーじゃないですか。例えば船の船長は転覆するとき最後の一人が脱出するまで残るっていいますよね」
「ふうん。そう思うかい」
「だって、やっぱり世のフェミニズム風潮として女性に着せないわけにはいかないし、これからの未来ある若者を死に至らしめるというのもおかしな気が……」
「それは君が若者だからそう思うんじゃないのかね?」年配の研究員がカップを口元に当て熱いコーヒーをすすると、言葉を継いだ。「経験豊富な優秀な教官が一人いれば、若者を育てるのは可能だが、若者をいくらかき集めてもその中に生きた経験を持ったものはゼロだ」
「それは、ひとつのものの見方ですよね」若い研究員は表情を曇らせる。
「そうだよ。単なる世間話だ。だが、そのような会話をして若者は自分が潜水服を譲ると言い張ったらしいよ。たいしたヒロイズムだね」
「つまり、若者が残ったんですね」
「いやいや話を急ぐんじゃない。実は女性も断ったらしいんだ」
「シングルマザーの女性がですか?」
「そう、彼女いわく、私はフェミニズムを盾にして自分の目先の利益に飛びつくような被害者ヅラが好きな女とはわけが違う。とね」
「タフですね」若者は苦笑いした。
「そうだな。子供のことはこの任務についたときから覚悟してたし、子供にもそう教え諭してあるということだったから用意周到だといえるね」
「じゃあ、3人とも自分が着ないと言い張ったんですねえ」
「とはいえ、事態は切迫している、ギリギリまで事態の好転を期待するとはいえ、こういうことは決めておかねばならん」
「どうやって決めたんです?」
「彼らは結局、この世の中で最も公平な決め方で決めたんだ」
「どんな手を使ったんです?」
「ジャンケンだよ」
「……ジャンケンですか。それはまた」
「不服かね。この世にジャンケンを超える公平な方法はないんだよ」
「なるほど、確かに考えてみれば公平ですね。ただ、とても深刻なジャンケンです」
「だな。だが世の中にはそういうこともあるということだ」
「結果はどうなったんですか?」
「結果とは? 誰が負けたかということかい?」
「それもですが、潜水服を着た二人が助かったのかということもです」
「結局ジャンケンに負けたのはリーダーだった。だが幸運なことに基地に酸素がなくなるギリギリのところで奇跡的に嵐は止んだ。しかし軍は助けに来なかった」
「でも、潜水服を着た二人は助かったんですよね」
「いいや」年配の研究員は首を振る。
「そ、そうですか」とうなだれる若い研究員。
「実は助かったのは3人ともだ」と驚くことを言う。
「本当ですか?」目を見張った。
「本当だ、ジャンケンに負けたリーダーというのはかくいう私のことだからね」
「そうなんですか、良かったです。でも何故?」
「何故? そもそも何故軍は助けに来なかったのか」
「そうですね、そういえばおかしな話だ」
「ちなみに、その事故が起きたのはこの海底施設だ」
「あ! なあんだそういうことか、あなたも人が悪い」と若い研究員は朗らかに笑う。
「そう、この海底施設が立っているのは海面から20メートル下、陸地の海岸からも30メートル離れているだけだからね。嵐で海が荒れていなかったら潜水服の装備なしでも、水深10メートルで水圧に順応するための3分間の停止をはさめばなんとか陸に上がれたんだ」
「ふふふ叙述トリックですか」若い研究員はすっかり冷めてしまったコーヒーを飲み干す。
「言っただろ、単なる世間話だよ。ただダイバー訓練をしていたとはいえ、あの年齢で5分もの無酸素状態は体にこたえたがね」年配の研究員はあいかわらず口元の笑みを絶やさぬまま肩をすくめてみせた。