架空の書物たち
『粘性の愛』という小説ある。粘性の愛は三十代の女性と高校生の恋愛の物語だ。蛞蝓や蚯蚓、軟体動物の求愛行動や交尾の雑学や理論を絡めながら物語は進んでいく。そのタイトルを地で行く文章で構成されており、物語はゆ
ったりと泥沼に嵌るかのような錯覚を起こさせる(著者の癖という評論もあるが、おそらく意図されたものだろう)。ドロドロとした人間関係とドロドロとした描写、何もかもが溶けて境界性が曖昧になるような恋愛。そこでは幻想と現実が曖昧になる。主人公の女性は様々な作品の言葉を回想の中で引用し、あるいは少年との会話の中ですら引用していく。いつしか少年はその言葉に翻弄され、己を見失っていく。主人公は少年を粘液でからめとり、翻弄していくのだ。例え、それが主人公の意図したことでなかったとしても。そんなこの作品で引用される言葉にはこんな台詞がある。
「愛はなんてものは初めから存在しなかった。それにもかかわらず、それは私たちの過去すら支配する」という台詞だ。この台詞はモルセル・センデゴ監督の映画「Dr.モリスと不愉快な友人達」からの引用だ。この映画は孤独なマッドサイエンティストDr.モリスが自らの手で友人たちを作り出していく物語だ。どこか奇怪で不気味な生体人形や冷たく無機質なアンドロイド、どこか異様で、何かが欠けている友人たちを作っていくのだ。最初は単純な人形、こちらが話しかければ話を返してくる単純な玩具のような人形だったが、Dr.モリスはどんどん物足りなくなっていく。そして自分の「友人」たちを次から次へと作り出していくのだ。そしてやがて友人人形たちはDr.モリスの手に負えなくなっていく。そんな中で彼がたった一つだけ作り出すのが、友人ではなく恋人の人形・メルセデスだ。既にいくつもの「友人」たちを作り上げてきたDr.モリスは高度なものを作り上げることができるようになっていた。そこで出来上がったメルセデスにはあらかじめ記憶が埋め込まれていた。Dr.モリスとはるか昔から恋仲であったとする記憶だ。そんな記憶を前提に話すメルセデスの言葉にDr.モリスは次第に翻弄されていく。そんな中で呟かれた言葉が「愛はなんてものは初めから存在しなかった。それにもかかわらず、それは私たちの過去すら支配する」という台詞だ。Dr.モリスは次第に心を病んでいき、悲しき終局に向かって突き進んでいく。そこには人工の友人を作り出すことへの皮肉も批判もない。友人は人工であれ偶発的であれ変わりはないのだ。悲しき結末へ向かうことはどちらにしろあり得ることであり、Dr.モリスばかりが経験することではない。
「友情は時に悲劇を生む」
最初に作り出された玩具の友人が唐突にそんなつぶやきを漏らす。ありふれた言葉かもしれないがこれもある小説からの引用だ。その証拠に玩具の友人(Dr.モリスには飽きられ、孤独の中に沈んでいる)がこの書物を読んでいるシーンが何度か登場するのだ。その書物は「スルピリドの夜」という小説だ。スルピリドというある街を舞台にした悪漢小説だ。ある二人の孤児がマフィアの使いっ走りとして登場する。二人は幼いころからの親友で、マフィアの世界でのし上がっていくことを二人で誓い合う。そして、実際にのし上がっていく。お互いがお互いを助けながら。マフィアの世界でもそれは純粋な友情であり、美しき愛情であった。だが、ある時、一方の男アビリットは敵対組織の罠にはめられ、捕まってしまう。友人の危機を救うためもう一方の男ミラドールは単身敵のアジトに乗り込んでいくのだ。だが、それでも友人を助けることはできず、アビリットは行方知れずになってしまう。ミラドールは悲しみに打ちひしがれるも、アビリットの分まで生きていくことを誓う。アビリットの恋人と結婚し、組織の中でのし上がっていく。そして十年の時が過ぎる。順風に過ぎ去る日常の中で、ある噂が流れる。アビリットは生きていると。そんな噂にミラドールは次第に焦りを募らせていく。さらには仮面の男がたびたび姿を現す。次第に明かされていく十年前の真実の中で二人の男の思いが交錯する。そして、友情は時に悲劇を生む。哀しき男たちは友情と矜持に身を沈め、わかっていながらも無情の終局へ向かって突き進んでいく。
そんな「スルピリドの夜」で仮面の男が愛読している本がある。『架空の書物たち』という本だ。その本の中には様々な架空の書物が収められていると、仮面の男は言う。だが、その本は実際には白紙なのだ。何も書かれていない本。だが、仮面の男はその本の内容を問われれば何の戸惑いもなく内容を教えてくれるのだ。
例えば、「深海水族館」。深海に住む巨大生物を展示する水族館が舞台、主人公はそんな水族館の深夜清掃員。彼はガラス越しに生き物たちに話しかける。軟体類に甲殻類、目の無い魚類に、無機物か生き物かも見当のつかない展示物。そんな存在に彼は日常の愚痴や己の過去を語り掛けていく。そんなとき彼は深海に沈む心持になるのだ。そして次第に彼は思いはじめるのだ。この水族館の展示物の仲間に入りたいと。男は次第に狂っていく。巨大な水槽を買い、己が身を沈めていく。男の狂気はどんどん深みに沈んでいく。そう、深海を目指して。
例えば、「天を駆ける」。ある武将の物語だ。天下を目指すべく、下剋上を繰り返し上りつめていく男の夢と挫折の物語だ。時に裏切り、時に裏切られ、ひたすら上ばかりを見つめ登って行こうとする男だったが、ある男との出会いにより、その夢を打ち砕かれる。あまりにも見ているものが違いすぎた。天下人とはこういうものかと思い知らされる。それに比べて己はすこしばかり才覚のあった凡夫にすぎぬと自覚させられる。そこで野望を諦め、その男のために尽くそうと思うのであった。だが、ある時魔がさすのである。絶好のタイミングで謀反を起こせば、天下はすぐそばにあるのだった。男はそれに思わず、手を伸ばそうとする。天下人になりたいわけではない。一瞬だけでいいから、天の高みを望んでみたいと。
例えば、「架空の書物たち」。その本の中には様々な架空の書物が収められている。実に様々な本が収められているのだ。例えば「粘性の愛」。三十代の女性と高校生の恋愛の物語だ。例えば映画「Dr.モリスと不愉快な友人達」の原作小説。そしてあるいは「スルピリドの夜」。そこにもやはり「架空の書物たち」という本が収められているという。架空の書物たちの中には架空の書物たちが内蔵されている。架空の書物たちはこれから生み出されていく書物なのかもしれない、仮面の男は言う。いやあるいは、生み出されずに胎内で死んでいった書物たちの亡霊か、とも。
「けれども結局生まれなかった物語は、忘却の中で消えていくしかないのよ」と粘性の愛を持つ女は言う。
「でもそれは数多くの物語が辿る運命と一緒でしょ?」と少年は言う。
「一度読まれただけでも、幸福なのさ。例え愛されなかったとしてもね」そういったのはDr.モリスだろうか。
「憎まれることを望む物語すら、ありえるかもしれない」機械人形は誰にむかうでもなく独り言をつぶやく。
「果たしてそうだろうか。読まれることを目的としない物語すら、この世にはあるかもしれないよ」そう仮面の男が最後に言った。