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百鬼夜行の客商売
寄
っていらっしゃい、見てもいらっしゃい。耳に聞くより目で見るよりも、中に入るとなお面白い。蝶と遊ぶも楽しいが、今宵は百鬼夜行の百花繚乱。さぁさ、遊んでいらっしゃい……。
【一夜】
遠目より見ると、まるで闇にぽかりと浮かんだような花の行灯がある。大きな門を行灯で彩る、そこは花の町、浮き世を離れた吉原である。その片隅で、一人の男が口上を上げている。
それがまるで、棒読みの情けの無い口上なものだから、通りかかる酔客は馬鹿にした顔。連れの女も袂で口を押さえてくすりと笑う。
しかし、彼が顔を上げると男は目を気まずく顔をそらし女は頬を染めた。
彼の顔は、まるで花のように美しい。
「さぁさ……」
幽霊のように手を上下に動かして、彼は相変わらず力なく口上を上げ続ける。
「春の今宵、出るは轆轤首にのっぺらぼう。この吉原で無残に殺された女の霊も……」
そこで彼の顔に初めて、笑みが浮かんだ。
ちょうど行灯がふぅと消えた瞬間である。闇に襲われ女が悲鳴を上げる。男が闇夜に乗じて女に触れようとして騒ぎ出す。
だから、誰も彼の笑みを目にしていないはずだ。
彼はいかにも楽しく、にぃと笑った。口から漏れた赤い舌先は、二本に分かれて宙を舐める。
「鬼も出るやもしれません、さぁさ。お寄りください、本物の幽霊もお目に見せましょう……」
男の名を、誰もしらない。出自もしらない。
ただ誰もが男の顔を、声を知っている。彼は吉原の片隅で幽霊屋敷を営む座長であった。
「あぁ……相変わらず、あにぃの口上は力が無ねえなあ」
幽霊屋敷として作られた掘っ立て小屋の奥深く、少年が口を尖らせた。
「もっと上手くすりゃ、この幽霊屋敷は商売繁盛だってのに」
隣に婀娜っぽく座る女は煙管を吸い込み、ゆっくりと息を吐く。
「まあそう言うんじゃないよ。あれで顔がいいのだから、綺麗な女が引っかかる。吉原の、活きの良い女が引っかかれば、ついでに連れの男も引っかかる。ここは肉欲の世界だからねえ。それに座長は、下手の横好き。ああいうのが好きだってんだから丁度いい。あたし等も楽だしね。それにお前さん、あんな風に一晩中働きたいかえ?」
「姐さん、そう言ったってもう一週間も客なんざ来ちゃいない」
「そうねえ」
女は煙管の煙を目で追う。それは、古びた天井に吸い込まれる。天井が不意に、咳き込んだ。
「やめねえか、轆轤姐。煙は身体に悪い」
「身体っていったって、お前さんの身体なんざ、ただの木じゃないか」
女の首がぬうと伸びる。首が小さな頭を乗せたまま、ゆらゆら揺らめく。天井には人の顔に似た染みが持ち上がる。それは憤怒の表情の、血まみれ武士の顔である。
にらみ合う二人を止めたのは少年だ。
「姐さんそれは、客にとっときな」
袖を引く彼の指は少年にしては大振りである。稚児の着物から漏れる手には、恐ろしいほど鋭い爪が光る。
それは、薄暗い幽霊屋敷の中でも良くわかる。
「ほうら、1週間ぶりの獲物だ」
少年の唇がぬるりと光り、隙間から鋭い歯が漏れた。かちかちと、その歯はいかにも嬉しげに鳴り響く。よくよく見れば、彼の額には不気味に尖る角が二本。瞳は、獣の如く黄金に輝く。
「本当だ」
轆轤の女も言い争いをやめ、にこりと笑う。赤い舌が、艶やかな唇をべろりとなめた。
「ひさびさに、お腹いっぱいになれるかねえ」
「なるさ、なる。女の身体は柔らかいが脂が多い。男の身体は硬いが、いつまでもしゃぶっていられる。二人揃えば二度旨い」
二人の目線の先。
闇の帳の向こうにある小さな扉が、一週間ぶりに開いたのである。そこには、まだ年若い女と、太った男が立っていた。
