年間王者はダレだ? バトルロイヤルheisei25
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ココロ
投稿時刻 : 2013.12.22 23:59
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ココロ
小伏史央


 あいつが、死んだ。
 海に沈んで。
 水にのまれて。のみこんで。
 暗闇のなかに。
 落ちていたんだ。
 あいつの〈情報〉は、人の形をしていた。それは、ぼくがそう願たからだた。そう望んだからだた。あいつは生前、確かに人の形をしていたのだから、ぼくは、人の形をしたあいつのことしか認識できない。だから〈情報〉は、めざとくぼくの願望に反応して、形質を人のように変容している。それだけなんだ。
 慰霊ホールのなかは、広くて、暗くて、寒かた。いくつもの記録保存機と映写機が、ここには積まれているはずなのに、それらが発する熱よりも、霊魂たちの吐き出す寒気のほうが勝ているらしい。そのホールの片隅に、巨大なモニメントが、ひそりと立ている。今回新しく追加されたその慰霊碑は、百人を優に超すほどの〈情報〉を記録していた。
 あいつは、海に沈んで死んだ。この慰霊碑に記録されている人間はすべてそうだ。みんな、エネルギーの研究船に乗ていた。その船が壊れて、海の底に落ち込んでしまたんだ。
 慰霊碑の前に佇んでいる〈情報〉は、人の形をしているけれど、決して人と見間違えるほど人ではなかた。〈情報〉には顔がない。ただ顔の形をしたものが、首のうえに乗ているだけで、それはあいつの顔ではない。ただ青白く、ところどころ発光している。向こうが透けて見えるような、すべてが光で作られているような。決して人ではなくて、それは〈情報〉でしかなかた。
 だから、ぼくが「ねえ」と話しかけても、反応して顔をこちらに向けてくれるのは、あいつではなくて、あいつの残した〈情報〉でしかない。あいつではないんだ、この人形は。
「ねえ」
 それでもぼくは、あいつに言葉をかけないわけにはいかない。あいつはここにはいないけれど、きとぼくの言葉はあいつには届かないけれど、ぼくは言わずにはいられないんだ。
「ねえ、いまどんな気分?」
〈情報〉の頬を、撫でようとした。実体のない〈情報〉を触ることはできなかた。〈情報〉は本当にただの光でしかない。ぼくの願望に照らしあわされたあいつの遺産だ。〈情報〉は、ぼくの行動に反応して、まるで頬を撫でられているようなしぐさをする。ぼくの手の位置と、ぴたり合うように演算して。
 触ている感じは、暗闇のように不安定で、ぼくの主観を除けば皆無だた。〈情報〉の発する光が、なぜだかぼやける。人形もモニメントも、境界がわからなくなて、ぐにと混ざて、頬を伝た。
 ぱちぱちと、頭のなかではじける音がした。
 それはなだれ込んでくる情報だた。彼の思い出だた。

