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今日の授業は全て終わり、閉館まで二時間ほどあったので、私はいつもの自習室に向かった。あまり期待せずに自習室に着くと、三つほど席が空いていたので、入口から一番遠い空き机を取ることにした。
着席すると、疲れがどっと出たかのように身体の力が抜けた。それでも、とりあえず英語だけでも復習しようとノートを開いた。
和文英訳がいまいちだった。
そもそも、英語を母国語とする人と話したこともないのに英語を学んでいるから、おかしい日本語になるのだと思う。じゃあそういう人たちと話せばいいじゃないかと思ったがそこまで受験のためにする気にはなれなかった。
実際、そんな場所が近くにあることも分かっている。
ただ、そういうところに行ってみたいのは勉強とか受験とかそういったくだらない物のためではなく、単に少し違った自分がいそうな場所で遊んでみたいという好奇心からくるのだろうとも思えた。場所を変えても自分は変われないのは自分の発する言葉で自分自身をこういう人間なんだと確認しながら無意識に調整しているからなのだろうし、と思うと、根拠のないことを考えているなあ、と鼻で笑いながらも、英語で話す自分は今までよりも明るくフランクな自分でいるに違いないと信じたい思いもどこかにあった。
鉛筆を前へ放り、体を伸ばして力を抜いた。だらりとした身体にどこからかこんな思いが染み入ってきた。
―少し生意気だよね、あなたって―
そんなの、お互い様じゃないか、と夏休み前に喧嘩別れしたままの学校の部活仲間に私は言いたくなった。
そんなとき、入口に近い席が急にざわつき始め、すぐにそれは隣の机へ伝染していくように広がっていった。やがて全体的に騒がしくなると、近くにいた男子が私にいきなり話しかけてきた。
「火事らしいよ。この近くで」
「え、そうなの?」
「うん。いまツイッターで確認した」
私はその言葉に思わず「え?」っと言ってしまった。
「ここ、電波入るの?」
「あ、僕の入るんだ。ほら」
そう言って彼は私にスマホの画面を見せた。スマホの電波状況は確かに良好なことが示されていた。
「ちょっと見て来ようかな。ねえ、もしかして行く?」
「いや、私は行かないけど」
「じゃあ荷物お願い。すぐ戻って来るからそれまで見ててよ」
私が何かを言う前に彼は席を離れると、二つ離れた席の女子の肩を叩き、その女子と一緒に去っていってしまった。
少しざわついた自習室は二人が出ていくと急激に冷えたように静かになり、私の知っているいつもの自習室に戻った。
何か無くなれば私の責任にもなるのが嫌で、彼の机をちらちら気にしながら私は授業の復習に取り組もうとした。もちろん集中できず、イライラが募り、手持無沙汰にスマホを取り出しても電波はつながらず、まるで軟禁されているような思いだった。
そんな時間がおよそ三十分ほど続き、やっと彼が帰ってきたときにはすっかり私は精神的にも疲れ果てていた。
「荷物見ててくれてありがとう。これ、御礼として買ってきたよ」
そんなものじゃ足りないよ、と私は思いながら私は彼が差し出した500MLペットボトルのサイダーを受け取った。
開けて飲むと、なんだか懐かしい味がして、もう勉強なんかやめて今すぐどっかで泳ぎたくなった。
「美味しい。ありがとう。もうどっかで泳ぎたい気分」
「あー、分かるそれ。僕も海で飲んだ。夏って感じだよね」
私の夏は全て予備校で終えた。まさしくダサい高校最後の夏を過ごしてしまったなあ、と思ったとき、彼が言った。
「夏、どこか行った?」
「いや、どこにも行けなかった。予備校で終わっちゃった」
「そうなんだ」とそっけなく返され、私も「うん」とだけ返すと、お互いに話すことが無くなり、いつもの自習室に戻った。
久々に飲んだサイダーが美味しくて全部飲み干すと、ペットボトルを捨てに私は自習室の隣にある休憩室に行った。そこで偶然、石川と鉢合わせになり少し話をしていたとき、自習室で話した男子がやってきた。
そこで私は石川と彼が県内トップクラスの進学校の学生だと知った。彼の名字は小樂と言った。
石川とはお互いにどこの高校とかも言っていなかったので、そんなにできる人だとは思っていなかった。
小樂が「勉強したくない」と唐突に言った。私もそうだったので、三人で開いているテーブル席を見つけ、そこに座った。
