第23回 てきすとぽい杯
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水族館で私は夢を見た
みお
投稿時刻 : 2014.11.15 23:42
字数 : 3002
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水族館で私は夢を見た
みお


 その本を見つけたのは、閉館間際の水族館である。

 私は恐らく疲れていたのだ。崖ぷちの仕事に? うまくいかない人生に? 妻の我が侭に? どれが悪いというわけではない。
 少しずつの悩みが蓄積されるように、疲れが私を蝕んでいた。
 とある平日。営業に出た先で、私は小さな水族館を見つけた。
 さて。こんなところに水族館などあただろうか。一度は過ぎかけたが、私は再びその場に戻た。この道は何度も通た事がある。が、ここに水族館があることは今、初めて知た。
 水族館など、娘がまだ幼い頃に訪れたきりだ。いまの娘は反抗期で、老けた父親の隣には並んでもくれない。
 そこは、娘と一緒に行た水族館よりももと古びている。名前は掠れてみえないが、ひらがなで「すいぞくかん」と書いてあるようだ。
 折しもその日は、肌寒い雨が降る。来客は少ないだろう。
 なんとなく、人の居ない場所に行きたかた。飛び込んだのは、本当に偶然だた。

 水族館としては、小規模である。トンネル式の水槽と、大水槽が一つ、あるきりである。左右、上下、全てが水槽で作られたトンネル水槽を抜けると目の前には巨大な水槽がある。振り返ても、見上げても、見下げても、全てが青く、暗かた。
 青いのに暗い。光があるのに暗い。閉塞感のある憂鬱な、それでいて心地よい暗さだ。
 海の中とは、これほどまでに薄暗いのか。憂鬱だが惹かれる青である。泡が輝く、その中を銀の軌跡を描いて魚が泳ぐ。
 気がつくと、私はベンチに座り込み、魚を見つめ続けている。私を見下すような目で、魚がすり抜けていく。
 巨大な水槽にはイワシなのか小魚が大きな固まりとなて泳ぐ。合間を、エイがまるで着物の袖を揺らすように滑ていく。圧巻なのは、その向こうで悠々と泳ぐサメだろう。
 巨大だ。何と言うサメなのだろう。ゆうに3メートルはあるだろうか。
 私は惹かれるように立ち上がり、水槽に額を押しつけた。
 息で水槽が煙る。白い煙の向こう、サメの目が私を見ている。
 いかにもサメらしい、むちりとして、かつ敏捷な銀の肉体。大きな背びれがぴんと立ち、口はきりりと結ばれている。まるで空を飛ぶように、すうすうと水をいくのだ。
 この大水槽の中、彼は王者である。小魚は彼を避けて逃げる。彼は進みたいところへ、進みたいように進む。
 ふいにサメが私のたつ場所に近づいた。ガラス越しだというのに、ひどく恐ろしい。サメが真直ぐに向かて来るのだ。恐ろしいのに逃げられない。
 泡をはきだし、口を軽く開き、その目はらんと燃え、水槽に一度ぶつかる。まるで地震にでも襲われたように私は思わずその場に座り込んだ。
 一瞬、世界が暗闇に覆われた気がしたが、気のせいだ。気がつけば、サメはまるで私をせせら笑うように尾びれを振て去て行くところである。
 恥ずかしい姿をさらしてしまた。私は慌てて立ち上がる。
 が。そんな心配をすることもなかた。不思議なことに、客など誰一人いないのである。巨大水槽の前に私ただ一人である。スタフの姿も、入口にいたきりである。
 人の存在に気付いたのは、館内に蛍の光が流れはじめたからだ。時計を見ると、私がここに入てからすでに4時間が経過していた。そんなにも経たのかと驚き、逃げるように鞄を掴む。
 鞄を置いていたベンチの隅に、その本は落ちていた。

