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【三夜】
「奢りで喰う鰻ってのが、また旨いもんじゃねえか。なあ姐さん」
「あんたは少しがっつきすぎなのさ、ああみっともない」
久しぶりの満腹感を味わって、鬼子は下品に口を鳴らした。
座長が案内した鰻屋は、確かになかなかの味わいだった。大金をちらつかせたおかげか、一番いい席で酒や鰻のどんちゃん騒ぎ。轆轤など、気を抜けば首が伸びそうで鬼子が抑えるのに苦労したほど。
元はドジョウの店だというが、いい仕入れ先を見つけたことで最近は鰻を旨く食わせる店になったという。
「本当はもっと生のほうが、おいらは好きだな」
口を拭って鬼子は言う。本当ならば、生を頭から喰いたいところだ。無論、人の目の前でそれはできない。それどころか、見た目は少年であるために酒も飲めない。それが、少しばかり心残りであった。
「おや」
幽霊屋敷の面々で、歩いて吉原に帰る途中。流れる川を見て彼は足を止める。
「なあ。あにぃ。この川には鰻は出ねえが、ドジョウはいると言う噂だね」
「らしいですねえ。でもおよしなさい。ドジョウだって素人じゃ捕まえるのは難しい。逃げられてしまいですよ」
澄んだ川だ。この深夜、人ならば潜れまい。しかし、彼らにとって闇はむしろ光よりも有り難い。鬼子がそっと覗き込めば、川の中をゆったり泳ぐドジョウの姿が見えるのである。
夜だ。眠っているのかもしれない。どちらにせよ、安心しきっている。
鰻に比べると泥臭いが、頭から囓れば、足りない血の気を補えるはずだ。
「ちょいと潜ってみる。座長と姐さんは先に帰っておくれ、絶対戻るから」
そういって腕をまくる鬼子を、座長が冷たい目でみた。常に優しげな彼の顔とは思えない、冷たい面持ちだ。漆黒の目に睨まれて、鬼子の膚が総毛立つ。足首が、ちくりと痛んだ。
「あにぃ、そんな目で見るのやめておくれよ。おいらをまだ信用できないかい。そりゃ昔は、逃げたこともあったかもしれねえが」
轆轤はこんな時、知らんぷりだ。
吉原に向かう酔客に卑猥な言葉をかけられて、わざとらしい嬌声で返している。
鬼子は恐る恐る、裾をまくり上げる。現れた細い足には、赤い筋。それは、じゅくじゅくと、腫れ上がっている。
「こんなにされて、おいらがあそこから逃げられるか」
「まるで私を悪い男みたいに言わないでくださいよ」
にこり。と、花が咲くように座長が笑った。
「私達は家族ではないですか……全く。子供の我が侭には困りますねえ。では、先に戻りましょうか」
しかし、目の奥は笑っていない。その顔のまま、座長は轆轤の手を取り背を向ける。
「次の鐘が鳴るまでですよ。それ以上になるなら……」
細い目が、鬼子を貫いた。
「知りませんからね」
「わかってらぃ」
鬼子はやっと気を抜くように、長く息を吐き出した。
「……さ、足が痛む前にやっちまおう」
ドジョウはまだ眠っている。そろり、と足を水に差し込む。手を伸ばす。爪をひり出す……と。
「おや」
川縁に、女の姿を認めて鬼子は手を止める。
それはまだ幼い少女だ。黒い髪がつやつやと美しい。膚は色黒だが、なかなか見目麗しい少女である。
吉原の禿かとも思ったが、そうではない。それを証拠に、彼女は片目が潰れている。
「おいおい、お前怪我を」
その傷は古いものだろう。まるで釘で射抜かれるような傷だ。そう、鰻やドジョウが目を打ち抜かれてさばかれる、その様によく似ていた。
「あなた、私が見えるの」
少女は無事な目を見開き輝かせた。鬼子をすがるように駆け出してその手を掴んでくる。
ぬるりと、冷たい手だ。
……人の温度では無い。
「助けて」
「アァお前さんはドジョウか」
少女は手に、小さな刀を握っている。それはまだ新しい。握り慣れていないのか、ふるふると震える手だ。これでは人を刺すどころの話ではない。
彼女の眼光は、鰻屋を睨み続けている。
鬼子は彼女を川辺に座らせて、その手から刀を奪う。彼女は憂いに沈み、片目からぽろぽろ涙を落とした。
「どうした、喰われて化け物になったドジョウか? この店主を恨むのかい。でも弱い物が喰われるのは、世の習いじゃねえか。なあ、こんな物騒なものは閉まっておきな」
「喰われただけなら恨みもしません。この鰻屋は非道」
彼女は静かに語った。少女に見えてその実、年は経ているのだろう。そうでなければ、人になど化けられぬ。
「私は、この川のずっとずっと上流に住むドジョウです。もう幾年も生きて人に化けることもできるようになりました」
彼女は語る。美しい川に住むドジョウの女。一度は捕まり、喰われかけたが川に逃れて片目の負傷で済んだ。
その後は美しい川で、仲間のドジョウと楽しく暮らしていた。そのはずだった。