吉原にある幽霊屋敷の噂を、男はちらりと聞いたことがある。
それはひどく美しい男が座長を務める見世物小屋だ。中には轆轤首だの鬼の子だの、猫又だのそんな化け物が揃うという。もちろん作りものではあろうが、余興にはよい。と噂に聞いた。
特に、つれない女を連れ込んで、闇夜に乗じて遊ぶのに良いと聞く。
そのような、げすな遊びも吉原の楽しみだ。商人であり、非道な遊びも散々楽しんできた男にとって、これは彼の思い出の一つに加わるはずであった。
いくら誘っても乗ってこない、金を払ってもはね除ける、生意気な遊女を連れ出し無理矢理幽霊屋敷に押し込んだのは新月の夜。
月のない夜、噂通りの綺麗な男に案内されて辿りついたそこは想像以上の闇であった。
「恐くないよ」
震える女をよしよしと宥めすかし、闇へ闇へと誘い込む。幽霊屋敷といってもほんの小さな家を改装したもので、あっという間に壁に辿りつく。そこに女を押し込んで、
「なんだ幽霊など出るわけもない。ならば私が幽霊となろうか」
囁き耳に噛みつき、悲鳴を上げる女の襟元を掴もうとした。
「旦那。そんな子より、あたしと遊ばないかえ?」
手は滑り、代わりに掴んだのは冷たい首筋。それは、ひどく……そう、恐ろしく長い。
闇に浮かぶ白い膚がぬるりと光った。そして蛇のように男の身体をぐるりと取り巻く。悲鳴を上げるその口さえ、首の下。長い長い首の先を男は見た。そこには、行灯をくわえてにぃと笑う女の小顔。
その目は、猫のごとくぎらりと輝く。それが男の見た最期の風景である。
「ん。お待ちよ。女もいたよ」
轆轤の女が赤い唇の端を拭って、顔を上げた。
その横でなにやら赤い肉を咀嚼する少年もまた慌てて顔を持ち上げる。
「ああ、女もいたか。いやしかし」
床に転がるなにかを必死に喰らう二人の背後に、するりと立つのは遊女である。彼女は美しい着物を纏うが、顔は純朴である。田舎娘のそれである。
遊女は化け物を見ても顔色一つ変えず、しずと頭を下げる。
「有難うございました……そこな座長さんのお陰で、私の恨みが果たせました」
女は語る。
「私はこの男に手込めにされて殺された女の妹です……と言いましても、遊女として売られて知り合った娘と、姉妹の契りをしたのでございます」
行灯が音を立てた。それに合わせて女の髪がほろりと解ける。その首筋に、細い文字が刻まれている。それは女の名だ。固い契りを、女はここに隠している。
「姉が死んだ後、私も後を追い死にました。でも悔しくて、悔しくて気がつけば……」
見れば彼女の身体は、透けている。女は美しい笑顔を、部屋の奥に向けた。
そこには、先ほどからにこにこと嬉しそうに微笑む座長が立っているのである。
このような闇夜でも、座長の顔は蕩けるように美しい。その顔に見つめられ、幽霊女は頬を染めた。
「幽霊の身であっても、ここにお願いをすれば恨みを晴らせると……そう聞いて。伺いました。これでもう後悔はありません」
女の身体はすう、と光に溶けた。この闇の中、まるでそれは菩薩のように輝いて鬼と轆轤は眉を寄せた。
「座長、そういうことかい」
ずい。と最初に声を上げたのは轆轤女である。
「力もなく口上を上げてたのは、そもそもやる気などなかったんだね。幽霊の頼み事を聞くために、人間を誘うことなんざ一欠片も考えちゃいなかったんだ」
鬼の子も、座長に寄った。座長は困ったように微笑んで、行灯に化ける。轆轤がそれを掴むと、続いてウナギと姿を変えて彼女の手からぬるりと逃げる。
「だって。ただ人を食うだけじゃつまらんでしょう。我らが生まれて何年……何千年経つのか。たまにはこのように、思いを残した幽霊の恨みを果たしてあげれば、我らの功徳もあがるというもの」