 ただ青い、水槽の色を映したような本であた。
 持て返てしまたのは、魔が差したとしか言いようがない。サメにまでせせら笑われ、腹が立たというのも理由のひとつだ。
 返すにも、入口にスタフが居なかたので、返しようが無かた。というのは言い訳だろうか。
 鞄にねじ込むように隠し持ち、会社に戻る。売上げの悪い社員には冷たい目線しか向けられない。
 こそこそと席に座り、書類の間に例の本を挟んだ。
 書類を読む振りをして、本を開く。それは小説のようである。細かい字がみちりと、描かれている。
 小説など、最近読んでいない私からすると荷が重い。しかし、読み始めると囚われた。
 その小説の一行目は、このようにはじまる。

「これは、架空の小説です。」

 小説なのだから架空であるに違いない。最初こそ鼻でせせら笑た私だが、読み始めると夢中になた。
 小説に登場する主人公は、魚であた。いかにも水族館らしい。さもあらん、と私は思う。
 主人公はサメだが、弱い。恋をしたメスサメには振られ、大きなサメに追われ、小魚も上手く獲れない。深海に潜るも、敵に追われる。
 弱て死にかけた時、文字通りすくわれる。それは人間の網によてだ。
 引き上げられた彼は水族館に運ばれた。当初こそ怯えていた彼だが、慣れればそこは極楽浄土だ。自分より強い魚はそこにはいない。餌は人間により自動的に与えられる。小魚も、自分を見れば逃げ出す。見学客は、自分を見て喜ぶ。
 青く広く、濁た、美しい自分だけの世界。
 そこで満足すべきだた。しかし、一つの欲が満たされると次の欲が芽生えた。厚いガラスの向こうの世界にいてみたい。人とはどんなものだろうか。自分の足で歩く人間という生物が見る空気は、世界はどうであろうか。
 彼は祈た。いや、魚に祈るという心はないだろう。ただ、願た。
 ある日、彼は見つけた。一人で訪れた男の客である。男は疲れた顔をしてベンチに腰を下ろしている。ぼんやりと水の中を見つめている。
 時折、惹かれるように水槽に額を押しつけてガラスを曇らせたりもする。
 サメは男に近づいた。ああ。この男と、自分の生を交換してみたい。
 サメは男を見つめた。ああ、この男も、自分と生を交換したいと思ている。

 これは架空の小説です。

 声がどこから聞こえた気がして、私は、は。と目を覚ます。いつから眠ていたのか。いや、眠ていたのか気を失ていたのか。
 目を開けると、そこは青の世界であた。水だ。水に覆われている。息が出来ない。もがきかけて、気がついた。
 そこは、水槽の中。地面に映る魚影は、巨大なサメ。
 私は水槽の中で、泳いでいる。私が動くと小魚は逃げる。光と青に包まれた水の世界。
 違う。私は人であた。サメなどではない。これは夢だ。もし本当の出来事であるのなら、私の人生はサメに喰われてしまた!
 助けてくれ。と叫んだ声は泡になる。水槽にすがりつく。
 そこに人影がある。よたよた泳ぎながら近づくと、それは水族館のジジを身につけた若い女である。
 彼女は手に大きな本を持て、水槽前に集まる子供達に読み聞かせをしているようである。
 それは、水族館に似つかわしい、青い表紙の本であた。

「これは、架空の小説です」

 彼女は芝居じみた口調で語り出す。
「昔々、いじめられ子のサメがいました……
 サメは弱り水族館にすくわれ、やがて妙な願いを持つ。人になりたい。人と生を交換してみたい。
 サメは男と生を交換する。人はサメとなり幸せに暮らす。そして、人となたサメは……。 

「これは架空の小説です」

 彼女は幾度も繰り返すように言う。
「でも、もしかすると、世界のどこかではあたかもしれない。あるかもしれない。そんなお話です」
 私は唖然とそれを見つめ、やがて諦めたように水中周遊を開始した。
 私は、彼女の語る架空の小説に囚われて一瞬の夢を見たのか。
 それとも、かつて私は本当に人であたのか。そうであるとするならば、人となたこのサメは、今頃どんな気持ちで二本足で歩いているだろう。
 しかしどうでもいいことだ。
 どうせこれは、架空の小説である。
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