「この店はドジョウを下流に追いやるために、上流に毒を流し込んだのです」
「なんだって」
「私を残してみな、死にました。私の幼い兄弟も、みな」
「……」
事件の日。彼女は運良く人にばけ、町で遊んでいたという。土産などをもって里に戻れば仲間は皆、白い膚を見せて浮いている。
「それだけでも許せないのに、この店主はドジョウから手を引いて、鰻に……その方が大金を儲けられるとそういって」
恐怖と驚きと悲しみで彼女は震えた。今もまだ怒りはとけないのだろう。指がぶるぶる震え続けている。
「ならば私達の兄弟はなぜ、皆、死なねばならなかったのです」
「……まあ、まちな」
黙って彼女の話を聞くうちに、思い出したのは古い古い記憶である。
それは貧しい村であった。
明日食うものも困るほどの、村であった。
しかし村はまるで一つの家族のように仲が良く、飢饉の際も手を取り助けあった。
ある日。少年は親の言いつけで山の奥まで清水を取りに出る。朝に出て、昼には戻れるはずであった。幼い妹が風邪を引き込んだのだ。それにはこの水が一番効く。
妹の喜ぶ顔を見たいがあまり、駆けてもどった少年の目に映ったのは惨状であった。
生臭い血の香りであった。
見た事もない浪人たちが村で暴れているのである。約束の年貢米より少なかったとそういって、暴れる男の顔はまるで鬼のよう。
刀をふるい、逃げ惑う農夫を切った。新婚の若い娘は浚われた。そこで少年は目を丸くする。自宅は、どうだ。まだ幼い妹は、父は、母は。
必死に駆けつけた彼がみたものは、今まさに鋭い刃に貫かれた妹の姿である。妹を庇って両断された父母の遺骸である。
彼女は兄の姿を見たのか、小さく微笑んだ。そして、その黒い瞳から命が消えた。
そこより先の記憶は薄い。ただ立ち向かった気はする。刀を奪い、幾人かは斬った。夕陽に晒され伸びた自分の影がまるで鬼のようであった、と少年は思い出す。
しかし多勢に無勢。あっさりと押さえ込まれ、足首をきりおとされた。火が付いたように、熱くなり激痛が走り、そして意識が薄れる。
最期にみた風景は、浪人の上げる悲鳴であった。何者かが闇に乗じて訪れたのである。それは霞のようでもあったし、炎のようでもあった。
それは咀嚼音をたてながら、浪人を吸い込んでいく。吐き出されたのは、臓物か骨か。
あっという間のできごとだった。霧はやがて人となり、少年の側に寄る。
もう、脈も止まりかけている少年に逃げることなどできやしない。
男はそっと少年の足に触れた。それだけで痛みが和らぐ。
「酷いことだ。ねえ、一緒においでなさい」
男は血に濡れた唇で、にぃと笑う。
「あなたは良い鬼になれそうですね」
微笑んだその顔は、この場に似つかわしくない美しい顔だった。
「おいらがやる」
「は?」
「まあ、そこにいろ。ドジョウごときが人を食えるかよ」
鬼子は立ち上がり、肩をならした。ドジョウを食うより、人の方が余程旨いことを鬼子は知っている。
……あの鰻屋の味がなくなるのは残念だが。
「ちぃっと、待ってな。恨み果たしてやらぁ」
そして風のように駆け出した。店に滑り込み、行灯をふうと吹き消す。
光が消える瞬間、少女は見たであろう。店の中に浮かんだ少年の影を。それは、二本の立派な角を持っている。
「ちっ。怯えさせたか」
はち切れそうな腹を抱えて戻れば、川辺にはもう誰も居ない。
小さな店の惨状など誰も気付かないのか、吉原へ向かう客がへらへらと歩くばかりである。
あのドジョウの化身はもういない。
「しゃあねえ」
血に濡れた口を拭って、鬼子は駆け出す。そろそろ、座長がしびれを切らす頃。足に付けられたまるで切り傷のような跡が、じゅくじゅくと誘うように傷むのである。
「ただいま」
今や自宅ともなった幽霊屋敷に駆け込むと、轆轤が文字通り首を長くして待っていた。
「遅いねえ。今宵、幽霊屋敷を開くんだってサ」
「あにいの、また我が侭かい」
表から、座長の下手な口上が聞こえてくる。今宵は酔客が多い。客も引っ張りやすいのだろう。鰻を食ってやる気になったのかもしれない。
しかし鬼子はどうにもやる気が起きない。それは、この膨れあがった腹のせいだ。
「正直、おいらもう腹いっぱいで……」
「おや、あんた」
轆轤が延ばした首で鬼子に顔を近づける。彼女の白粉臭い鼻が、幾度がうごめく。
「恋でも、したのかい? えらく艶っぽい」
「冗談いうねぃ」
「冗談さね」
吐き捨てるように轆轤はいう。見つめて笑いあい、そしてやがて二人の顔は商売用のそれへと変わる。いや、商売用なのか。はたまた本体か。
天井からは、血まみれ武士の不気味な笑顔。
「さぁさ、幽霊屋敷の開幕だ」
闇の奥。戸が開くのを見て、三人はゆっくりと顔をそちらに向けた。
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