てきすとぽい
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第31回 てきすとぽい杯〈てきすとぽい始動4周年記念〉
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禁断の穴
(
みお
)
投稿時刻 : 2016.02.20 23:39
字数 : 3221
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禁断の穴
みお
その場所にい
っ
てはいけないよ。と、彼の人は口を酸
っ
ぱくして私に仰
っ
た。
はい。と私は頷いて、聞き分けのいい娘のふりをする。
しかし、幼い私はその場所が気にな
っ
て仕方がなか
っ
たのだ。
大地に空いた、丸く小さな穴。幼い私の、腕が丁度通るくらいの、黒々としたその穴。
そこを覗けば、いつも悲しそうな赤い目が私を見つめてくるのだ。
その穴に気がついたのは、いつの頃だ
っ
ただろう。
私の住む世界に冬はない。雨もなければ、曇りもない。いつも明るく日差しが降り注ぎ、暖かな風が吹く。だからいつの頃だ
っ
たか、す
っ
かり覚えていない。
確か、彼の人と隠れん坊をして遊んでいた時に見つけたのだ。
笑いながら隠れたその場所は、蓮の池のすぐ隣。蓮は照れたような桃色の色を滲ませて、ち
ょ
うどほろほろと咲いている頃合いだ
っ
た。
隠れた木陰の足下に、その穴はあ
っ
た。
好奇心に誘われて覗いて見れば、穴の奥は暗闇だ。び
ゅ
うび
ゅ
うと冷たい風が吹くものだから、初めてそれに触れた私は怯えてしまう。しかしまだ幼か
っ
た私は好奇心に負けて幾度も顔を近づけてはそう
っ
と覗いたものだ
っ
た。
彼の人が私のそんな姿を見たとき、珍しく大声を上げられた。
そこは危ない場所だから、行
っ
てはならぬ。けして、けして、けして。
優しく温かい手に引かれ、私はその場所から離れた。しかし、心まで離れたわけではない。
それから以後、私は幾度もその穴に近づいて、そう
っ
と覗くことを止められない。
それは私が彼の人に対して行う、唯一の背徳行為であ
っ
た。薄闇のほの暗さ、冷たい風、触れたこともない悲しい雰囲気と相ま
っ
て、それは幼い心を興奮させる。
幾度、覗いただろう。
「
……
」
黒い穴の奥に、光る何かを見つけて私は目をこらす。
「
……
」
目が、そこにあ
っ
た。
ひ。と悲鳴を噛み殺し私は思わず後ずさる。しかし妙に心惹かれ、二度三度。そう
っ
と覗いてみれば、その穴の奥に、目があるのだ。
いや、目だけがあるわけではない。穴はどこかに繋が
っ
ているのだろう。その向こうから人が覗き込んでいるのである。
「そ
……
そこの人」
私は勇気を振り絞り声をかける。声は、情けないほど震えていた。彼の人に見つかれば、どれだけ叱られることだろう。
「
……
痛そう」
それでも私が覗くのを止められなか
っ
たのは、穴奥にある目が悲しそうに歪んでいたからだ。
目の周りが赤く充血している。赤く腫れているのだ。血も流れている。饐えた匂いがする。
ひどく、ひどく、殴られたようなその跡。
その目の持ち主は男だろう。どんよりとした薄暗い目で私を見上げ、そして目をそらす。私の声が聞こえているはずなのに。
「な
……
泣いてるの?」
勇気を振り絞
っ
て私は声をかけ続けた。その瞳は澱んでいるが、けして悪い目ではない。そもそも悪い目など見たこともないのだが。
しかしそれは悪人の目には見えなか
っ
た。
「の
……
のど、乾いてる?」
目が少し後ろに下がると、その全貌がみえた。それは若い男だ。この穴は地下にある薄暗い部屋に繋が
っ
ているらしい。
男はその部屋に閉じ込められでもしているのだろう。細い顎、ぼさぼさの髭、髪、切れた唇。乾きき
っ
た肌。割れた唇で、男は何やら呟く。
覗くな。と、その唇は動いた。
「待
っ
てね
……
なにか、のむもの
……
」
しかし、急に私は切なくな
っ
て、その男から目が離せなくな
っ
た。
そんな成りなのに、男の目はどこまでも優しいのだ。
立ち上がり、私は周囲を見る。隣の蓮池からは、甘い香りが漂
っ
てくる。急いでそれを両手ですくい、私は思いき
っ
て穴の中へと手を差し伸べた。
ち
ょ
うど、穴は、私の腕の通る大きさだ。中に腕を入れるとぞう
っ
とするほど冷たい風が私の体を冷やした。
それでも、一度入れたからには止められない。
