臭(((
Aは仕事に追われ、疲れた身体をひきずり帰宅するのは、いつも深夜のことだ
った。
そっと玄関を開き、忍び足で部屋に明かりを灯す、
ふわっと柔らかい光が、テーブルに置かれた晩ご飯を優しく照らすのだった。
眼鏡を外して、今日という一日を少し思うのが、いつものAだった。
浴室前、汗まみれの洋服を洗濯物籠に脱ぎ捨てると、リヴィングルームの向こう側、
……スッ…… と障子が開き、内縁の妻が顔を出した。
「あなたの洗濯物……。私とB(息子)の洗濯物と一緒にしないで……」
そして ……スッ…… と障子が閉まるのだった。
Aは暫く呆然とし、自分の耳を疑いつつも、浴室へと入る。
シャワーのお湯を頭頂に当て、滴る温水の路を身体に感じながら、
先の言葉を繰り返し瞼に映していた。
人間、ある程度の年齢に差し掛かると、特に男性は加齢臭と言われる匂いを放つという。
Aは浴室でひとり、自ら全裸の身体を匂ったりした。
特に変な匂いはしなかった、同時に、その寂しい言葉を
残業に急かされ一生懸命働いている自分に放たれた、その哀しい言葉を
再び思い返すと今までの岐路が過るのだった。
同じ道をゆく伴侶を得、人生という長い道をお互い支えあって歩もうとする、
それぞれ産まれ育った環境の違いを認め合いながらも歩もうとする、
そのパートナーからの冷酷なメッセージを噛みしめるのだった。
仕事に疲れて言葉を返せなかった、
悔しいのか情けないのか、判断のつかない涙が流れようとする、
その、泣きかかる一瞬、一瞬のなかの瞬間。
泣く衝動に後頭部がわずかに熱を帯び引き締まる、0.00001秒の小さな世界の出来事、
Aの耳の後ろの毛穴から、微粒子状の泡のようなものが生まれ、
浴室の扉をすり抜け、
漂い、
リヴィングルームを旅し、
扇風機の風に乗って、うまい具合に障子の隙間を通過し、
寝室で寝ている内縁の妻、
その隣で寝ているBの鼻の中に吸い込まれていくのだった。
内縁の妻が言った、その言葉を取り消さない限り、
Aの匂いはBに移植され続け、Bも次第に臭くなるのだった。