てきすとぽい
X
(Twitter)
で
ログイン
X
で
シェア
【BNSK】2016年8月品評会
〔
1
〕
«
〔 作品2 〕
»
〔
3
〕
〔
4
〕
海が聞こえない
(
古川遥人
)
投稿時刻 : 2016.08.14 23:19
最終更新 : 2016.08.14 23:39
字数 : 12398
1
2
3
4
5
投票しない
感想:2
ログインして投票
更新履歴
-
2016/08/14 23:39:45
-
2016/08/14 23:33:12
-
2016/08/14 23:32:44
-
2016/08/14 23:31:42
-
2016/08/14 23:30:09
-
2016/08/14 23:27:15
-
2016/08/14 23:22:21
-
2016/08/14 23:20:54
-
2016/08/14 23:19:30
海が聞こえない
古川遥人
それは初恋だ
っ
たのだろうか。当時の僕からしたら、それを初恋と呼んでしまうことに強い反発を覚えただろうが、三十歳にな
っ
た現在から見れば、あれも一つの初恋の形であり、青春の思い出と呼んでいいのではないかと思える。
佐藤鳴海は、僕の従姉だ
っ
た。「なるみ」です、と自己紹介すると必ず苗字と間違えられるので、いつもフルネー
ムを名乗るようにしていると言
っ
ていた彼女の名は、確かに珍しい。だが、夏を感じさせるエネルギ
ッ
シ
ュ
な彼女にふさわしい名前だと、僕は彼女の両親のネー
ミングセンスに脱帽したくなる。
海が鳴
っ
ている。
もちろん両親としては、さざ波の音を静かな浜辺で聞いているような、詩的な感性をそこに込めたのだろうが、実際の鳴海は、嵐の海の荒々しい波音のような女の子に育
っ
てしま
っ
た。そう。一言で言
っ
てしまえば、鳴海は台風の海のような奴だ
っ
た。
僕が十歳の頃の、夏休み。
そこで僕は鳴海という存在を強く意識させられたのかもしれない。
七月の終わりごろだ
っ
た。両親と兄は、僕を置いて徳島から東京へ向か
っ
た。それは決して、僕が疎まれていたという訳ではない。どちらかといえば、僕が彼らを疎んでいた。だから、そのような形にな
っ
た。
兄は幼い頃からバイオリンを弾かされていた。兄は自分からバイオリンを手に取
っ
たと誇らしげに語るのだが、僕から見ればそれは親の見栄で弾かされているにすぎなか
っ
た。しかし親の見栄に、兄は応えられるだけの感性と才能を持
っ
ていた。兄は極度の負けず嫌いで、繊細な人間だ
っ
た。自分が他人より劣
っ
ていることに我慢がならなか
っ
たし、人間関係が上手くいかなか
っ
たり、自分の努力が思
っ
たほど認められなか
っ
たりしたら、こちらが鬱陶しいと思うほどにひどく傷ついた。そんな繊細で負けず嫌いの人間に、クラシ
ッ
クという音楽は向いていたのかもしれない。兄は他人よりも人一倍努力し、その繊細さによ
っ
て課題曲を深く理解することに長けていた。そして兄は上達するごとに傲慢にな
っ
てい
っ
た。無意識に人を馬鹿にせずにはいられないような、歪んだ性格の人間にな
っ
てい
っ
た。
僕は物心ついた時から兄が大嫌いだ
っ
た。僕に接するときの言葉に端々に、その態度の端々に、僕を見下すものが感じられたのだ。例えば僕がアニメを見ている時、兄は「あー
あ、いいよな。お前はアニメなんか見てる時間があ
っ
て。俺はこれか課題曲の練習しなき
ゃ
いけないのに」と、ま
っ
たく僕の方を見ないで冷蔵庫の方を見ながら大きな声で言
っ
たり、僕がゲー
ムをしていると、「ま
っ
たく才能のない人間
っ
てのは気楽でいいよなあ」などと、彼の優越感のはけ口として、僕は存在していた。兄の世界観は、完全に音楽の才能で決められているようだ
っ
た。両親も、兄ほど露骨な態度でなか
っ
たにしろ、明らかに兄だけに期待しているようで、無意識に僕よりも兄の方を褒めたり、事あるごとに兄と比べて僕の出来の悪さを嘆いたり、そしてある時は完全に僕のことを無視することもあ
っ
た。
その十歳の夏休みも、恐らく兄のバイオリンのコンクー
ルの全国大会だか何だか、は
っ
きりとしたことは覚えていないが、そんなものがあ
っ
たのだと思う。親の見栄と兄の自尊心を鞄い
っ
ぱいに詰め込んで、彼らは東京へ五泊六日の旅に出かけた。彼らも一応、僕に声をかけてくれたのだが、僕が行かないことを彼らも判
っ
ていたのだろう、夜中にこ
っ
そり封筒の中を見たら、そこには三枚分のチケ
ッ
トしかなか
っ
た。もしあの時に、「僕も行く」と言
っ
ていたら彼らはどのような反応をしたのだろう。恐らく、ただ疎ましげな視線で僕を一瞥し、それからも
っ
ともらしい理由を取り繕
っ
て、僕を留守番させたに違いない。それが判
っ
