第25回 てきすとぽい杯〈てきすとぽい始動3周年記念〉
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しあわせなバレンタイン
大沢愛
投稿時刻 : 2015.02.14 23:45
字数 : 3424
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しあわせなバレンタイン
大沢愛


 スマートフンを耳に当てた翔太が夜空に向かて声を張り上げている。
「だ・か・ら、ブクス花出。住所? しらねよ。常盤通りのマクのとこを西に入てしばらく行たとこ。本屋。あー、でもここ、もうすぐ閉店らしいから入口チンかかるかも。え? だから動けねの。わかる?」
 軽自動車の車内は、駐車場の照明灯の届く範囲だけ灰色に浮かんでいる。ゆくり息を吐くと、フロントガラスがぼんやりと曇た。カシミアのセーターを着込み、ウールのキルテングコートを被る。口許に手のひらを翳すと、翔太のにおいが蘇た。
「どのくらいいかかるの? そりそうだけどさ、こちも寒いわけ。車から離れられないわけじん。なるべく早く。30分? 完全に本屋、閉まてるよ」
 
レギンスに一見ミニスカート風のシトパンツを組み合わせてきたのは寒さ対策だた。たとえば外を歩くとか。昼間は快晴で、場所を選べばおさんぽは快適だたはずだ。その間中、私と翔太はお天気の一切関係ない空間に籠ていた。消臭剤の撒かれた見せかけの清潔さの中で過ごしていると、身体に無数の埃が降りかかてくるのがわかる。窓のない部屋は何時間いても夕暮れ時みたいだた。翔太はルームサービスのメニを何度も手に取た。「このミクスグリルプレートとか、よくね?」添付された画像を見る。どう見ても冷凍食品を盛りつけただけだた。私が拒否すると、空腹に耐えかねた翔太は待ち合わせのときに渡したチコレートを開封して食べ始めた。ノイハウスのクピン・オ・フリイ5個入りがいちばんふさわしくない食べ方で消えてゆく。2個食べたところで我に返たのか「食う?」とケースを差し出す。「食う」味の記憶の残らないまま、1個350円の塊が700円ぶん、お腹に下りて行た。部屋に設置されたウターサーバの水を飲んで、空腹は宙吊りになる。音量ゼロでバイブレーターもOFFにしたスマートフンが、暗がりでLEDを点滅させていた。
 外に出たときにはあたりがオレンジ色に染まていた。翔太はだるそうに車に向かう。後頭部の寝癖に絡んだ糸くずがほどけてジトの背中を転がて行く。高校を出てすぐ就職した翔太は、就職先が自動車メーカーの下請け会社で、入社と同時にメーカーの車をローンで買わされた。好きな車は他にあたけれど、メーカーの工場には他社製の車は入れない。お金が溜またら別にもう一台買うことにして、いちばん負担の少ない軽自動車を購入したそうだ。で、いつ買うの、と訊くと、言葉を濁す。周りにも同じことを考えて軽自動車オーナーになた同僚が何人もいるけれど、誰一人、本命車購入には至らない。そのうちに会社を辞めていくか、カー用品店に足繁く通てドレスアプに走るか、だそうだ。翔太の車のダボードにはフイクフが貼られ、白いステアリングカバーが被せられていた。会社の帰途、飲みに行くことも多い。もちろん車で行く。地方都市で、居酒屋には駐車場が併設されて、酔客が次々と車に消えてゆく。翔太によれば、絶対に飲酒検問に引掛からないコースというのが社内で周知徹底されているらしい。万が一捕また場合は、自動車メーカーの下請け社員としてあるまじき振る舞いだということで、厳しい立場に立たされる、という。どのくらい厳しいかは、該当社員がことごとく辞めていくのでよく分からないそうだ。
 高速道路インターンジ付近のイタリア料理店で夕食を取た。ワインを頼んでもいい、と翔太は言てくれた。私を乗せるときだけは絶対に飲酒運転をしない。制止義務違反で私も罰せられるからだそうだ。代わりに頼んだジンジエールで乾杯する。シーフードパスタとマルゲリータのピの味はよく分からなかた。ペペロンチーノでなくていいの、と翔太は言う。たまには違うやつがいいの、と答えたけれど、ジンジエールを飲むたびにアサリのあと口が蘇た。