「化け物が何が功徳だ。本当なら男と女の両方を食えたところを、座長のせいで男しかくえやしない」
「太った男で食べ甲斐があったでしょう」
「座長みたいに何千年もいきた年寄りじゃないんだよ、あたしたちは。一週間もおまんま食い上げじゃ、干からびて死んじまうってんだ」
ぎゃあぎゃあと囲まれ怒鳴られる座長は、招き猫に化け、そのあとようやく人の姿に戻った。
「……感謝もされるし、良いと思ったのですけどねえ……格好良いじゃないですか。たまにはこんな趣向も……」
「こちとら、あんたの遊びで付き合ってるんじゃないんだよ。さっさと働いてきな」
轆轤の腹がぐうと鳴り、鬼の腹もくうと鳴った。それを見て、笑うのは腹を持たない木の天井ばかり。
さんざん責められ座長は力なく小屋の外へ。
「じゃあ今夜頑張ってなんとか人の子を誘い込みますから……」
五人は食べないと気が済まない。そういって大騒ぎをする声を背に受けて、座長は小屋の外に出る。
外はまだまだ宴もたけなわ。美しい女と太った男。どれも美味しそうな人間どもが、あっちへこっちへ大騒ぎ。
ぬるりと膚を滑る春の湿度を感じながら、座長はゆっくりと手を叩きはじめた。
寄っていらっしゃい、見てもいらっしゃい。耳に聞くより目で見るよりも、中に入るとなお面白い。蝶と遊ぶも楽しいが、今宵は百鬼夜行の百花繚乱。さぁさ、遊んでいらっしゃい……。2 / 3
【二夜】
雨でも降り出しそうな、生ぬるい夜である。気の早い蚊が耳障りな音とともに飛んで、行灯に影を残す。轆轤がそれを白い指でつまんで、火に落とした。
ちゅ。と可愛らしい音を立てて蚊の影は消えた。それだけで、部屋はまた静けさを取り戻す。
「今宵も暇だね」
「今日は幽霊屋敷もお休みだからね、余計暇だ」
鬼子は、轆轤の煙管を横から浚って飲む。憎らしくその頭を小突いて取り返せば、鬼子はぷうと膨れ顔。
幼くも見える少年だが、意外に年を経ていることを轆轤は知っている。そもそも、鬼だの妖怪だのに年はあってないような物。この幽霊屋敷を率いる座長なぞ、とうに付喪神の分類だ。だのに、輝くばかりに美しい。
煙管からすう、と煙を吸い上げて轆轤は首を傾げる。
今宵も暇な幽霊屋敷。闇の中で膝を抱えるのは轆轤と鬼と、天井に染みついた血まみれ武士のみ。
「そういや、座長は?」
「あにぃ? あいつは女衒の輩と飲みに出てるさ。吉原で上手くやってくには、そういう輩とも付き合いをしなくちゃいけないらしいぜ」
女衒。と聞いて轆轤は眉を寄せた。つん、と鼻の奥にいやな香りが蘇る。皮膚がちりりと焼けた気もする。
「まあ」
「どうしたい、姐さん」
「あたしは、何が嫌いって女衒の野郎が一番嫌いさ。喰うのも嫌だ。おぞましい」
轆轤は震える指を押さえるように、煙管を火鉢に放り込んだ。灰が闇に舞う。舞う灰が轆轤の指を汚した。
「あいつらはね、女をかっさらって、大金に換えるんだ。見目のいいのを浚って、金に換えて……ええ、おぞましい。あいつらは女を、金としか見ちゃいない。まだ、吉原で女を買う男の方がいくらかましだ」
「姐さん、ひどく辛辣だが過去になにかあったか」
鬼子が、目を光らせた。歯がかちかちと鳴る。妖怪は基本的に、いつでも暇だ。このように幽霊屋敷に閉じこもり、たまに人を食うくらいしか余生を過ごさない妖怪達は特に、何をやることもない。
野次馬、好奇心に下衆の勘ぐり。鬼子が興味津々膝をすすめてきたので、轆轤は首を長く伸ばしてあさってを向いて見せた。
「……さてね」
「そういや、おいら姐さんの過去を聞いたことがない。不思議な縁で結ばれたとはいえ、今じゃこの小さな部屋ん中で、同じ人間を喰う仲じゃねえか。どうだい姐さん。余興に過去話なぞ」
