第57回 てきすとぽい杯
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"いつも"が終わるバス通学
投稿時刻 : 2020.06.13 23:36
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"いつも"が終わるバス通学
浅黄幻影


 ぼくと彼女は、大きなターミナルより前、町の隅こにある停留所からバスに乗る。時刻はまだ五時半。線路の通ていない町から市に行くには、この時間になてしまう。でないと、一時間目の授業にさえ間に合わないのだ。七月の上旬、今年はもうすかり茹だるほどに暑くなていたけれど、朝のこの時間はまだ涼しい。朝日がまだ家々の陰に隠れているおかげもあて、少し風がながれた程度で心地よさを感じる。
 彼女……つまり、大学生のお姉さんもこの時間にこの停留所で待ている。ぼくが高校生になてから毎朝のように一緒にここに立つけれど、特に話したこともないし、目もあたこともない。二人きりしか待つ人もいないし、それほど距離が近くなるわけでもないけれど、ぼくはちとドキドキしている。お姉さんに気付かれないように黙て英単語帳をめくているけれど、ときどきお姉さんが開いている文庫もめくられたりして、つい気を取られてしまう。涼しい朝なのに、ぼくはいつも余計な汗をかいてしまう。
 バスが来ると、ぼくたちはそれぞれの指定席に着く。始発の最初の停留所なのだ、どこにだて座れる。けれど、以前は誰にも気兼ねなく座れる一人席に座ていたぼくはいつしか後ろの席に移動していた。お姉さんは相掛けの席が始まる最初のところ、前に一人席があるそのすぐ後ろに座る。ぼくはその真後ろ……というわけにはさすがにいかないので、最後部の一段高くなる座席、お姉さんの後ろに座る。
 毎日座てはお姉さんが荒い運転に身体を左右させ、ときどき居眠りをしているように前屈みになる様子を見ている。ぼくもときどき眠くなてしまうけれど、お姉さんが何かしら動いたときにはぼくはつい目を見張てしまう。距離を取るために離れた合間に、別の客が入てくるまでは。
 お姉さんへの思いは、けれど、なんと言い表したらいいのだろう。恋? でも、ぼくはお姉さんのことを何も知らない。いくら小さな町だからて、みんながみんな、互いに誰か知ているわけではない。お姉さんがどこの誰かさえ知らない、名前も知らない。ただ知ているのは乗る駅が一緒なことと、降りる駅がお姉さんが先、大学近くの停留所だということだ。市のはずれの方から入てくる路線だから、大学の大通りからは遠いけれど、おかげでお姉さんが歩いていく姿をいつも眺めることができる。もちろん、ちらりと脇目で。
 バスに揺られながら、今日もまた市に向かていく。窓ガラスからは昇り始めた日が射し込む。けれど、ぼくらは西側の席に座ているので、時折角を曲がるとき以外はまだまだ涼しい。余裕でクーラーの冷気を感じ、ぼくはお姉さんの後ろに座ていた。
 それからいくつかの路線と交差して、全部で十人程度の人が乗り合わせることになる。だいたいは知た顔で、席も決まている。大雨で急に人が乗り込むこともない限り、いつもそうだ。今日もいつもどおり、ぼくも密かな思い、きと憧れのようなものを乗せて、バスは走ていく。こういうしあわせな日々がいつまでも続いてくれたらいいのに、とどこか臆病で控えめな願いごとをしながら。
 バスは二時間走て、市に入ていた。となりには人が座ていたし、お姉さんも前の乗客に隠れていた。お姉さんが降りる停留所は近づいてきて、そろそろ立ち上がて少しずつ前に進んでいくはずだた。それはもちろん、危ないからやめてください、と書かれている条項の一つだけれど、忙しい時間帯には守ている人など一人もいない。そしてお姉さんは立ち上がて、やはり前に進んでいた。降りる人の列に並んで、パスをさと出して見せてから降りた。いつもどおりの光景だた。お姉さんはこのあと、バスの後方、ぼくの座ている方へ少し近づいたあと、また遠ざかていく。
 いつもどおり、いつもどおり……
 けれど今日は違た、違てしまた! バスが動き出したとき、お姉さんがポケトにパスを入れ損ねたのをぼくは見つけた。パスは地面に落ちて、誰も気付かず、お姉さんは遠ざかていく。
 ぼくはつい、降車ボタンに手を伸ばした。けれど、ここで押しても次の停留所で止まるだけだと気付いた。ならば、ととなりに座る人を無理矢理押しのけて車両前部のドアに突き進み、「降ります!」と叫んだ。運転手も周囲の乗客も、冷たい目でぼくが降りるのを見ていた。
 いくらかバスは進んでいて、去ていくお姉さんを追いかけるのに間に合うか気がかりだた。落としたパスを拾い、ぼくはお姉さんに声をかけようと思いきり息を吸て、それからなんと声をかければいいのかわからず、そのまま呼吸を止めた。ぼくはお姉さんの名前も知らなかたのだ。
 はとして手元のパスを見ると、やはりそこにはお姉さんの名前が記されていた。ぼくは何度かこころのなかで確認してから、後ろ姿に向かて大声で名前を呼んだ。お姉さんは驚いた様子で振り向き、ぼくがパスを振り上げているのを見て、自分のポケトを慌てて探ていた。
 その様子を見て、ぼくの方から駆けていた。お姉さんは安堵した様子でパスを受け取てくれた。
「助かたよ、これがなかたら帰るのに高い運賃払わないといけなかた。ありがとうね」
 話せるなんて思ていなかたお姉さんと話せて、ぼくの胸がはち切れそうなほど高鳴ていた。ぼくは何かしら気の利いたことを言いたかたけれど、特にいいことも言えなかた。とりあえず合間を埋めるように、
「毎日使う物ですからね」
 と、毒にも薬にもならないことを言た。けれど、それでぼくは衝撃的なことを知てしまた。そんなことは知らないでいたか……けれど、すぐにわかるのだから知てよかたのかもしれない。
 お姉さんは言た。
「この定期、今日で終わりだから。明日から大学は夏休みだからね」
 お姉さんはぼくに再度「ありがとう」と言て去ていた。お姉さんの足取りは軽かたけれど、それは定期を手に戻したというより、ただ明日から夏休みだから……だろう。
 ぼくはお姉さんの後ろ姿を見送りながら、清々しい気持ちになていた。もちろん長い夏休み明けまでお姉さんとバスに乗れないことや、バスを降りたことで一時間目に間に合わないだろう憂鬱を抱えながら。
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