 店を出て駐車場に向かう。高速道路のヘドライトが谷底を目がけて流れ落ちている。ガラスを撒いたみたいな工業地帯の明かりが山の向こうに広がている。二月の夜は容赦なく冷え込んでいる。本屋に行こう。翔太が車のルーフ越しに声をかけた。愛衣、本好きだもんな。いいね。助手席に座る。ひとしきり唇が覆われたあと、車はゆくりと県道に合流した。山越えの道を軽自動車はエンジンを引き絞りながら登てゆく。なにも聞こうとはしない。オーオのイルミネーンが目の奥を搔き回す。街灯のない切り通しを抜ける。ヘドライトの中を擁壁ブロクが流れていく。板チコみたいだ、と思う。市街地に入て、片側二車線道路に合流する。常盤通りだ。歩道と街路樹の向こうに車で埋また店舗駐車場が続く。バレンタインデーだから、というよりも土曜日だからかもしれない。二人で過ごしていると気がつかなくなるけれど、実は色恋沙汰に無関係なひとたちの方が多い。助手席から眺めていると、家族連れや同性同士の背中は確信に満ちている気がする。翔太といに過ごしてきた間に、自分の中からいろんな確信が抜け落ちていた。翔太が会社に行ている間に、同じ大学の男の子と遊んだ。たぶん楽しかた。いにいるのは慣れで、慣れの部分から醸し出されるものが心地良さにつながる。心地良さを堪能するより前に別れた。次の男の子も。その次も。
 高校時代、津軽」を現代文の授業でやたときに、先生が太宰治について話した。太宰の心中未遂の原因が、奥さんが処女でなかたから、と説明したあと、芝居がかた口調で「ああ、死のう」とやた。教室に笑い声が広がた。私も笑いながら周りを見回した。笑ていたのは女の子だけだた。
 翔太は大柄な私よりもさらに背が高く、強面だた。それでも私に手を挙げたことはない。私が何を言ても黙て聞いているだろう。もしかすると、最後に殴られるかもしれない。それなら私も思い切り殴り返すつもりだた。
 ブクス花出の駐車場に着いた。いつもは私が店内に入ている間、店の外で煙草を吸ているか、たまに雑誌コーナーをぶらつくかだた。エンジンを切て車を降りようとする翔太を止めた。
「話があるの」
 翔太は何も言わず、ドアを閉めた。
 しばらく黙たあと、ぽつりぽつりと言葉をつないだ。いにいるのが辛いこと。このままだと翔太を傷つけてしまうこと。翔太のことは嫌いではないこと。別れたい、ということ。
 他の男の子のことは言わなかた。話がこじれたら口に出して、決定打にする。翔太は沈黙していた。エンジンOFFとともにエアコンも止また車内は冷えてきた。鼻水が出そうになる。ぽつりと翔太が言た。
「最後にもう一回、しよう」
 もう充分じない、とは言えなかた。うなずいてコートを脱ぐ。駐車場所は店舗側面の暗がりだた。付き合い始めのころは、夜の暗がりを探して車を走らせていた。セーターから頭を抜くと、翔太はジーンズから足を抜こうと躍起になていた。身震いがする。
「エアコン、つけて」
 膝にジーンズを絡めたまま、翔太はエンジンキーを回した。エンジンは力なく呻いただけだた。何度も繰り返すうちに、その呻きさえ聞こえなくなた。焦た翔太は知り合いの整備工場に電話して救援を要請した。工場の担当者は、任意保険に救援サービスがついているのではないか、と教えてくれた。スマートフンのバクライトで任意保険の契約内容を確認する。間違いない。翔太はジーンズを穿きなおして車外に出た。慌てたのか上半身はTシツのままで。

 電話を終えた翔太が車内に入てくる。もそもそとセーターを着込む。
「救援、くるから」
 ぽつりと言う。黙てうなずき返す。もうそろそろ店舗の明かりが消えるだろう。そのあともこうやて凍える車内でじとしているのだろうか。
「あのさ、さきの、ちとナシにしようか」
 語尾が震える。翔太の顔はよく見えない。
「次に会たとき。もういぺんちんと言うから。バテリー上がた車で別れるなんてナシ。それでいい?」
 怒るかな、と思たけれど、声は聞こえなかた。
「うん」
 そんな声が漏れる。次に会たときには、もしかすると別のことを言うかもしれないよ。でも、それもたぶん本音だから。こうやて救援を待ちながら、その上でもういぺん出した結論だから。
 冷えて行く車内で、洟を啜る音が偶然、シンクロした。
           (了)
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