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the_flame(unfinished)
授業が全て終わ
ったので、この教室からいちばん近い自習室へ向かうことにした。
予備校が閉まる時刻まであと二時間あった。英語の授業が辛く、先生の板書を書き写せても、理解はできていない。重要英単語や熟語の暗記はできた。サルでもできることだから、なんのアドバンテージにもならない。
辛いのは長文の速読だった。せっかく覚えた英単語の意味がつながらない。日本語がぎこちなく、英文和訳の問題に時間がかかる。さらに困るのは、私の速読のまま和訳すると、全ての登場人物の話し方がやたら丁寧になってしまう。女子が男子にCool! と言ったシーンを「カッコいいです!」と訳す、そしてYEAH! という返事をそのまま「イエーイ!」。日本人が日本語でそんな会話をしていたら噴飯ものだと思った。少なくとも私は「カッコイイです!」だなんて口が裂けても言わない。
十一階の自習室の入口に着き、隣にある自習室利用受付発券機で空席を探した。が、この階の自習室は満席だった。センター試験まで残り三か月を切ったからだろうか。一週間ほど前から自習室は空きが少なくなった。夏休み中にはありえないことだった。
夏休み中は日が沈む前に帰宅する人が多く、八時過ぎになると空席があちこちにあった。友達と一緒に帰宅する彼らの方が高校生として正しい姿なのだろうと思い、予備校に友達がいない私としては会話を弾ませながら帰宅する彼らが羨ましかった。その反動か、ああいう奴らがセンター試験が近づくにつれに辛い思いをするんだと決めつけ、今に見てろと一人で必死に英語の長文問題を解いていた。そうして今。できなくて焦っている私がいる。なんとも、滑稽な話だと思う。
自習室は他にもあったが、私はなんとなしにドアノブに手をかけ、席もないのにそのまま入室した。相変らずの広く薄暗い静かな一室に、一つ一つブースになって隣と区切られた机が並んでいた。机の幅は広く、B5ノートを二冊広げてもまだ余裕があるほど。机と机の間にはやや分厚い木製の仕切りがあり、予備校生は通路を挟んで背中合わせになって机に向かっていた。通路はO字型に繋がっており、出入り口はここだけだった。
私はその通路をゆっくりと歩きながら彼らの様子を一人一人ざっと見て行った。黙々とひたすら己の受験勉強に励む姿は、座禅に一心し瞑想に励む禅僧たちのように思える。この感想は初めて入室したときと変わっていない。実際に、寝ているのか瞑想しているのか分からない人もちらほらいた。いさぎよく眠っている人を見ては、寝るぐらいなら私と変われよと思った。
角に当たり、左に曲がりながらふと思った。
私はいったい何をしているのだろう、と。
この自習室には窓がなく、会話もなくて、電波も繋がらない。この三つの条件が揃うだけで、多くの高校生はほとんどの行動を封じられるのではないかと思った。ひと一息入れようと思い眺めたくなる外の景色もなく、気分転換のための会話もない。
ある女子がこの自習室は電波がつながらないから心細いと言っていた。問題に頭を悩ましているとき、誰かのツイートを見ると少しだけ元気になると友人に言うと、友人は大学の先輩のツイッターを見てると和むと言っていた。勉強は一人でするものだと思い、勉強しているときはスマートフォンに決して触らない私としては、二人の会話は馬鹿にしたいところもあったし、共感してしまう内容でもあった。
見かけたことのある青と白のボーダー柄のTシャツを着た人が右手に見えた。その囚人のような姿から、すぐに私は石川だと分かった。
近づいてみると、石川は勉強の代わりに違うことを熱心にやっているようだった。彼の右側に開かれたテキストを彼は全く見ることなく鉛筆をひたすら動かしていた。
石川に限ったことではないが、彼は私が背後で立ち止まったことに何も反応しなかった。この自習室で勉強する人たちは何者かが何を思って背後で立ち止まっていようとも、気にする素振りも見せずに何かをし続ける。彼もひたすら鉛筆を動かしていた。紙と鉛筆のすれる音をささやかに出し続けながら。