ていたから、僕は行くとは言わなか
っ
たし、彼らも四枚のチケ
ッ
トを予約しなか
っ
たのだろう。初めから東京に僕の姿などなか
っ
たのだ。
そうして僕は一週間ほど留守番することにな
っ
た。が、いくらなんでも十歳の子供一人で一週間を過ごすのは難しか
っ
たし、親もそこまでネグレクトまがいのことをするわけがない。僕は近くに住んでいる叔母の家に厄介になることにな
っ
たのだ。
留守番、初日。
朝の十時ごろ、生来のだらしなさで休みの日は十一時近くまで寝ている僕の部屋に、彼女は現れた。そして寝ている僕の耳にヘ
ッ
ドフ
ォ
ンをかけ、爆音で音楽を鳴らした。その瞬間の僕の反応はどのようなものだ
っ
たのか。覚えているのは、ただ何事が起こ
っ
たのかという混乱で跳ね起き、そして目の前に鳴海の満面の笑みと白い歯が視界い
っ
ぱいに映
っ
たことだ。そして彼女特有の香り。女性らしさというものを好まない彼女は、化粧をすることも香水をつけることもしなか
っ
たが、意外にも清潔というものに気を使う彼女は、肌が焼けて染みにならないように日焼け止めをし
っ
かりと塗
っ
ていたし、そして汗臭くならないようにし
っ
かりとフロー
ラルの香りの制汗スプレー
を吹きかけていた。そのことを指摘すると彼女の機嫌が悪くなるし、そういうところこそ女性らしいと指摘すると、マニア
ッ
クな関節技を決められるので、一回指摘して不機嫌になられて以降は、僕は彼女のそういう部分をからか
っ
たりしないように心掛けた。でもやはり、彼女の印象といえば、満面の笑み、そして吸い込まれるような大きな瞳、白い歯、そしてほのかに鼻をくすぐる制汗スプレー
と日焼け止めの香りだ
っ
た。それは今でも変わらない。
そうして混乱しながらもヘ
ッ
ドフ
ォ
ンを外し、寝ぼけながら見つめている僕に、彼女は訳のわからないことを言
っ
た。今とな
っ
てみれば、それが僕に爆音で聞かせていた曲の歌詞だ
っ
たと判るが、その時ばかりはとうとうコミ
ュ
ニケー
シ
ョ
ンすらできなくな
っ
たのかと、本気で心配したものだ。
「なにそれ」
僕が尖
っ
た不機嫌な声で言うと、彼女は
「ミ
ッ
シ
ェ
ル・ガン・エレフ
ァ
ント」
と言
っ
て、ヘ
ッ
ドフ
ォ
ンを指差した。
「今流してる曲。ゲ
ッ
ト・ア
ッ
プ・ルー
シー
っ
ていうの」
「なにそれ」
「ロ
ッ
クンロー
ル」
「なにそれ」
「うー
ん、ロ
ッ
クとは何か
……
。それは難しい問題だよ」
本気で怒
っ
てやろうかと思
っ
たところで、彼女は笑いながら「ごめんごめん」と言
っ
て僕の首元に抱き着いてくるのだ。そうされると僕としては怒れないし、なんと言うのだろう、爆音で僕を起こすような無茶苦茶さが彼女の九十九パー
セントを占めているのだが、そうや
っ
て無邪気に抱き着いてくる、残りの一パー
セントの心を捉える何かが、僕が彼女を嫌うことのできない大切な要素だ
っ
たと思う。
「少年、海へ行こうぜ」
鳴海は、僕の手を引
っ
張
っ
て無理やり起こしながら言う。
「せめて朝ごはんくらい食べさせてよ」
僕がうんざりしながらそう言うと、
「そんなもの海の家でいくらでも食べさせてあげるよ」
そう言いながら、力強く僕の手を引いた。こうなると、もう鳴海の吸引力に身を任せるしかなか
っ
た。僕が彼女に逆ら
っ
て成功したことは一度もなか
っ
たし、彼女の勢いに乗
っ
て僕が嫌な気分にな
っ
たことも一度もなか
っ
た。子供の時に台風がや
っ
てくると、やたらとわくわくした気分にな
っ
たことを覚えているが、そういう意味でも鳴海は、僕にと
っ
ての台風のように思えてならない。台風は無理やりに僕の周りの環境を無茶苦茶にしながらも、僕をどこかへ連れて行
っ
てくれる、そんな予感を感じさせたのだ。
玄関先へ出てみると、そこには一台のバイクが停ま
っ
ていた。スクー
ター
ではなく、バイク。
「さあ、後ろに乗
っ
て」
無茶苦茶だ、と思
っ
た。
だ
っ
て彼女は中学三年生で、免許を取れる年齢ですらないのだ。どこからこのバイクを入手したのか、まさか本当にこれを運転するのか、怖くて聞けなか
っ
た。冗談だよ、と言
っ
て頭を軽く叩いてほしか
っ
た。でも鳴海は、得意げにそのバイクに跨
っ
た。どうやらこれは現実で、僕はその無茶苦茶な台風に乗
っ
て海まで向かわなければならないらしい。この時は本当に死を予感していた。だ
っ
てろくにバイクを運転したことのない女子中学生の後ろに乗るだなんて、客観的に見たら自殺行為だ。
「ねえ、これをどこから調達したのかとか、そういう野暮なことは聞かない。ただ一つ、安全に運転できるのか、それだけを聞かせて」
震えを隠せない僕の声に、鳴海はヘルメ
ッ
トを被り、顔半分を隠すサングラスをつけながら、親指を立てた。