「女が長く生きてりゃあ、色んなことがあるさ。ほじくり返すような男は嫌われるよ」
轆轤の記憶にある過去は、遙か遠くも遠く。もう、薄れて断片しか浮かばない。しかしその記憶では彼女は人であった。確かに、生きた人であった。
まだ人であった轆轤に向かって、太った男が凶悪な手を伸ばした。笑顔のくせに、張り付くような笑みであった。
故郷の父母は金を握り締めてべろりと舌をだした。その赤い赤い舌は、まるで蛇のよう。呆然と佇む轆轤は闇に押し込まれた。
暴れて腕に当たり散った火鉢の灰を、噛み殺した悲鳴を、逃げようと駆け出した足を掴む太い手を、無理矢理に剥がされた着物を、力いっぱい締められた首の痛みを、殴られた痛みを、そして屈辱を。
轆轤は時折夢に見る。
「……妖怪の道より、人の道のほうがいくらも恐い」
そして同時に、思い出すのだ。冷たい骸の自らを、誰かが拾い上げたことを。「さぁいきましょう」拾い上げた男は伸びきった轆轤の首を撫でて、そういった。
「あなたは轆轤首になりましょうか」
覗き込んだ顔は恐ろしく、美しい笑顔であった。
「ただいま皆さん」
座長が部屋に戻ってきたのは、それから一刻ほどあとのことである。
彼は着物をわざと着崩して、髪も緩く解いている。それが今の流行りであることを、轆轤は知っている。白い首筋を襟元から覗かせて、彼はいかにも女好きするような顔で微笑んで手を振る。
「いやですね。皆さん、こんな蒸し暑い部屋でじめじめと」
「あにぃが仕事を休んだせいでな。こちとら暇で死んでしまいそうだ。この際、普通の客でもいいから引き入れておくれよ。脅かして、きゃぁと言われるだけでも、ちょっとは気持ちがすっきりする」
「それもいいですが……ちょっと外に出ませんか。丁度、川沿いに旨い鰻を出す店がある。酒も上方の、樽で運んだいいのを揃えているらしい
座長はにこにこと楽しげに、轆轤と鬼子の間に座る。鬼子の腹がぐうとなり、彼は今にもよだれをたらさんばかりの顔で座長に詰め寄った。
脂の乗った鰻の味を思い出したのだろう。
「なんだい、あにぃよ。ひどくいい景気じゃないか」
「いやね、たまには人のように楽しみたいなぁ、なんておもいまして」
「金もないくせに」
「ありますよ」
何事も無いように、彼は懐から紙入れを取り出す。それは、ずしりと重い。床に落とせば、闇に黄金が光る。
……庶民ならば、一年は軽く遊んで暮らせる大金である。
「どうしたの、こんな大金」
「あにぃ。とうとう、お金作れるようになったの?」
「聞くも野暮です。まあ……良い事をすれば、お金はころり、とね」
座長はにこりと笑った。
「ああ、畜生。俺にも胃があれば付いて行く物を」
「天井が生意気を言うもんじゃねえや。無い指でもしゃぶってない」
座長は何事もなく言うが、轆轤は目を細めて彼を見る。鬼子はすっかり楽しげに、天井の武士と言い合いなどをしている。
轆轤は音もなく立ち上がり、座長の袖をひいた。
「ちょっといいかい、座長」
しなだれるように、彼の胸元にそっと頬を寄せる。男にしては薄い胸だ。触れても、ぞっとするほどに冷たい。耳を押し当てても、鼓動は無い。
それは轆轤も同じ事。
「……アア」
鼻を寄せると、着物の奥底から旨そうな香りが漂う。
「血の香りだねぇ」
それは、流れたばかりの血の香り。
「すでに、座長一人で楽しく食事をされてきたようだねぇ」
「……轆轤はいかにも、鼻が良い」
座長の笑みは崩れない。この顔で彼は人を食うのだ。何人喰ってきたのかと鼻を動かせば、轆轤の胸にすとんと落ちるものがあった。
今宵、座長の飲み相手は、誰だったか。