私はできるだけ邪魔せぬように石川の机を横から覗き込める位置まで踵を返した。彼は左側に寄って机に着く癖があったので、仕切りと彼の間は十分広く、それでも頭を下げて書いているときは見ることができず、彼がやっと鉛筆を置いて顔を上げたときに大学ノートを覗き込めた。
ノートには今にも揺らめきそうな白黒の炎が描かれていた。先端に近づくほどくっきりと輪郭が描かれながらも薄く描かれた炎は、火元から外側へと何段階にも熱そうなグラデーションを帯びていた。
鉛筆を持ち替えると、やたら熱心に燃え盛る炎の絵の続きを描き始めた。ノートの右側のページを使い、鉛筆でガリガリと炎の先を書き込んでは、鉛筆を寝かしたと思うと火元を塗り始めた。何度も何度も鉛筆を往復させ、消しゴムを使って薄く消したかのように見えると、また塗り始めた。
ノートの右斜め上には広げられたままの参考書がほったらかしにされていた。それが現代文の参考書だと分かると、私は夏休み前の石川の模試の点数を思い出した。彼は現代文だけ全国平均を下回った。そして急遽、現代文の単科講座を受講し始め、私と同じ講座には出てこなくなった。それでも、顔を合わせれば話している。
そこまで仲良くはないと思う。一人ぼっちと見られるのが嫌だから、適当な同盟関係を結んだに過ぎないのだと思う。現代文の授業のときの席が隣だったから、石川は私に声をかけたのだと思う。友達とはいえない気がした。
やがて天に上る揺らめく炎の先を描き終えたらしく、次に石川は炎の背景に立ち昇る手早く煙を描き始めた。
ところが、その煙がまるで漫画チックな煙で、今までリアルチックに描いていた炎と似合わぬくらい固く不器用な煙だったので、私はそのアンバランスさに思わず吹いてしまった。炎の先はどこまでも細く長く立ち上っていきそうに描かれているにも関わらず、煙はシールをぺたりと貼り付けたように描かれ全く動きそうに見えなかった。
私が思わず吹き出しても、彼は全く振り返ることはなく、それはこの部屋にいる人たちもそうだった。みな、一様に何かに取り組み、私を無視している。
それにしても、石川も、その他の人たちも、どこからそんなダサい服を手に入れてくるのだろう。
このとき、私はまたもや何をしているのだろう、という思いに駆られ、石川の煙がこの後にどうなるのかと気になりながらも、足早に自習室から出ていくことにした。2 / 4
「おう、ちょっといい?」
翌日の夕方過ぎ、空き教室で一人でおにぎりを食べていた時に石川から急に声をかけられた。てっきり昨日の自習室で覗き見していたことを言われるのかと思ったが、挨拶を返すとため息交じりにこう言ってきた。
「現代文教えてよ。どうしても伸びない」
石川とはもう現代文の授業は同じクラスではなかった。私の知らない単科講座の教科書を見せてきたが、解いてもいない問題にアドバイスできるはずもなく、やんわりと断った。
彼は「ケチ」とだけ言うと机を挟んで私の前に座った。
「どうやって解いてるんだよ。あんなに早く」
「日本語でしょ、そのまま読んで、そのまま答えればいいだけじゃない」
思ったままのことを素直に言うと、彼は「単科講座の先生もそう言ってたよ」と言った。
それから彼は口を開かず、その間に私はおにぎりを全て食べ終えた。彼は珍しく制服姿で、細身な身体に紺色のブレザーとネクタイをした姿が少しかっこよく見えた。
本当はさっさと食べ終えて自習室に行くつもりだったが、なんとなしに彼と話したかった。
「なにが分からないのよ」
「どうして間違えるんだろうなあ、って」
「間違えるように問題が作られているからでしょ。私だって、どうして英語の長文で間違えるんだろうと思ってるわよ」
私がそう言うと、彼は首を捻った。
「英語? 英語こそそのまま読めばいいんだよ」
「できる人はみんなそういうよね」
「うわー、俺よりできてるくせによく言うよ」
「この前の模試は勘が当たりすぎて参考にならないわよ」
「俺の国語も今はそんな感じだ。勘が冴えてるって感じ」
十月の模試は思ったより簡単だったのかも、と二人で頷くと、話は止まりお互いに口を閉じた。私があくびをすると、彼は眠たそうに目をこすったりして、そしてスマホを取り出していじり始めると、私も真似するようにスマホを取り出した。授業まで残りおよそ四十分、スマホですることもなく、私はスマホをしまうと二人きりでいるところを知人に見られたくなくて席から立ち上がろうとした。
