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ホビトちゃんの新曲が、喫茶店のどこかから流れていた。どこから流れているんだろう。ぼくはあたりを見回す。よくわからなかった。ただただ新曲が、人々の脳内に刷り込まれていく。こうやって流行歌は作られる。
「なにを探しているんだ?」
きみがそっけなく訊いてくるものだから、ぼくも「スピーカー」とだけそっけなく答えた。きみはまた「そうか」とそっけなく答える。ぼくは次になんと反撃すればいいのか思いつかなかった。
今日の喫茶店は、人が多い。きっと雨が降っているからだろう。コーヒーのにおいがして、どこからしているのだろう、と思うと同時に、手元のコーヒーを口にすすっていた。甘ったるい液体が、舌や歯に感触を残す。
「さっきの話」
唐突にきみが口を開く。ぼくが反撃をあきらめたものと見なしたらしい。正解だった。
「さっきの話?」
「違うとか、違わないとか、人気者とか」
「ああ、授業中の」
きみはオレンジジュースだった。きっと砂糖たっぷりのコーヒーよりも甘ったるい、きみの大好きなオレンジジュース。大男が喫茶店の小さなテーブルの質素な椅子に座って、黄色い飲み物を前にしている様子は、いつ見ても滑稽だ。
「人気者になる条件ってのはさ、みんなと違うことも、みんなと同じことも、関係ないと思うんだ」
きみは真面目そうに言う。そんな話をしていたんだっけ。対してぼくはあまり真面目なことに関心がない。それでもぼくは、喧騒のなかできみの言葉だけを選択する。
「じゃあ、なに」
「運だよ」
きみの即答は、取っ手がふいに欠けたコーヒーカップだ。
「そんなのあたりまえじゃん」
大きな音を立ててコーヒーカップは机上に落ちた。けれど奇跡的に中身をぶちまけることはなかった。ただ少し跳ねたコーヒーが、ぼくの手を汚した。瞬間的に周囲の視線がぼくたちのテーブルに集まる。ぼくは視線に無頓着なふりをし、きみはただコーヒーカップに集中した。
店員がやってきて、ぼくに平謝りをする。まばらな水滴を拭きながら、すぐに代えを持ってきますね、と言う。なぜそんなに急いでいるのだろう。ぼくとさほど年齢の変わらなそうな店員は、取っ手を拾って、持っていった。どこかでくすくす笑う声がする。あのコ可愛いよな。知らない誰かの声。あのコ、というのがぼくではなくてあの店員であることは明らかだ。そうか言われてみるとちょこまかとまたカップのほうを取りに戻った彼女は、可愛い。
「もう出よう」
きみに言うと、きみはようやく店員から視線を外して、オレンジジュースを飲みほした。
喫茶店を出てみると、外は嘘みたいに晴れていた。依然として曇ったままではあるけれど、地面はからっと乾いている。地下発電機の賜物だろう。
喫茶店の横の購買に、安い傘が売られているのを今更になって見つけた。「喫茶店で雨宿りをする金で、これを買っていれば良かったな」ときみは言う。でも後悔した様子ではなくて良かった。自動清掃機が購買の前を通る。ホビトちゃんの新曲がまた流れていた。
きみは綺麗になった廊下に、あしあとをつける。喫茶店かどこかでなにか踏んだのが、靴の裏についているらしい。わざとそうやって廊下に汚れをおしつけているのか、そうでないのかは、わからなかった。でも上を向いているから、きっとわざとではないのだろう。きみは考えたように上を向く。つられてぼくは、上を向く。つられなくても、背の高いきみを見るときは、見上げなくてはならないけど。
「天井、だな」
きみが納得したように言うものだから、「へえ、そうなんだ」と納得したように返した。「今ので意味わかったのか?」ときみは、顔を綻ばせて言うものだから、「わかるわけないじゃん」。笑って言った。
「曲だよ。曲は天井から流れていたんだ」