「太った男の香りだ。金の亡者の香りだ。一人二人じゃないねえ。女の涙の染みこんだ、醜い男の身体の香りだ。あぁ、そうか。ひどく食あたりのするものを、座長は一人でいただいたらしい」
「ええ、おかげで胸焼けが」
胸をさすって、彼は手の平で小判を弄んだ。
「鰻は毒素を流すといいますから、さぞや効力があるでしょう。そしてこの金は……そうですね、浄財です。悪貨は浄財として生まれ変わるのです」
「かつて、あたしを轆轤にしたようにかい。座長」
轆轤は彼の返事を待たずに、座長の腕に手を差し入れた。そして寄り添い、彼の肩に頭を寄せる。
「あたしは気分がいいから今宵は腕を組んであげようね。どうだい、冥利に尽きるだろう」
「はは。どうぞ鰻のように絡みつかないでくださいよ、姐さんの締め付けは少々手痛い」
「姐さん、座長。さぁいくよ。腹が減ってしかたねえや」
鬼子の元気の良い声が響く中、行灯に散ったはずの蚊が不意に目の前を飛んでいく。
それは、不気味な赤い目を持つ蚊となった。
(この部屋の中じゃぁ、仕方の無い話)
何が起きても不思議では無い。それが吉原の片隅、幽霊屋敷のしきたりだ。そっと座長に寄り添い久々外に出てみれば、そこは花の行灯輝く夜の町。楽しげにさんざめく蝶たちの何人が、隠れて涙を流しているのだろう。と轆轤は思った。
「おや、雨ですねぇ。しかしたまには濡れて歩くも楽しいものです」
頬を濡らした雨が大地に染みを作る。
それを踏みしめ歩き、やがて彼ら小さな百鬼夜行の影は闇夜に紛れてかき消えた。
残ったのは、本日休業の立て看板が揺れる小さな小屋のみである。
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【三夜】
「奢りで喰う鰻ってのが、また旨いもんじゃねえか。なあ姐さん」
「あんたは少しがっつきすぎなのさ、ああみっともない」
久しぶりの満腹感を味わって、鬼子は下品に口を鳴らした。
座長が案内した鰻屋は、確かになかなかの味わいだった。大金をちらつかせたおかげか、一番いい席で酒や鰻のどんちゃん騒ぎ。轆轤など、気を抜けば首が伸びそうで鬼子が抑えるのに苦労したほど。
元はドジョウの店だというが、いい仕入れ先を見つけたことで最近は鰻を旨く食わせる店になったという。
「本当はもっと生のほうが、おいらは好きだな」
口を拭って鬼子は言う。本当ならば、生を頭から喰いたいところだ。無論、人の目の前でそれはできない。それどころか、見た目は少年であるために酒も飲めない。それが、少しばかり心残りであった。
「おや」
幽霊屋敷の面々で、歩いて吉原に帰る途中。流れる川を見て彼は足を止める。
「なあ。あにぃ。この川には鰻は出ねえが、ドジョウはいると言う噂だね」
「らしいですねえ。でもおよしなさい。ドジョウだって素人じゃ捕まえるのは難しい。逃げられてしまいですよ」
澄んだ川だ。この深夜、人ならば潜れまい。しかし、彼らにとって闇はむしろ光よりも有り難い。鬼子がそっと覗き込めば、川の中をゆったり泳ぐドジョウの姿が見えるのである。
夜だ。眠っているのかもしれない。どちらにせよ、安心しきっている。
鰻に比べると泥臭いが、頭から囓れば、足りない血の気を補えるはずだ。
「ちょいと潜ってみる。座長と姐さんは先に帰っておくれ、絶対戻るから」
そういって腕をまくる鬼子を、座長が冷たい目でみた。常に優しげな彼の顔とは思えない、冷たい面持ちだ。漆黒の目に睨まれて、鬼子の膚が総毛立つ。足首が、ちくりと痛んだ。
「あにぃ、そんな目で見るのやめておくれよ。おいらをまだ信用できないかい。そりゃ昔は、逃げたこともあったかもしれねえが」
轆轤はこんな時、知らんぷりだ。
