てきすとぽい
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第59回 てきすとぽい杯
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全部玉ねぎのせい。
(
珠樹
)
投稿時刻 : 2020.10.17 23:43
字数 : 1697
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全部玉ねぎのせい。
珠樹
キ
ッ
チンで二人分の夕食の用意をしていると、玄関の扉が重たい音を立てた。
短い廊下からリビングへと重い足音が近づいて来る。
「ただいま
ぁ
、杏。今日の夕ご飯何
ぃ
?」
ガラス戸を開けて顔を覗かせたのは、この部屋に一緒に住む私の恋人だ。背が高く、引き締ま
っ
た体つきの彼は、深い藍色のスー
ツがよく似合う。
「おかえり、颯太。今日はビー
フシチ
ュ
ー
だよ。外は寒か
っ
たでし
ょ
う? 先お風呂入
っ
てきたら?」
「うん、す
っ
ごい寒か
っ
た。なのに一日外回りでさ、ほんとツイてない」
杏は寒くなか
っ
た?
温もりを探すように私の背中にへばり付いた彼は、そのまま私の腰に手を回してうなじに頬を摺り寄せた。
颯太の着ているスー
ツの厚い生地が、外の冷気を吸
っ
てひんやりしている。少し雨の匂いもした。
「私はず
っ
とオフ
ィ
スにいたもの。大丈夫よ」
そんなにく
っ
ついたら何もできないじ
ゃ
ない。少し離れて。
不埒な手が、私の身体のラインをなぞるように腰から上へと上が
っ
ていく。いたずらな彼を諌めるように身をよじ
っ
て、冷たいと思いつつも突き放すような言葉をかける。
だ
っ
て、そうでもしないと夕飯の準備どころじ
ゃ
なくな
っ
てしまう。
「ち
ぇ
、冷たいな
ぁ
。まあいいや、美味しいご飯期待してるよ」
お風呂、入
っ
てくるね。
離れ際に首筋に軽く口づけて、彼はリビングを出て行
っ
た。少しの間を置いて、お風呂場から上機嫌な彼の歌声が聞こえて来た。
この部屋は、幸せな音で満ちている。
悲しい匂いばかりがしていた、あの頃とは違
っ
て。
学生時代に付き合
っ
ていた彼は、海の匂いがする部屋に住んでいた。
「海が見える部屋
っ
て、いいと思わない?」
「そうだね」
彼は、海が好きな人だ
っ
た。
初めてのデー
トは、シー
ズンも終わりかけた海水浴場。二回目は、海の傍にあるくたびれた水族館。その次は、早朝の海辺に朝焼けを見に行
っ
た。
「面白くないだろ? ごめんな」
「そんなことない。楽しいよ」
それは本当だ
っ
た。好きな人に尽くすことしか知らなか
っ
た私は、楽しそうに海へと向かう彼の車の助手席で、飽きることなく男の整
っ
た横顔を眺めていた。
大学を卒業するころ、彼との付き合い方は一変した。彼が小さなモデル事務所にスカウトされたのだ。
「見て、杏」
嬉しそうに雑誌のペー
ジを掲げる彼の顔はキラキラと輝いていて、私はそれだけで胸がい
っ
ぱいにな
っ
た。
「すごいね! サクセスストー
リー
の始まりだ」
私はそう言
っ
て、小さなシ
ャ
ンパンを二人で飲んだ。海の匂いがする、彼の部屋で。
言葉の通り、彼は順調にキ
ャ
リアを積んでい
っ
た。それに反比例するように、私との時間はどんどん少なくな
っ
た。
連絡の間隔が開き、電話がつながらなくな
っ
た。会う時間よりも、会えない時間を指折り数えるようにな
っ
た。
「ごめんね。杏」
最後に彼と会
っ
た夜、彼は私に何度も言い、そして殊更優しく私に触れた。私は彼に何も言えず、ただただ悲しくてひたすら泣いていた。
そうして彼は海の匂いで満ちた部屋を出て行き、私の前から姿を消した。
忘れられない思い出と、悲しい匂いを残したまま。
『
――
今日のゲストは、今大人気のモデル・長谷川海人さんです』
料理のBGMに、と何の気なしにつけていたテレビの音に手が止まる。ふ
っ
、と顔を上げると、私が昔愛してやまなか
っ
た
――
今も忘れられない
――
男の顔がそこにあ
っ
た。
『よろしくおねがいします』
――
俺のことなんて、忘れて。杏。
「お風呂あが
っ
たよー
」
濡れた髪をタオルで拭きながら、颯太がリビングへと戻
っ
て来た。慌てて目を伏せ、シチ
ュ
ー
をお皿に盛りつける。
「ち
ょ
っ
と待
っ
てね、今用意するから」
「ゆ
っ
くりでいいよ。
……
あれ? 目が赤いね。どうしたの?」
視界い
っ
ぱいに、颯太の顔が広がる。私を心配して眉尻を下げる、どこまでも優しい彼。
「ううん、何でもない。
……
玉ねぎ切
っ
てたから、そのせいで涙が出たのかも」
「それならいいんだけど」
そ
っ
と私の手を撫でる優しい手に、幸せを噛みしめる。これ以上なんて、望んだらバチが当たりそうだ。
「うん、ありがとう。颯太。
……
大好き」
「俺は愛してるよ」
だから、鼻の奥に蘇る海の匂いは、玉ねぎのせいにして忘れてしまおう。
もう二度と、思い出さないように。
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