「自習室、あいてないよ」
スマホをいじりながら彼が言った。「そうなの、ありがとう」と私が言うと、「あの自習室、最近になって人気が出てるみたい」と言ってスマホをカバンにしまった。
「炎、書くの好きなの?」
行先を失った私はそう言って着席した。彼は今から夕飯を食べるらしく、カバンからコンビニで売られている焼きそばパンとメロンパンを取り出した。
「いや、絵を描くことは好きだけどよ、別に炎が好きなわけじゃない。そういや昨日、自習室で俺のノートを覗き込んでたっけ」
「知ってたの?」
「知ってたけど、あの自習室で声出すって、すげえ勇気がいる」
私は思わず笑って頷いた。彼は焼きそばパンの包装の封を縦に切った。いつもコンビニで見かけている焼きそばパンは、彼が一口目を頬張るときに特に美味しそうに見えた。
「最近食べていないなあ、焼きそば」
「復活したよな、ペヤング。コンビニ行ったけど売り切れだった」
「食べたかったの?」
「いや、別に」
ふーん、と私が適当に返事をすると、焼きそばパンを半分ほど残して彼はメロンパンに手を出し、一口がぶりついた。
飲み込み、指先で口元を拭いてから言った。
「単科講座の小説が芥川龍之介の地獄変でな。それを解いていたら炎の絵を描きたくなった。ついでに描いていたら、絵師の考えも少しは分かるかなって思ったんだけど、無理」
「分かるわけないでしょうが、そんなの」
「でもよ、この時の絵師の考えとして適切でないものを一つ選べ、って問題が出てくるのよ」
「それっぽい根拠を探すんじゃなくて、明らかに違うことが書かれているのを見つければいいだけでしょ」
そう言って私は教科書を見せてもらった。彼を悩ませていた問題には選択肢が五つあり、一見してもどれが間違っているのか分からなかった。
芥川龍之介の地獄変は高校の教科書で読んだ。自習時間ですることがなく、暇つぶしに読んで、燃える車の中に飛び込んだ猿に驚き哀れに思え、絵師の気違いっぷりに芸術至上主義とは悲惨なものだなあ、とそう思ったくらいだった。
問題を解く気もあまり起きず、次のページをめくると解答欄に3と書かれて赤マルが付いていたので、「あってんじゃん」と言って私は返した。
石川は焼きそばパンの最後の一口を飲み込んでから言った。
「いや、なんとなく分かるんだけどよ。娘を焼かれた絵師の気持ちって、ただ描きたいという思いだけじゃなかったのは分かるんだけどよ、でも気が狂っているわけでもなかったんだろ」
「気違いっぽいことはしているけど、己の芸術のために行っていたことだからね。狂っているとは別でしょ」
「でも、自分の愛してた娘が目の前で焼かれてるのに芸術のために見続けるかって思って」
「そこは物語だから」
「そんな嫌そうな顔すんなよ。で、思ったんだけどよ」
「なにを?」と私が言うと、彼は冗談半分な顔をして言った。
「そこにいる娘は本当に自分の娘だったのかなあって。もしかしたら自分の描いた絵から出てきた娘だったのかもって」
なにバカなことを言っているんだよ、と私は冷やかに笑った。
「そうだとしたら絵師はまた娘を描き出すんじゃないの?」
「そうかもなあ」
彼のその一言でその話は終わり、残りの時間はどこを受験するというありきたりな話になった。お互いに第一志望は国立の同じところに変わっておらず、一緒に合格しようねと簡単に言って、授業開始十分前になると、次の授業の教室へ彼は向かおうとした。その場で別れを告げたとき、教室にはかなりの人が着席していた。
―あの自習室で声出すって、すげえ勇気がいる―
たとえそうだとしても、振り向いて目で挨拶してくれてもいいじゃない。そう思ったが、逆の立場だったら私も黙って描き続けているだろうな、と思った。
ただ、私の場合は勇気とかではなく、邪魔しないでよという威嚇を張り巡らせながらだと思った。
我ながら嫌な性格だ。
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今日の授業は全て終わり、閉館まで二時間ほどあったので、私はいつもの自習室に向かった。あまり期待せずに自習室に着くと、三つほど席が空いていたので、入口から一番遠い空き机を取ることにした。
