いまこのとき
「これさあ、あれだよね」
数年前、まだ働きはじめたばかりのことのこと。先輩の言葉を思い出す。私の書いたプログラムを見て、だけど数秒も眺めずに先輩は言
った。
「なんですか?」私は先輩に尋ねる。
「なんて言うんだっけ。そう、コードの臭い。あれだね、あとで参考になりそうな記事送るからもうちょっと直そうか」
臭い? なにを言っているんだ。
先輩はすぐに去ってしまった。なにかあるならもうちょっと教えてほしいが、あとで参考になるものを送ってくれるというからそれを見ればいいだろう。
それまでは自分で考えるとして、「コードの臭い」という言葉が気になって検索した。出てきた結果によるとあとで問題になりそうな悪い書き方などをそのように言うらしい。
書かれている情報を参考に直してみる。
そんなことがあったな、と私は今、思い出していた。
転職したこともあり、そのときの職場とも先輩とも離れてしまった。同じなのは今もプログラムを書いているということぐらいで、業種も立場も変わってしまった。
こんなことを思い出したのは、自分があのときの先輩と同じような立場になったからだ。新しく入ってきた若者にプログラムを教えている。うちの会社はあまり余裕のある会社ではないからそんなに長く研修に時間を取ることはできない。短い時間でそれなりにできるように、だけど、将来、困らないようにいい感じに教育しなければいけない、と上の人に言われた。
無理だ。
時間が足りない。
本当に基礎だけ教えて、あとは現場に放り込む、それがうちのやり方だった。そうして生き残って、会社を見限らなかったものだけが在籍し続け、あるレベルにたどり着けなかった者や、レベルがあがり過ぎて会社にあわなくなったものから、いつのまにか消えていく。
できればずっといてほしい。どうせ辞めるなら、はるかにハイレベルになって飛び去ってほしい。
どうにもダメで諦めるというような姿は見たくない。
だから、どうにか教えようと思うわけだけど、教えるというのはそれはそれで難しい。自分がコードを書くだけよりも難しいのではないか。それはそうだ。だって教師という専門の職が成り立つくらいなのだ。仕事の片手間で教えるようで立派な成果が出せるわけがない。まあ、かといってプログラミングスクールなんかはどうも怪しいものばかりだけど。
さて、どう教えようか。
臭いだなんだと言ったところで、ちんぷんかんぷんだろう。それはこちらが気づくための感覚であって、今、彼らに必要なのはその嗅覚を得る教えだ。
いくつかの考え方や、おすすめの書き方、その意図について説明する。
「テストコードはちゃんと書きましょう。最初はめんどくさいかもしれないけどそのうち慣れるから」
なんで? 動かして確認すればいいんじゃ? という顔をしている。でも、先輩には逆らえないのでとりあえず動きはじめたようだ。
「じゃあもう少し進めていてください。またあとで来ますので」
研修用の部屋から出ていく。
はぁ、疲れた。若者にどう接すればいいかよくわからない。まあ、年上も、同じ世代もわからないが。
コードの臭いか。数年働いてきて、人にも臭いがあるよなということがわかってきた。体臭だとかタバコの臭いだとか香水だとかではない(それらも嫌いだけど)。
なんというか人のタイプのようなものがコードの臭いのように感じられるようになった。この人は、真面目でやさしいけれど少し弱いところがあるなとか。この人は、できるだけ関わらないほうがあとあとめんどうなことにならないとか。この人は、馴染みやすく信頼できそうだけど、それは表面だけで、よく考えると中はよくわからないものが渦巻いていそうとか。
直接、会う人だけでなく、ネット上で見る人でもなんとなく感じる。
でも、この人の臭いというのも難しい。
私にとっては真面目でよく話を聞いてくれるようだった若者が、自分より下の人間に対してはとたんに厳しくなっているのを見たことがある。そういう人だったのかという驚きと、人は人によって変わるのだなという、よくよく考えれば当然である理屈を知った。
だから、私が感じる臭いが必ずしもあっているというわけではないだろう。
間違っていたり、偏見によるものだってあるのだと思う。
人はめんどくさいな。
他人も自分も。
コードの方がましだ。
チェックする方法も修正するための理屈もある。
人間はそんな簡単に修正できないし、してはいけないものだとされている(建前であり、人は嫌いな人に修正を望む現実もある)。
まあ、コードの臭いも人の主観に左右されたりするのだけど、結局、悪いのは人間だ。
仕事を終えて、会社を出る。今日は約束があった。
「遅かった?」
目印の場所ですでに立っていた待ち人へ言った。
「まだ約束の時間よりはやいから大丈夫」
「それはよかった」
私は笑う。
街を並んで歩いていく。
いい匂いだなと思った。
変わらないでいてほしいなと願った。
だけど、誰かを修正することが悪ならば、変化を邪魔するのも悪なのだろうと思う。
いま、私はどんな匂いだろうか。
あなたはわかりますか?
<了>