歴史の勉強
雨が一日中降り続いたその日、北川正義は一歩も外へは出なか
った。
冷蔵庫もなく、食べ物を買い置きするほどの金もなく、けれども途轍もない空腹に襲われていたが、壁の向こうでは天気が荒れ狂っていた。
傘はないし、水道も使えない。正義がいたのは、静かな住宅街の一角にある廃屋だ。屋根のある場所を見つけただけでもありがたいと思う。五月だというのに、気温は十五度を下回っていた。旅行カバンに入れたシャツを重ね着しても、うっすらと肌寒い。
派遣社員として働いていた家電量販店が半年前に閉店し、代わりの仕事も見つからないまま過ごすうちに、ついに家賃も払えず部屋を出た。
実家とは折り合いが悪く、帰ることはおろか、金を借りるのも容易ではない。もしかしたら、だれのものとも知れぬこの家が死に場所になるかもしれないと思う。まだ二十六だけども、どうせ死ぬのならはやいほうがいい。蜘蛛の巣が張られた壁に囲まれながら、正義はそんな気持ちに支配されていた。
そうしてペットボトルに溜めた雨水で空腹をしのぎ、やがて日没を迎えると、暗くなった部屋の真ん中にほのかな明かりが現れた。
「お、お? なんだ、これは。人魂か?」
壁際まで後ずさりすると、嫌な予感が頭をよぎった。
この家は、どうして廃屋なのか。考えてみれば、五日前から正義が寝床にしているのに、近隣の住人は見て見ぬふりをしているようだった。
「あ、突然ごめんね。人魂じゃないから、大丈夫。歴史の勉強なんだよね」
明かりの中から姿を見せたのは、いささか風変わりな服を着た一人の少年だった。
「お、お? お前、誰だ? この家に住んでいた坊主の霊魂か?」
声を震わせながら尋ねる。少年は澄ました顔で微笑んでいた。
「だから歴史の勉強だよ。近頃、お金っていうシステムを人間が使っていたって習ったから。大金なんて言葉があった時代を調べようと思ったんだけどさ。よく分からないのは、お金を持っていない人なんだよね。教科書には、所有しているお金の額が生死に影響するってあったんだけど。どうやら、嘘だったみたいね。ちゃんと生きてるじゃん。住んでいる家は、ちょっとみすぼらしそうだけど」
まったく大袈裟な表記だな、と言うと少年は大人びた仕草で肩をすくめた。そりゃそうだよね、お金の額で生死が決まるなんて野蛮だし。独り言なのか話しかけているのか、男の子らしい無邪気さに、むしろ背筋が寒くなる。
「ちょ、ちょっと待て。お前、いつの時代から訪れた? 俺も連れていってくれ。教科書に書かれていることは嘘じゃないんだよ」
正義の訴えが耳に入らなかったのか、少年の姿はすでに消えていた。
耳に残ったのは野蛮という言葉。絶望が正義の全身に満ちていく。人間は所詮、原人の頃と進化していないのだろうか。そう考えると、世の中のあらゆる欺瞞を許してもいいような気持ちが湧いてきた。
金がない自分を追い出した大家も、我が強いだけの両親も、根本的には何百万年も前の野蛮な祖先と変わりない。
少年が立っていた畳の上をなぞり、正義は静かに瞼を伏せた。
なるほど、これが人間というものだったのか。
雨が上がっていた。正義は幽霊屋敷を後にすると、数少ない友人が住む町へと歩き出した。