「甘い水
……
この池の水は、甘いのよ」
「いけないよ、お嬢さん」
しばらくのち、はじめて男の声がきこえた。続いて、私の手を優しく撫でる温かい手。
水ははらりと、地面に滑りこんだようだ
っ
た。
「こんな穴を覗いち
ゃ
ぁ
いけない。施しち
ゃ
あいけない。俺はどうせ死ぬさだめなのだからね」
「なぜ死ぬの」
「悪い男だからさ」
腕を引き抜き私はその穴を覗き込む。その奥には、悪い男とは思えない、優しい微笑みがあ
っ
たのだ。
その日から私は彼の人の目を誤魔化して、穴に通いつめた。眠
っ
ていても、あの男の笑みが脳裡に浮かんだ。
この場所はこれほど温かく心地がよいのに、あの穴の中はひどく冷たいのだ。なぜ。あんなに優しい目の男が死ななくてはいけないのか。なぜ。私だけこんな心地のいい世界で生きていていいものか。
毎日水を運んだ。蓮の花につく甘露の水を。口にすれば男はその時だけ至福の顔をする。しかし毎日やつれて細く、細くな
っ
ていく。
助けようと穴を広げてみても、砂ばかり下に落ちて穴は一向に大きくならない。
男はす
っ
かり諦めたように、私に彼の半生を語
っ
て聞かせた。それは暴力と犯罪の歴史である。
彼は悪人だ
っ
た。貧しく生まれ、幼い頃から犯罪ばかり犯してきた。その結果、この穴の奥に閉じ込められているのだという。
しかしそう語る声にいやらしさは一つもない。悲しみだけが滲み出す。
「たすけてあげる。ぜ
っ
たい、たすけてあげるから」
「無理だよ。俺はここで死ぬのだ」
「おねがいだから。一度で良いから、あなたの顔を、手を、この光の下で見てみたい」
私は知
っ
ていた。はじめてその手に触れたとき、妙な懐かしさと暖かさを知
っ
たのだ。
私はこの男をどこかで知
っ
ている。だから助けなければならない。命にかえても。
「たすけたい
……
の」
私の背に、影が落ちた。
は。と顔を上げれば、そこにあ
っ
たのは彼の人だ。口元に優しい笑みを、背には暖かな光を。
「こうなると、分か
っ
ていたから私は、穴を覗くなと言
っ
たのですが
……
こうな
っ
てしまうのも、さだめか」
優しい声で彼の人は私をそ
っ
と撫でられる。なんと、温かい手だろう。
しかし私はこの手より、穴の奥にある男の手に触れたいのだ。
触れたくて、触れたくて、仕方が無いのだ。
「どうしても、助けたいのだね」
彼の人は私の背を軽く叩く。私の口から、幾重もの透明な糸が吐き出された。はらはらと、それはまるで雨の滴のように静かに垂れて、一本の太い糸となる。
「試してご覧なさい」
き
っ
とそれは悲しい結末になるだろうけれど。彼の人は瞳に涙をたたえられ、私の糸をそう
っ
と穴へと垂らされた。
美しい私の糸は、穴の奥へ、奥へ、奥へ。
早く掴んで。その糸を辿ればき
っ
とその暗い穴から抜け出せるそう叫んだ刹那、糸に優しい振動が伝わ
っ
た。
「
……
」
男が私の糸を優しく掴んだのだ。しかし、彼はそれに縋ることはない。ただ、優しく撫でた。そして、その乾いた唇で口付けた。
唇は、優しい声を紡ぐ。
「
……
有難う」
男は私の垂らした蜘蛛の糸を、そ
っ
と断ち斬
っ
た。
「私の愛した蜘蛛」
囁いた男の声に私は全てを思い出す。
この穴の先は地獄の底。この男はかつて共に、暴虐の限りを尽くした私の恋人。蜘蛛と呼ばれ、人から恐れられた私は、血も涙もない女盗賊。
死に際、男は自身の積んだ功徳を私に差し出して自ら地獄に落ちた。私はその名の通り、蜘蛛となり極楽の如来の隣で生きる事を許された。
「
……
」
切られた糸は、地獄の奥底へ落ちていく。囚人達が、その光に群がるのが見えた。男は最後に一度だけ穴を下から見上げたようだ。乾いた目と、視線が絡む。ただ、その一度だけの逢瀬である。
男は下から穴を塞いだ。それだけで、もう何も見えなくなる。
蜘蛛の身となればこそ、悶え苦しむことも舌を噛み切ることもできず私はただただ子供のように泣いた。
「さあ参りまし
ょ
う」
彼の人は、慰めの言葉もなく私の体をその清らかな肩にお乗せになる。
「あの男を救いたければ、貴女が幸せにならなければ」
いつまでも暖かな極楽の蓮の風。彼の人の輝く影と、その肩に乗る己の浅ましい蜘蛛の影。
救いにもならぬ蜘蛛の糸を己が身に数珠の如く巻き付けて、呟く言葉は南無阿弥陀仏。
清らかな風に、その声は虚しくかき消えた。
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