吉原に向かう酔客に卑猥な言葉をかけられて、わざとらしい嬌声で返している。
鬼子は恐る恐る、裾をまくり上げる。現れた細い足には、赤い筋。それは、じゅくじゅくと、腫れ上がっている。
「こんなにされて、おいらがあそこから逃げられるか」
「まるで私を悪い男みたいに言わないでくださいよ」
にこり。と、花が咲くように座長が笑った。
「私達は家族ではないですか……全く。子供の我が侭には困りますねえ。では、先に戻りましょうか」
しかし、目の奥は笑っていない。その顔のまま、座長は轆轤の手を取り背を向ける。
「次の鐘が鳴るまでですよ。それ以上になるなら……」
細い目が、鬼子を貫いた。
「知りませんからね」
「わかってらぃ」
鬼子はやっと気を抜くように、長く息を吐き出した。
「……さ、足が痛む前にやっちまおう」
ドジョウはまだ眠っている。そろり、と足を水に差し込む。手を伸ばす。爪をひり出す……と。
「おや」
川縁に、女の姿を認めて鬼子は手を止める。
それはまだ幼い少女だ。黒い髪がつやつやと美しい。膚は色黒だが、なかなか見目麗しい少女である。
吉原の禿かとも思ったが、そうではない。それを証拠に、彼女は片目が潰れている。
「おいおい、お前怪我を」
その傷は古いものだろう。まるで釘で射抜かれるような傷だ。そう、鰻やドジョウが目を打ち抜かれてさばかれる、その様によく似ていた。
「あなた、私が見えるの」
少女は無事な目を見開き輝かせた。鬼子をすがるように駆け出してその手を掴んでくる。
ぬるりと、冷たい手だ。
……人の温度では無い。
「助けて」
「アァお前さんはドジョウか」
少女は手に、小さな刀を握っている。それはまだ新しい。握り慣れていないのか、ふるふると震える手だ。これでは人を刺すどころの話ではない。
彼女の眼光は、鰻屋を睨み続けている。
鬼子は彼女を川辺に座らせて、その手から刀を奪う。彼女は憂いに沈み、片目からぽろぽろ涙を落とした。
「どうした、喰われて化け物になったドジョウか? この店主を恨むのかい。でも弱い物が喰われるのは、世の習いじゃねえか。なあ、こんな物騒なものは閉まっておきな」
「喰われただけなら恨みもしません。この鰻屋は非道」
彼女は静かに語った。少女に見えてその実、年は経ているのだろう。そうでなければ、人になど化けられぬ。
「私は、この川のずっとずっと上流に住むドジョウです。もう幾年も生きて人に化けることもできるようになりました」
彼女は語る。美しい川に住むドジョウの女。一度は捕まり、喰われかけたが川に逃れて片目の負傷で済んだ。
その後は美しい川で、仲間のドジョウと楽しく暮らしていた。そのはずだった。
「この店はドジョウを下流に追いやるために、上流に毒を流し込んだのです」
「なんだって」
「私を残してみな、死にました。私の幼い兄弟も、みな」
「……」
事件の日。彼女は運良く人にばけ、町で遊んでいたという。土産などをもって里に戻れば仲間は皆、白い膚を見せて浮いている。
「それだけでも許せないのに、この店主はドジョウから手を引いて、鰻に……その方が大金を儲けられるとそういって」
恐怖と驚きと悲しみで彼女は震えた。今もまだ怒りはとけないのだろう。指がぶるぶる震え続けている。
「ならば私達の兄弟はなぜ、皆、死なねばならなかったのです」
「……まあ、まちな」
黙って彼女の話を聞くうちに、思い出したのは古い古い記憶である。
それは貧しい村であった。
明日食うものも困るほどの、村であった。
しかし村はまるで一つの家族のように仲が良く、飢饉の際も手を取り助けあった。
ある日。少年は親の言いつけで山の奥まで清水を取りに出る。朝に出て、昼には戻れるはずであった。幼い妹が風邪を引き込んだのだ。それにはこの水が一番効く。
