星を狩りし星の皇女
本当に勝てるのか、と直見ケンジがぼやいているうちに、船は北アメリカ上空に着いていた。
隣にいる青い瞳の女が、自信なさげに肯いた。名前をマルコ・マルコシアス・ヴ
ァンプというらしい。バイト帰りの夕方に突如現れたのが、つい数時間前。北アメリカ中部は夜明けが近い。船内のスクリーンに映し出された空は、ほのかに明るさを増している。
「ケンジ様、まずはご協力いただきましたこと、皇家を代表してお礼申し上げます」
恭しくお辞儀するマルコは、皇家と口にしたもののどこか頼りない。ギターケースを抱えたままのケンジよりも髪は短く、気品のある趣ではあるが、未だに2人の間では混乱が渦巻いている。
「で、あんたが言う平均的な能力の俺が、べらぼうに強いジョーって奴を倒せば、あんたは試練をクリアする。そういうわけね」
「はい。標的の身体能力はケンジ様を大きく上回っているはずですが、全力でサポートさせていただきます」
言葉とは裏腹にか細い声だった。しかし、彼女がケンジの持つ常識の外にある存在であることは変わりない。マルコは遠い星から来たという。そして、今ケンジが乗船している船には、地球を一瞬で塵にする武力が備わっているらしい。
「サポートって、具体的に何するの? 俺、殺されたりしないよね」
「理論上はそのはずです。ケンジ様の潜在能力を私が引き出せば、同じ種族なら凌駕できると確信しています」
船は広大な森の上空で停止していた。マルコの話によれば、彼女は母星を統べる皇帝の娘であるという。長く平和が続くその星では、いつしか一つの慣わしが生まれていた。皇位を継ぐ者には、人心を掌握する試練を与えるべし。そして人心を掌握することの具体的な成果が、弱きが強きを倒すというものだった。
帝王学の風化を防ぐための苦肉の策とも言える。争いが絶えた星では、争いの絶えていない星で自らの哲学を実践するしかにゃい。もとい、ない。ケンジは駅前の路地裏で出会った風変わりな相手に呼び止められると、そのような現実離れした話を打ち明けられたのだ。
「姫さん、今更で悪いけど考えを改めてもらえないかな。あんたらの星には、もう敵なんていないんだろう。無関係な星にまで出張ってきて、俺みたいな平凡な人間を巻き込む必要なんてないじゃないか」
「それは、つまり……」
華奢な肩が震えるのを見て、ケンジは失言に気がついた。マルコシアス・ヴァンプ家は気位がひどく高い。皇位継承者が人心を掌握できない器だと知られるくらいなら、どうするか。星ごと滅ぼして痕跡を抹消する、とケンジは脅しを受けていた。
平和は一分の隙もない完璧な状態によって保たれるのです、とマルコは言う。その深刻な響きの声は病的と表してもいいほどだ。
「いや、すまない。今のは冗談だ。まあ、俺はこの星がなくなろうとどうでもいい。ただ、人類で一番強い男っていうのは見てみたい気がするな」
大きく息を吸い込むと、ケンジはかろうじて本意を誤魔化した。この世に生を受けて22年。マルコが左腕にはめているスキャナーと呼ばれる装置によると、もっとも平均的なフィジカルの持ち主として特定されたというが、ロックに運動能力は関係ない。ただ受け入れ難いことがあるとすれば、渾身の一曲を作る前にこの星が藻屑になってしまうことだった。
「ケンジ様、ありがとうございます。私のようなよその世界の人間の手助けをしていただいて、深く感謝いたします」
人心掌握の欠けらもない、きわめて事務的な口調だった。だが、それは感情を押し殺していただけなのだろう。マルコは目を伏せると、何事かを口ずさんだ。耳慣れない言語ではあったが、ケンジはそれが何であるかを知っていた。
「詩? でもこれは一体」
至高の旋律だった。そして、至高の旋律は聴く者に変化をもたらす。肉体が覚醒していく。ケンジは確かにそのことを実感していた。
「これが私に唯一できるサポートです。詩によって絆を結んだ者の能力を解放し、不可能を可能にする。私たちヴァンプ家はそれを武器に、かつては多くの星々を狩ってきたのです」
詩がやむと、ケンジは両手を見詰めた。今そこには、剣が握られ鎧に覆われていた気がした。これまで耳にしたどの詩ともそれはちがっていた。しかし、優れた詩は時として細胞をも組み変える。長年音楽と共に歩んできたケンジは、本能的にそのことを知っていた。
では、まいりましょうか。マルコは微笑むと、スクリーンのパネルを操作した。
どうやら、標的のジョーという人物を映し出すつもりらしい。ケンジは固唾を飲んで、スクリーンを凝視した。たとえ相手が名のある格闘家だろうと、鍛えられた軍人だろうと、マルコとリンクした今は簡単に負ける気がしない。素手で戦うなら、どこかに勝機はあるはずだ。
「哺乳類、二足歩行。通称、ビッグ・ジョー。彼は一部の人々にそのように呼ばれているようですね」
「通称?」
スクリーンに現れたのは、巨大な影。全身を毛で覆われていたが、銃撃を受けたのか、左腕の皮膚が露出しているようだった。
「ケンジ様、今新しいデータが更新されました。ケンジ様を基準にすれば、身長は1.7倍、体重4.3倍。標的は広い意味ではあなたと同種ですが、この星では希少種でもあるのですね。ヴァンプ家の歴史の中でも相当の体力差となります。お互い覚悟して臨みましょう」
「ちょっと待て。あんた、何を言っているんだ。あれは同種ではなく、サスカッ……」
説明をする間もなく、ケンジの両足は夜の明けない森の地面を踏んでいた。
転送完了、と気の張った声がする。
ほんの数メートル先でこちらを睨みつける、標的の圧倒的な存在感。
やばい、と焦ってはみたものの、身体が動かない。
五感が麻痺しているのをケンジは自覚した。
マルコが奏でる崇高な詩。
それはケンジの耳にはもはや届いていないようだった。