第59回 てきすとぽい杯
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道は続く
みお
投稿時刻 : 2020.10.17 23:39
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道は続く
みお


 私がその少女と出会たのはもう、30年も昔の話。
 月の美しい、秋の頃だたと記憶している。
 
 私はその夜、眠れずに月を眺めていた。
 机の上には、いたずらに文字を連ねたつまらない原稿。床には握りつぶした原稿用紙。その隣には、知り合いに無理を言て借りた金の借用書。
 ……私は売れない作家であた。過去も……そして未来もそうであろうと、諦めが身にしみはじめた頃だた。
 そんな折、彼女が唐突に部屋に入てきたのである。

「こんばんは」

 人の気配に驚いて振り返れば、窓枠に一人の少女が腰かけていた。
 年の頃は13、14。結い上げた髪は初々しく、月の明かりに染め上げたような絣の着物が美しかた。
 彼女は頬を赤く染めて、小さく会釈をする。
「やあお嬢さん。ここには何も盗るようなものはありませんよ」
 私は苦笑して、彼女を見つめる。
 この家は村外れに位置し、時たま悪童が忍び込んでくることもあた。この娘もどこかの悪童に誑かされ、遊びで忍び込んできたのだろう。そう思たのだ。
 しかし彼女は大きな瞳を輝かせて私を見つめる。
「窓が開いていたのでついつい、中を覗いてしまたの。あなた、ずと窓に向かて座ているものだから、何をしているのだろうと不思議に思て」
 ……彼女が動くと、甘い匂いがした。
 それはまるで風の中に一滴だけ極上の香を落としたような、そんな香りである。
 掴もうとしても香りは幻のように掻き消えてしまう。そんな不思議な香り。
 私は思わず、彼女に近づく。
 膝が、原稿用紙を踏みつけて乾いた音をたてた。
「それは、なあに?」
……小説を書いていました」
「小説?」
「物語です」
 少女はあどけなく、窓枠から室内に足を踏み入れると、床に落ちた原稿用紙を見つめる。
 それは締め切りの差し迫た小説の原稿だ。
 世の中から見捨てられた私を、唯一認めてくれる編集者から頼まれた、最後の命綱。
 締切が差し迫ているというのに、私は1枚書いては一枚、投げ捨てている。そして怠惰に、月など眺めている。
「残念。私、文字は読めないの。でも」
 打ち捨てた哀れな一枚を、彼女が拾い上げ、指でなぞる。白い指から、また先程の匂いが立ち上た。
「とても美しい絵のようね。月のあかりを浴びた木の葉は、こんなふうに黒い影を落とすの。きとこのお話も美しいのだわ。ねえ、そうだ。どんな物語なのか、言葉で聞かせて頂戴な」
「しかし」
 彼女の言葉に私は困惑する。
「まだ、完成をしていないのです、お嬢さん」
 物語は描こうとすると文字にする前に離散してしまう。
 もう私に物語を紡ぐ力はないのだ。
 
 私は若い頃、これでも名の知られた小説家であた。ある時、唐突に物語を紡げなくなた。物語はそこにあるというのに、近づけば逃げていく。
 ……この話を最後に、私は筆を折ろうと考えていた。筆は私の命である。筆とともに私は死ぬのだ。そう、思ていた。
「いつになれば完成するの? 私、ずとあなたをみていたの。何をしているんだろうて。ずとず……と秘密が解き明かされたのに、中身がわからないなんて嫌よ」
「それは」
「困たわ」
 何が。と聞けば、彼女は白い頬を膨らませて、私を見上げる。
「私、長くはここに居られないものだから」
 意味深な言葉は、香りとともに私の中に広がていく。
……どれ、くらい?」
「一週間ほど」
 窓の外を見れば、荒れた庭に月。月明かりの下には、金木犀の木。
 思えばのあの木は、長くここに庭にあた。今は小さな花が咲いている。
 なるほど、この蠱惑的な匂いの源は、あの木であるらしい。
 乱れた庭で健気に咲く悲しい花だ。家の主が私のような人間でなければ、さぞ大事にしてもらえたことだろう。
 
「そうだ。私、明日から毎晩お部屋に通うわ」

 呆然と固まる私に彼女は微笑む。
 だから、お話を聞かせて。
 彼女は、澄み切た瞳で私を見つめた。
 
 それから彼女は予告の通り、日を開けず私の家に訪れるようになた。
 香りは強く、淡く、優しく広がる。
 私は花の蜜に惚ける虫のように、彼女の香りの中で物語を紡いだ。
 文字の読めない彼女のために、言葉を口に乗せる。口から漏れた文字は、指に取り付き、文字となる。

「まあ」
 一言、物語を語ると、彼女は頬を抑えた。
「まあ」
 もう一言、物語を紡ぐと、彼女は涙を流した。

「なんて、素敵なお話」 
 そして長いため息をつくのだ。
 私は呆然と筆を置いた。
 何ということだろうか。目の前には、原稿用紙の塊がある。黒い影のような文字の広がる、一本の小説が。
……ありがとう」
 私は慌てて顔を上げ、彼女の手を掴む。物語を紡いだ高揚感が体を締め付けていた。
「君のおかげだ」
「あなたの力よ」
 甘い香りをまとう彼女は寂しそうに微笑んで、そと私の頬をなでた。
 ……ああ、なんと甘い香りなのか。
「言たでしう。私、ずうと見ていたのだから。あなたが苦しんでいるときも笑ている時も、ずと、ずと、心配して……
 さようなら。
 彼女は小さく呟いた。まるで泣くように、笑うように。
「最期に救えて、良かた」
 たしかに私の手の中にあたはずの彼女の姿は掻き消え、代わりに聞こえたのは庭の木がゆくりと倒れる音。
 それは10数年、ここで私を見守り続けた金木犀の大樹である。


「先生」

 肩をゆすられ、私ははと顔を上げる。
 ふと気づけば、私の隣で心配そうに若者が顔を覗き込んでいる。
「どうしました、具合でも?」
「ああ、すまない」
 私は首を振り、杖を掴むとゆくり立あがる。青年は慌てて立ち上がると、私の体を支えた。
「無理なさらないでください。まだ授賞式には間がありますから、少し休んでくださても」
「いや、少しあるきたい。そこに。その角に行きたい」
 私は青年の手を借り、ゆくりと道をいく。
 あれから数十年。気がつけば私は大先生などと呼ばれる身分となていた。
 未だに原稿用紙にくろぐろと文字を刻むものだから、編集部からは古式ゆかしい、などと笑われている。
 しかし、私は文字を原稿用紙に刻む以外に物語を紡ぐことができない。
 絵のようだ、と彼女が言た、あの日から。
……匂いが、した」
 道の角を曲がれば、そこに甘い香りがある。
 ……月色に輝く金木犀である。
「ああ、そうだ、忘れていました。授賞式には先生への質問もあるのでした。先生は誰にこの賞について報告したいか……お弟子さんや、ご友人、誰の名前でもいいのですが……
 青年の声を遠くに聞きながら私は花を見上げる。震える手で撫でる。
 
(お嬢さん、私はまだ、物語を紡げていますか?)

 問いかけると、今でも聞こえてくる気がするのだ。
 彼女が私の物語で涙を流した、あの風景が浮かんでくるのだ。
……金木犀に、と」
「は?」
「金木犀と、答えよう」
 私は笑いながら、ゆくりと杖を付く。
 金木犀の甘い香りは延々と、ますぐに続いているようだ。
 私はその香りの道を、ゆくりと歩き始めた。
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