『めいろのくに』
その小さな王国が、いつうまれて、どれぐらいのあいだ栄えて、そして、いつからそうな
ってしまったのか、わかりません。
ただ、誰かが気づいたときには、そこは、誰かの深い悲しみによって、ひどく秩序を失くしていました。
例えば、北のある村では、大きいものと小さいものがさかさまになって、人々はかつての大木を踏みつけながら、巨大な蟻の足元を恐るおそる潜り抜けて歩いています。
東のある村では、光があちらこちらに反射するようになったので、物が正しく見えず、みんなまっすぐに歩くことができません。
南のある町では、音がいつまでもいつまでも鳴り響くようになって、正しいものが聞き取れなくなったので、みんなが耳を塞いでいます。
それから、西の都の城下町では、時間がめちゃくちゃになっていました。
例えば、粉屋の息子のペーターは、今年、16歳で、朝、なんだか、哀しい気持ちになって目を覚まします。
でも、次の瞬間には、彼は60歳のおじいさんになっていて、辺りは深い夜の底です。もう、粉を引くお父さんもそれに寄り添うお母さんも死んでいて、彼には孫が3人います。皺だらけの自分の手をじっと見つめていると、今度は3歳の赤ん坊になっています。太陽の照りつける真夏の昼下がり、汗がたらりと背中を滴り落ちます。
耳を澄ますと、お城から、とてもとても悲しそうな女の人の、泣き声が、微かに聞こえます。それは、秩序が崩壊し、何もかもが不確かなこの迷路の国の中で、すべてのの人が聞いている、唯一の確かなものです。
ペーターが、この悲しそうな泣き声を、覚えていられるのは、彼がいつ気が付いても、必ず、窓から外を覗くと、向かいのパン屋のサリーと目が会うからです。
3歳の時も、16歳の時も、60歳の時も、二人は目を合わせると、まるで導かれるように、お城の方へ視線を馳せます。そうして、哀しそうに泣いている女の人のことを考えます。きっと、この女性の悲しみが止めば、この国の迷路も終わって、正しい時間の流れの中で生きられるのだと、理由もなく、思うのです。
だから、25歳になったペーターは、その時、お城へ行こうと決意しました。家を飛び出し、町を駆けだします。しかし、次の瞬間には、彼は見知らぬ森の中で凍える、39歳になっています。どうしてここにいるのかも、何をしようとしていたのかも思い出せません。それから、また、彼は時空を飛び越えます。サリーと目が会いました。さあ、お城へ行かなければ。でも彼は52歳のおじさんで、肺を病んでいます。家から出られないけれど、治ったらすぐに、お城へ行かなければならないから、それを書き留めようとします。しかし、ノートに文字を書きつけた瞬間、彼は8歳の子どもになっているのです。
そうして、そうして、町中のひとが、国中のひとが、たったひとりの、お城に住むかわいそうな女王さまの悲しみに思いを馳せています。
悲しみも、焦燥も、慰めも、誰かの勇気も、出口のない迷路の中で彷徨うように、ただただ膨れているのです。