檸檬の香りの芳香剤
夏の電車、冷房と扇風機が車内の空気をかき混ぜる。ときに涼しく、またあるときは寒く、またまたあるときは満員電車で立
ったまま、涼しいのか暑苦しいのかわからないようなそんな空間。
ぼくは出会ってしまった。腋臭に。
うわ、きっつ……。となりのおっさんと腕が「ぴとっ」となっただけでもきついのに! 昇降口に数人乗り込んだだけなのに、車内中央のシートに座っていたぼくにまで届くこの強さ……。ああ、扇風機を恨む。きみはなぜにそんなに上からぼくらを見るのか。並んで立つ人たちの肩口に当たった風がそこら中に吹き荒れるではないか。見たまえ、この車内で涼しい顔をしているのは腋臭の犯人ただひとりではないか!
となりに座っていた寺島が口を開いた。
「……次で降りるわ」
「いや、行くところはまだずっと先じゃ」
「いいよ、俺だけでも降りるから」
寺島はアナウンスが「まもなく~」と語り出すと、立ち上がって人を押し分けて出口に向かった。仕方なくぼくもあとを追って電車を降りることにした。
外の空気はひどく蒸していた。もう腋臭こそないものの、しかし町の腐臭のようなものが日射しのなかを漂っている。寺島はホームのベンチに座って、下を向いて深呼吸をしていた。
「ひどい匂いだった……」
あまりにきつくて耐えられなかったのだと彼は言った。
「ああいうのつらいよな。周りもだけど、まあ気付いているのなら本人も。苦痛だろうな」
寺島は急に語り出した。
「この前まで付き合っていた人がいるんだけど、彼女も腋臭だったんだ。俺、どう接していいかわからなかった。彼女を傷つけないようにするので精一杯だった」
「お、おう」
寺島を傷つけないようにするための相づちにぼくは困った。どう接していいかわからなかった。だいたい、こいつは急に何を語り出したんだ?
「可愛いし、いい人だし、本当に好きだった。でも、一緒に寝るとなるときつかった……。だって、ゼロ距離なんだぜ? 横を向いたらすぐ目の前に顔があって、そのとなりに腋! キスの味まで腋臭だよ!」
聞いているだけで口の中が匂ってきた。
「でもな、そんなこと大したことじゃなかったな。彼女は本気で悩んでいたし、俺も段々、本気で問題じゃないって思い始めた。そんな折だった、彼女が俺の足の臭さを理由に別れたいって言ったのは」
「原因はおまえかよ!」
まあ、知ってはいたけど。靴下を脱ぐとそれほどなのか……。
「でも、やっぱり彼女のことが忘れられない。腋臭なんて、俺にとっては大した問題じゃない。あいつが好きだし、他の女なんてどうだっていい。電車の中の腋臭でわかったんだ。俺、あいつの腋臭が好きだ。他の腋臭じゃダメなんだ、あいつの腋臭はじゃなきゃ……あいつは特別の腋臭なんだよ!」
「もう……やめて」
ぼくは口の中が酸っぱくて仕方がなかった。