第59回 てきすとぽい杯
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檸檬の香りの芳香剤
投稿時刻 : 2020.10.17 23:03
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檸檬の香りの芳香剤
浅黄幻影


 夏の電車、冷房と扇風機が車内の空気をかき混ぜる。ときに涼しく、またあるときは寒く、またまたあるときは満員電車で立たまま、涼しいのか暑苦しいのかわからないようなそんな空間。
 ぼくは出会てしまた。腋臭に。
 うわ、き……。となりのおさんと腕が「ぴと」となただけでもきついのに! 昇降口に数人乗り込んだだけなのに、車内中央のシートに座ていたぼくにまで届くこの強さ……。ああ、扇風機を恨む。きみはなぜにそんなに上からぼくらを見るのか。並んで立つ人たちの肩口に当たた風がそこら中に吹き荒れるではないか。見たまえ、この車内で涼しい顔をしているのは腋臭の犯人ただひとりではないか!
 となりに座ていた寺島が口を開いた。
……次で降りるわ」
「いや、行くところはまだずと先じ
「いいよ、俺だけでも降りるから」
 寺島はアナウンスが「まもなく」と語り出すと、立ち上がて人を押し分けて出口に向かた。仕方なくぼくもあとを追て電車を降りることにした。
 外の空気はひどく蒸していた。もう腋臭こそないものの、しかし町の腐臭のようなものが日射しのなかを漂ている。寺島はホームのベンチに座て、下を向いて深呼吸をしていた。
「ひどい匂いだ……
 あまりにきつくて耐えられなかたのだと彼は言た。
「ああいうのつらいよな。周りもだけど、まあ気付いているのなら本人も。苦痛だろうな」
 寺島は急に語り出した。
「この前まで付き合ていた人がいるんだけど、彼女も腋臭だたんだ。俺、どう接していいかわからなかた。彼女を傷つけないようにするので精一杯だた」
「お、おう」
 寺島を傷つけないようにするための相づちにぼくは困た。どう接していいかわからなかた。だいたい、こいつは急に何を語り出したんだ?
「可愛いし、いい人だし、本当に好きだた。でも、一緒に寝るとなるときつか……。だて、ゼロ距離なんだぜ? 横を向いたらすぐ目の前に顔があて、そのとなりに腋! キスの味まで腋臭だよ!」
 聞いているだけで口の中が匂てきた。
「でもな、そんなこと大したことじなかたな。彼女は本気で悩んでいたし、俺も段々、本気で問題じないて思い始めた。そんな折だた、彼女が俺の足の臭さを理由に別れたいて言たのは」
「原因はおまえかよ!」
 まあ、知てはいたけど。靴下を脱ぐとそれほどなのか……
「でも、やぱり彼女のことが忘れられない。腋臭なんて、俺にとては大した問題じない。あいつが好きだし、他の女なんてどうだていい。電車の中の腋臭でわかたんだ。俺、あいつの腋臭が好きだ。他の腋臭じダメなんだ、あいつの腋臭はじなき……あいつは特別の腋臭なんだよ!」
「もう……やめて」
 ぼくは口の中が酸ぱくて仕方がなかた。
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