着席すると、疲れがどっと出たかのように身体の力が抜けた。それでも、とりあえず英語だけでも復習しようとノートを開いた。
和文英訳がいまいちだった。
そもそも、英語を母国語とする人と話したこともないのに英語を学んでいるから、おかしい日本語になるのだと思う。じゃあそういう人たちと話せばいいじゃないかと思ったがそこまで受験のためにする気にはなれなかった。
実際、そんな場所が近くにあることも分かっている。
ただ、そういうところに行ってみたいのは勉強とか受験とかそういったくだらない物のためではなく、単に少し違った自分がいそうな場所で遊んでみたいという好奇心からくるのだろうとも思えた。場所を変えても自分は変われないのは自分の発する言葉で自分自身をこういう人間なんだと確認しながら無意識に調整しているからなのだろうし、と思うと、根拠のないことを考えているなあ、と鼻で笑いながらも、英語で話す自分は今までよりも明るくフランクな自分でいるに違いないと信じたい思いもどこかにあった。
鉛筆を前へ放り、体を伸ばして力を抜いた。だらりとした身体にどこからかこんな思いが染み入ってきた。
―少し生意気だよね、あなたって―
そんなの、お互い様じゃないか、と夏休み前に喧嘩別れしたままの学校の部活仲間に私は言いたくなった。
そんなとき、入口に近い席が急にざわつき始め、すぐにそれは隣の机へ伝染していくように広がっていった。やがて全体的に騒がしくなると、近くにいた男子が私にいきなり話しかけてきた。
「火事らしいよ。この近くで」
「え、そうなの?」
「うん。いまツイッターで確認した」
私はその言葉に思わず「え?」っと言ってしまった。
「ここ、電波入るの?」
「あ、僕の入るんだ。ほら」
そう言って彼は私にスマホの画面を見せた。スマホの電波状況は確かに良好なことが示されていた。
「ちょっと見て来ようかな。ねえ、もしかして行く?」
「いや、私は行かないけど」
「じゃあ荷物お願い。すぐ戻って来るからそれまで見ててよ」
私が何かを言う前に彼は席を離れると、二つ離れた席の女子の肩を叩き、その女子と一緒に去っていってしまった。
少しざわついた自習室は二人が出ていくと急激に冷えたように静かになり、私の知っているいつもの自習室に戻った。
何か無くなれば私の責任にもなるのが嫌で、彼の机をちらちら気にしながら私は授業の復習に取り組もうとした。もちろん集中できず、イライラが募り、手持無沙汰にスマホを取り出しても電波はつながらず、まるで軟禁されているような思いだった。
そんな時間がおよそ三十分ほど続き、やっと彼が帰ってきたときにはすっかり私は精神的にも疲れ果てていた。
「荷物見ててくれてありがとう。これ、御礼として買ってきたよ」
そんなものじゃ足りないよ、と私は思いながら私は彼が差し出した500MLペットボトルのサイダーを受け取った。
開けて飲むと、なんだか懐かしい味がして、もう勉強なんかやめて今すぐどっかで泳ぎたくなった。
「美味しい。ありがとう。もうどっかで泳ぎたい気分」
「あー、分かるそれ。僕も海で飲んだ。夏って感じだよね」
私の夏は全て予備校で終えた。まさしくダサい高校最後の夏を過ごしてしまったなあ、と思ったとき、彼が言った。
「夏、どこか行った?」
「いや、どこにも行けなかった。予備校で終わっちゃった」
「そうなんだ」とそっけなく返され、私も「うん」とだけ返すと、お互いに話すことが無くなり、いつもの自習室に戻った。
久々に飲んだサイダーが美味しくて全部飲み干すと、ペットボトルを捨てに私は自習室の隣にある休憩室に行った。そこで偶然、石川と鉢合わせになり少し話をしていたとき、自習室で話した男子がやってきた。
そこで私は石川と彼が県内トップクラスの進学校の学生だと知った。彼の名字は小樂と言った。
石川とはお互いにどこの高校とかも言っていなかったので、そんなにできる人だとは思っていなかった。
小樂が「勉強したくない」と唐突に言った。私もそうだったので、三人で開いているテーブル席を見つけ、そこに座った。