妹の喜ぶ顔を見たいがあまり、駆けてもどった少年の目に映ったのは惨状であった。
生臭い血の香りであった。
見た事もない浪人たちが村で暴れているのである。約束の年貢米より少なかったとそういって、暴れる男の顔はまるで鬼のよう。
刀をふるい、逃げ惑う農夫を切った。新婚の若い娘は浚われた。そこで少年は目を丸くする。自宅は、どうだ。まだ幼い妹は、父は、母は。
必死に駆けつけた彼がみたものは、今まさに鋭い刃に貫かれた妹の姿である。妹を庇って両断された父母の遺骸である。
彼女は兄の姿を見たのか、小さく微笑んだ。そして、その黒い瞳から命が消えた。
そこより先の記憶は薄い。ただ立ち向かった気はする。刀を奪い、幾人かは斬った。夕陽に晒され伸びた自分の影がまるで鬼のようであった、と少年は思い出す。
しかし多勢に無勢。あっさりと押さえ込まれ、足首をきりおとされた。火が付いたように、熱くなり激痛が走り、そして意識が薄れる。
最期にみた風景は、浪人の上げる悲鳴であった。何者かが闇に乗じて訪れたのである。それは霞のようでもあったし、炎のようでもあった。
それは咀嚼音をたてながら、浪人を吸い込んでいく。吐き出されたのは、臓物か骨か。
あっという間のできごとだった。霧はやがて人となり、少年の側に寄る。
もう、脈も止まりかけている少年に逃げることなどできやしない。
男はそっと少年の足に触れた。それだけで痛みが和らぐ。
「酷いことだ。ねえ、一緒においでなさい」
男は血に濡れた唇で、にぃと笑う。
「あなたは良い鬼になれそうですね」
微笑んだその顔は、この場に似つかわしくない美しい顔だった。
「おいらがやる」
「は?」
「まあ、そこにいろ。ドジョウごときが人を食えるかよ」
鬼子は立ち上がり、肩をならした。ドジョウを食うより、人の方が余程旨いことを鬼子は知っている。
……あの鰻屋の味がなくなるのは残念だが。
「ちぃっと、待ってな。恨み果たしてやらぁ」
そして風のように駆け出した。店に滑り込み、行灯をふうと吹き消す。
光が消える瞬間、少女は見たであろう。店の中に浮かんだ少年の影を。それは、二本の立派な角を持っている。
「ちっ。怯えさせたか」
はち切れそうな腹を抱えて戻れば、川辺にはもう誰も居ない。
小さな店の惨状など誰も気付かないのか、吉原へ向かう客がへらへらと歩くばかりである。
あのドジョウの化身はもういない。
「しゃあねえ」
血に濡れた口を拭って、鬼子は駆け出す。そろそろ、座長がしびれを切らす頃。足に付けられたまるで切り傷のような跡が、じゅくじゅくと誘うように傷むのである。
「ただいま」
今や自宅ともなった幽霊屋敷に駆け込むと、轆轤が文字通り首を長くして待っていた。
「遅いねえ。今宵、幽霊屋敷を開くんだってサ」
「あにいの、また我が侭かい」
表から、座長の下手な口上が聞こえてくる。今宵は酔客が多い。客も引っ張りやすいのだろう。鰻を食ってやる気になったのかもしれない。
しかし鬼子はどうにもやる気が起きない。それは、この膨れあがった腹のせいだ。
「正直、おいらもう腹いっぱいで……」
「おや、あんた」
轆轤が延ばした首で鬼子に顔を近づける。彼女の白粉臭い鼻が、幾度がうごめく。
「恋でも、したのかい? えらく艶っぽい」
「冗談いうねぃ」
「冗談さね」
吐き捨てるように轆轤はいう。見つめて笑いあい、そしてやがて二人の顔は商売用のそれへと変わる。いや、商売用なのか。はたまた本体か。
天井からは、血まみれ武士の不気味な笑顔。
「さぁさ、幽霊屋敷の開幕だ」
闇の奥。戸が開くのを見て、三人はゆっくりと顔をそちらに向けた。