戻らない。
豆腐屋の朝は早い。
三郎は、父親の手伝いを終えると簡単な朝食をすませ、八時まで仮眠をとる。
目覚まし時計を止めると今が何曜日なのか、分からなくなることもある。
教科書をかばんに詰めて「い
ってきまあす」と声を張り上げ店から飛び出す。
創業百五十年。金沢で一番古い豆腐屋のせがれとして生まれて、今年中学を卒業する。
雪が散らつく大通りを三郎は走る。
同級生のほとんどは高校へ進学するため、受験勉強に忙しい時期だ。自分はといえば、
中学を卒業した後、代々続く豆腐屋の仕事を手伝って、親父が引退した時には自分
が跡を継ぐ。先の見える人生、と言われればそれまでだ。地元から離れることもない。
「あ、おはよう」
声がして、三郎は足を止める。
「おう」ぶっきらぼうに応えながら、そっと振り返る。
早朝、雪国の陽は淡く、無垢で透明な光が街にあふれている。
光の中に、クラスメートの京子が立っていた。
「宿題、やった?」
「え。なんだっけ」
マフラーの毛糸の隙間から、ふわっと息の煙がたつ。
「やっぱり忘れたんだ」京子は笑う。「一限目。数学の宿題、出とったよ」
「はあ、そうか」
二人は並んで歩いている。三郎はわざと京子の制服姿が視野に入らないよう、車道
ばかりに目をやっている。
「なあ、さぶちゃん、ほんとに高校いかんの」
京子は背が低い。肉付きの良い体型だが、腰はぎゅっと締り、胸は豊かだ。美人とは
言えないが、クラスの男子から密かに人気を集めていたのは、専らその肉体による所
が大きい。
三郎はすぐ隣を歩く肉体を意識した。のどの奥に何かが詰まった感触を覚える。
沈黙があった。三郎はひときわ険しい顔つきをしてみせた。
「やわらかくてな、あっつい塊なんだ」
「え。何?」
「豆腐だよ。出来立ての豆腐、やわらかくて乳色の、塊」
「さぶちゃんちの豆腐、おいしいもんね」
「むっと湯気がたって、ぽっかり浮かびあがるんだ。産まれたばっかの豆腐って。
そいつをすくって冷やして。毎朝つらいんだけどな、その時だけは、なんだか嬉しく
ってなあ。乳色の塊をなあ、こうやって掬い上げるときって、俺も知らんけど、なんか、
赤ん坊でも掬い上げるみたいで。あほくさいだろ。でも、俺、嫌いじゃないんだ」
雪が舞っていた。沈黙。三郎は肉体を隣に感じるのが、堪えられなかった。
「さぶちゃん、私さ……」
京子の声は、ずっと後ろから聞こえた。校門へと続く道は淡い光があふれ、三郎
には眩しすぎた。