席に着くと、三人で大学に入学したらやりたいことで盛り上がり、石川と小樂は二人であれこれ語って、私は聞いて頷くだけになっていた。実は石川は海外で四年間暮らしていたらしく、二年前に日本へ家族と共に帰ってきたらしく、だから英語はほぼ満点をとれるのだと知った。
小樂は京都で育ち二年前に東京に移住したらしく、苦手な科目は美術と書道だと笑って言った。気さくに話しかけられる彼を、私は男女ともに好かれるタイプなように見えた。
私はやりたいことが明確に決まっていないので、そのことを正直に伝えると小樂は「どうして大学行くの?」と聞いてきた。
「なんとなく。将来のためにも」
「夏休みそれで遊ばなかったの? すごい精神力」
「もうここまでくると使命感のようなもの。でも何を学びたいとか考えていないんだけどね。だから、とりあえず社会学部にでも」
「だったら、いっしょの学部に行く? 少しは興味があるんでしょ? 生物学に」
「少しどころか、聞いていてかなり興味を持った」
私が言うと、石川が言った。
「今さら理転ってできるの?」
小樂がすかさず返した。
「できるんじゃないかなあ。センター模試で9割とれているんだし」
簡単に言ってくれるな、と私がいうと、石川はそうだよなあ、と同調して小樂を突っついた。
「でも、できると思うよ」
小樂は無責任に笑って、応援すると言った。
残りおよそ三十分ほどで閉館となる。だいぶ話をした、と腕時計を確認してそう思った。
私以外と話をしている石川を初めて見ていると、彼の本当の姿はこうなんじゃないかと思った。
私と石川が二人で話しているときの彼は、いつも眠たそうにしてスマホをいじり始める。今はスマホが震えようとも確認もせず、小樂との会話を弾ませていた。あんな英語を本当に海外で使うのか、あんなの使わないよ、そんな話が続いていて、聞いているだけでも楽しかった。
やがて、石川が地獄変の疑問点を急に切り出すと、小樂は「読んだことないよ、芥川ってだれ?」と言ったので、石川と私は驚いて声を挙げた。石川は地獄変の内容を小樂に簡単に説明すると、今日の昼の話をもう一度ぶり返した。
昼の時よりも石川は熱がこもっていたので、私もつられて話に力が入った。焼かれた娘はどうして無抵抗だったのか、という話からやがて絵師の性格の話に移り変わった。
「あの絵師は、自分から生み出したものしか愛せない性格だろうけど、娘を産んだのは妻だろう」
「娘を育てたのは絵師なんじゃないの?」
物語をそこまで深く読んでいないため私は適当に言ったが、石川は「そうかあ、そうだよなあ」と言って納得したような顔を見せた。
「見た物しか描けない絵師なんて、結局は二流だよなあ。見える物しか描けない絵師なんて、人間の本当に欲しい物を描くことなんかできないんだから」
それを聞いた小樂は唐突に言った。
「あー、それ。なんか分かる気がする。美術できないけど」
石川は笑い、小樂を向いて言った。
「だから、おどろおどろしい物しか描けなかったのかもしれないなあって。目の前の世界なんて、自分の見たいようにしか見えないのだから。絵師の描いた絵を見る人たちだってそれは同じことだろ」
「娘さんだけが、他の人と違った見方をしていたのかもしれないって?」
この時、私は急に自分の中で何かが白けていくような感じがした。何かこの二人のことを画面越しに見ているような気がしてしまって、また会話の内側から外側に弾かれてしまったような気がした。
石川は明らかに私と話すより、小樂と話しているときの方が楽しそうに見えた。いや、実際にそうなのだと思った。
別に、そっちのけされているわけでもない。そんなことは分かっている。
そんな時間はほんの数分だったはずなのに、あまりにも長く感じた。
「読んでいないからそこまで聞かれても分からないよ」
小樂がそう言うと、石川は「そんなことないって」と言って、私の方を向いて言ってきた。
「やっぱり娘が焼かれるのはおかしいだろ。あれは娘の絵が描かれた何かを燃やした方がしっくりくる」
私は、いつものつまらない私にすっかり戻っていた。
「いや、小説に書かれていることをそのまままずは読まないとダメでしょ。自由な解釈はその後で、まずは正確に読まないと。自分の都合に合うように読んでたらできる問題もできなくなるよ」
「分かってる