席に着くと、三人で大学に入学したらやりたいことで盛り上がり、石川と小樂は二人であれこれ語って、私は聞いて頷くだけになっていた。実は石川は海外で四年間暮らしていたらしく、二年前に日本へ家族と共に帰ってきたらしく、だから英語はほぼ満点をとれるのだと知った。
小樂は京都で育ち二年前に東京に移住したらしく、苦手な科目は美術と書道だと笑って言った。気さくに話しかけられる彼を、私は男女ともに好かれるタイプなように見えた。
私はやりたいことが明確に決まっていないので、そのことを正直に伝えると小樂は「どうして大学行くの?」と聞いてきた。
「なんとなく。将来のためにも」
「夏休みそれで遊ばなかったの? すごい精神力」
「もうここまでくると使命感のようなもの。でも何を学びたいとか考えていないんだけどね。だから、とりあえず社会学部にでも」
「だったら、いっしょの学部に行く? 少しは興味があるんでしょ? 生物学に」
「少しどころか、聞いていてかなり興味を持った」
私が言うと、石川が言った。
「今さら理転ってできるの?」
小樂がすかさず返した。
「できるんじゃないかなあ。センター模試で9割とれているんだし」
簡単に言ってくれるな、と私がいうと、石川はそうだよなあ、と同調して小樂を突っついた。
「でも、できると思うよ」
小樂は無責任に笑って、応援すると言った。
残りおよそ三十分ほどで閉館となる。だいぶ話をした、と腕時計を確認してそう思った。
私以外と話をしている石川を初めて見ていると、彼の本当の姿はこうなんじゃないかと思った。
私と石川が二人で話しているときの彼は、いつも眠たそうにしてスマホをいじり始める。今はスマホが震えようとも確認もせず、小樂との会話を弾ませていた。あんな英語を本当に海外で使うのか、あんなの使わないよ、そんな話が続いていて、聞いているだけでも楽しかった。
やがて、石川が地獄変の疑問点を急に切り出すと、小樂は「読んだことないよ、芥川ってだれ?」と言ったので、石川と私は驚いて声を挙げた。石川は地獄変の内容を小樂に簡単に説明すると、今日の昼の話をもう一度ぶり返した。
昼の時よりも石川は熱がこもっていたので、私もつられて話に力が入った。焼かれた娘はどうして無抵抗だったのか、という話からやがて絵師の性格の話に移り変わった。
「あの絵師は、自分から生み出したものしか愛せない性格だろうけど、娘を産んだのは妻だろう」
「娘を育てたのは絵師なんじゃないの?」
物語をそこまで深く読んでいないため私は適当に言ったが、石川は「そうかあ、そうだよなあ」と言って納得したような顔を見せた。
「見た物しか描けない絵師なんて、結局は二流だよなあ。見える物しか描けない絵師なんて、人間の本当に欲しい物を描くことなんかできないんだから」
それを聞いた小樂は唐突に言った。
「あー、それ。なんか分かる気がする。美術できないけど」
石川は笑い、小樂を向いて言った。
「だから、おどろおどろしい物しか描けなかったのかもしれないなあって。目の前の世界なんて、自分の見たいようにしか見えないのだから。絵師の描いた絵を見る人たちだってそれは同じことだろ」
「娘さんだけが、他の人と違った見方をしていたのかもしれないって?」
この時、私は急に自分の中で何かが白けていくような感じがした。何かこの二人のことを画面越しに見ているような気がしてしまって、また会話の内側から外側に弾かれてしまったような気がした。
石川は明らかに私と話すより、小樂と話しているときの方が楽しそうに見えた。いや、実際にそうなのだと思った。
別に、そっちのけされているわけでもない。そんなことは分かっている。
そんな時間はほんの数分だったはずなのに、あまりにも長く感じた。
「読んでいないからそこまで聞かれても分からないよ」
小樂がそう言うと、石川は「そんなことないって」と言って、私の方を向いて言ってきた。
「やっぱり娘が焼かれるのはおかしいだろ。あれは娘の絵が描かれた何かを燃やした方がしっくりくる」
私は、いつものつまらない私にすっかり戻っていた。
「いや、小説に書かれていることをそのまままずは読まないとダメでしょ。自由な解釈はその後で、まずは正確に読まないと。自分の都合に合うように読んでたらできる問題もできなくなるよ」
「分かってる