世界遺産シリーズ2 人間ポンプ、長城をゆく
源吉の目の前には、ふたつの壁がうねりながら延々と伸びていた。
壁と壁の間が道であり、多くの観光客が歩いている。
思
ったよりも急な坂道だった。
齢八十を迎える源吉には、一歩進むのも、ぬかるに足を取られたような重たさだ。
万里の長城を制覇する。
源吉はふとそう思い立ち、中国へとやって来た。
無論きっかけはある。
息子の隆一の羽振りがいい。
風の噂では、金魚すくいのアプリとやらで一山当てたという。
些細な衝突がもとで袂を分かっているので、詳しいことは分からない。
が、無性に腹が立つ。
そもそも、金魚すくいのアプリとは何なのか。
自分も世田谷食品からグルコサミンのアプリを取り寄せているが、アプリは飲むものであって、すくうものではない。
ましてや、金魚などとは、自分への当てつけとしか思えない。
源吉はかつて、日本では知らぬ者のいないほどの有名人だった。
金魚を飲み込み、また吐きだす一発芸で一世を風靡し、人間ポンプと話題になった。
テレビにも出たし、毎日イベントに呼ばれ、全国を駆け回った。
が、それも束の間。
今では、ただの老いぼれだ。
なまじ身体が丈夫なだけに、棺桶に入るタイミングを逸している自分が恨めしい。
それでも、源吉にとっての誇りは人間ポンプしかない。
ただ問題なのは、朽ちつつある自分の体力だ。
果たして、再び金魚を吐きだすことができるのか。
息子の噂を耳にした時、源吉は己に問い掛けた。
きっと無理だ、金魚はおそらく俺の夕飯になってしまうにちがいない。
人間ポンプの源吉。
あくまでそう呼ばれつつ、この世を去りたかった。
万里の長城を訪れたのには、それを確かめる目的がある。
月からも見えるこの建造物を、端から端まで歩き倒す。
それができれば心肺機能が高められ、無駄に金魚を殺すこともないだろう。
そうして源吉は来る日も来る日も、長城を歩きつづけた。
足にはマメができ、景観を愛でる余裕さえない。
いい加減、日本に帰ろうか。
そう思った矢先、源吉は壁に穴を見つけた。
覗いてみれば、中は大岩がそびえる密林で、浅黒い肌の男が一人いる。
男は、かつて父を殺した狂気の王。
その出来事が、男を蝕みつづけている。
疲労から来る幻覚のようだったが、源吉は不思議と男が深く嘆いていることを知った。
あいつも、胸に溜め込んでいるものがあるのだろう。
人間ポンプの息子の癖に、吐きだすのが下手ではシャレにならない。
苦笑いをし、来た道を戻る。
振り返ると、穴はきれいに消えていた。