人差し指を立てるきみの顔は、新たな発見に喜んでいた。そうか。天井か。天井は照明機能だけじゃなくて、音楽再生機能も備えていたんだ。
「訊かれてから気になって、ずっと探してたんだよ」
そう言うきみは本当に嬉しそうだ。きみは発見をすると、甘ったるくて明るくて、子犬みたいな顔をする。だからきみは、発見のありそうな事柄を見つけると、それに飛びついて離れないんだ。子犬みたいに。
「行こうよ」
と帰宅を促すと、きみは笑顔のまま表情を固めて、ぼくを見下ろす。ホビトちゃんの曲が終わる。
「おれ、明日の朝には行くから」
そうやって、急に本題に入る。
「どこに」
「海外に」
真面目くさった即答。そんなこと、言わなくても知っているのに。きみは発見が好き。初めて会ったときから、きみはそんな人だった。
ぼくは歩きだす。いつまでも購買の傘に未練を持ってはいられなかった。きみも遅れてついてくる。歩幅が大きいから、遅れるという感覚もいだく暇はなかっただろう。
「おれがいなくなったら」
「大丈夫だよ」
即答には即答。ぶつ切りの会話が続いていた。生徒証を提示して学校の敷地外に出る。校門を出た先は道路だ。いつまで経っても数の減らない自動車が、規則正しくも速いスピードで通り過ぎていく。道路に発熱機能はないから、まだ残っていた水たまりが、ぴしゃりとあたりに飛び散った。
「おまえ、おれの他に話す人いないじゃないか。おしゃべり好きのくせにさ」
いつからぼくがおしゃべり好きになったのだろう。ぼくはきみとしか話さないのだから、おしゃべり好きなわけがないじゃないか。信号が青になる。
「半年はいないんだぞ。最低で半年だ」
研修生兼、研究者連中の雑用係として、きみは新種エネルギーの発掘現場と他国のラボを行き来する。その間、この学校に帰ってくることはない。
ぼくたちが渡り切った後であっても、歩行者側の信号がまた赤になるまでは、車は進むことができない。待機している車のうち一台に、迷惑な車があって、大音量でホビトちゃんのデビュー曲を流している。ホビトちゃんは人気者だ。
「帰ってくるんでしょ」
「何か月も先の話だ。その間、おまえは」
「だから大丈夫だって」
手を掴まれる。あ、と思った。ちがでてる。
「どこが大丈夫なんだよ。自分の怪我にも気づけないやつが」
きみの大きな手が、ぼくの人差し指を抱えた。きみは常備しているらしい看護シールを、その傷口に貼る。いつ怪我したのだろう。小さな怪我で、気づいてもさほど痛みは感じなかったけれど、血は蟹の吹く泡のような有様だった。つまった呼吸を意識しながら、きみの手のひらに包まれた指を意識しながら、今日一日のことを思い返す。朝起きて、朝ご飯を注文して、学校に出て、授業を受けて、授業を受けて……。ああ、コーヒーカップの取っ手が取れたときだ。あのとき、きっと欠けた先が指を切ったのだろう。
「もういいよ。ありがとう」
お礼は言いたくなった。でも、もういいよ、だけなのもなにか足りなかった。嫌なお礼を言ったところで、その不満は解消されなかった。きみがぼくの手をとったまま、離さないのも、癪に障った。
信号を渡ったところでぼくたちは足を止めていた。そのまま手を掴まれている状況はどこか落ち着かなかった。きみは真面目くさった顔をする。その顔は好きじゃない。ぼくは好きじゃない。
「おれは好きだ」
だから、その真面目なところが嫌なんだ。
きみが、左手の薬指を突き出す。薬指だけを伸ばすのは難しそうだった。車が通り過ぎる。ぽつりと水滴が落ちてきて目元を濡らした。また降ってきたのではなくて信号機についていた水滴だった。
薬指が、水滴をなぞり取る。視界がぼやけても必死にぼくはきみを見ようとした。そんなことをしてくる奴はどうして、みんな難しい顔をするのだろう。
また目元が濡れた。続けて濡れた。止まらなかった。きみの左手を掴んだ。それを自分の首に持っ