 **

「不思議だよね。違う、というだけで、人は寄り付かなくなるんだから」
 頬杖をついて、ぼくはそう言た。講師がモニタに表示されているグラフを指で示した。前を見るでもなく見て、ぼくは言う。
 喧騒が響く。ここは教室のなかだ。ぼくときみは、その最前席に隣り合て座ていた。でも、特に授業を熱心に聞いているわけではない。一番前の席は、一番天井から遠いという意味で、実はもとも目立たない席だた。ともすれば教壇を見上げることもある。そのことに気付いている生徒は一定数いるけれど、先にぼくらが座ているものだから、結局後ろから席を埋めていくしかなくなる。ぼくらが座ている席というのは、最前席のなかでも特に目立たない、左端の席だ。右端の席は、そのすぐ前のところに講師用の扉があるから、あまり有用な席ではない。
「違うから、寄り付くてこともあるんじないか。スターとかさ」
 この講師の授業は、さほどランクの高い授業ではない。というよりも低い水準にあたるだろう。この講師の授業で席が全席埋まることなんて、見たことがない。だからぼくたちと他の生徒との間には、数席分の空白ができていた。最前席の良い席が取られているのなら、みんなは妥協して後ろから順に席を埋めていくしかできないからだ。
「スターは別だよ」
 言て、少しきみから目を逸らした。教室の様子に耳を傾ける。えー、であるからして、この情報係数はこの方法では求められない、ということになるわけであります。ねーねーぱさ、映画にしようよ、どうしてもあれさ、早く観たいからさ。あのグラフ間違ている気がするな。そうそう、ホビトちんの新曲、あれほんと好きだわ。やだよ映画行こうよ……。教室のいたるところで湧き上がる喧騒。その雑音のなかで普段、ぼくはきみの声だけを選択していた。
「スターというか、クラスの人気者、とかは?」
 きみは付け加える。
「クラスの人気者は、みんなと同じだから、人気なんじないの?」
「えー。そうなのか
 きみは首をひねりながら、授業の内容をこまめにインプトする。ぼくもモニタを向いて、よくわからないグラフの説明を、手元の電子ノートに書き込んだ。
 ほどなくして授業終了の時刻になる。流れるチイムは生徒であるホビトちんが、二年前に制作した曲だた。
「いつまでこの曲を採用するんだろうね」
 講師が、では終わります、と言うのと同時にきみに話しかける。講師がちらとこちらに目をむけた。特にそれ以上ぼくたちに干渉することなく、教壇横の扉から出ていた。後ろの席の人たちも立ち上がる。椅子を引く音が重なる。ぼくたちはいつも通り座たまま混雑が過ぎるのを待つことにした。生徒用の扉は、教室の後ろにあるから、いつもぼくたちは最後だた。
「ホビトちんが卒業するまでは、たぶんこの曲のままだと思う。特に悪いわけでもないし、学校の宣伝になるからな」
 きみが立ち上がりながら言た。ぼくも荷物を机のうえに持ち上げてから、席を立つ。立ち上がてみると、ぼくときみの体格差は歴然だた。ぼくが女で、きみが男だという違いのためなのが第一だろうけど、きみは、男子のなかでも特に大きいんだ。向き合うとその広い肩幅のせいで、包まれたような気分になる。でもきみだから怖くはなかた。
 ついたままのモニタが、自動的に待機画面に切り替わる。すかり人も減ていた。ぼくは天井を見上げた。天井がみずから発光し、穏やかな光を降り注いでいる。
 きみが動き出したから、ぼくは天井から視線を下ろした。教室内の階段を上り、生徒用の扉を抜ける。扉を出てから振り返ると、無人になた教室は、徐々に暗さを取り戻していた。
 今日の授業はこれで終わりだた。ますぐ外へ向かう。廊下はいつもよりも少し汚れていた。靴のあとがまばらに乗ている。
 それは雨が降ているせいだた、と気づくのは、雨音を耳にしてから。歩きながら鞄を開けて、折り畳みの傘が入ているか確認した。
「雨降てるのか。おれ、傘持てきてないんだけどな」
 雨音は偽物ではなかた。ねずみ色の雲が、空を覆ている。おおざぱで重たい雨粒が、とどこおりなく地面を打ち付けている。さすがに走て帰れるような雨ではない。
 きみがなにか言いたげにぼくを見下ろしてくる。鞄の奥に、折り畳み傘の手触りがあた。
「なんか、ぼくも傘忘れたみたい」
 身を裂くような風が吹く。きみは軽く迷たように水流を眺めて、「そうか」と呟いた。
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 ホビトちんの新曲が、喫茶店のどこかから流れていた。どこから流れているんだろう。ぼくはあたりを見回す。よくわからなかた。ただただ新曲が、人々の脳内に刷り込まれていく。こうやて流行歌は作られる。
「なにを探しているんだ?」
 きみがそけなく訊いてくるものだから、ぼくも「スピーカー」とだけそけなく答えた。きみはまた「そうか」とそけなく答える。ぼくは次になんと反撃すればいいのか思いつかなかた。
 今日の喫茶店は、人が多い。きと雨が降ているからだろう。コーヒーのにおいがして、どこからしているのだろう、と思うと同時に、手元のコーヒーを口にすすていた。甘たるい液体が、舌や歯に感触を残す。
「さきの話」
 唐突にきみが口を開く。ぼくが反撃をあきらめたものと見なしたらしい。正解だた。
「さきの話?」
「違うとか、違わないとか、人気者とか」
「ああ、授業中の」
 きみはオレンジジスだた。きと砂糖たぷりのコーヒーよりも甘たるい、きみの大好きなオレンジジス。大男が喫茶店の小さなテーブルの質素な椅子に座て、黄色い飲み物を前にしている様子は、いつ見ても滑稽だ。
「人気者になる条件てのはさ、みんなと違うことも、みんなと同じことも、関係ないと思うんだ」
 きみは真面目そうに言う。そんな話をしていたんだけ。対してぼくはあまり真面目なことに関心がない。それでもぼくは、喧騒のなかできみの言葉だけを選択する。
「じあ、なに」
「運だよ」
 きみの即答は、取手がふいに欠けたコーヒープだ。
「そんなのあたりまえじん」
 大きな音を立ててコーヒープは机上に落ちた。けれど奇跡的に中身をぶちまけることはなかた。ただ少し跳ねたコーヒーが、ぼくの手を汚した。瞬間的に周囲の視線がぼくたちのテーブルに集まる。ぼくは視線に無頓着なふりをし、きみはただコーヒープに集中した。
 店員がやてきて、ぼくに平謝りをする。まばらな水滴を拭きながら、すぐに代えを持てきますね、と言う。なぜそんなに急いでいるのだろう。ぼくとさほど年齢の変わらなそうな店員は、取手を拾て、持ていた。どこかでくすくす笑う声がする。あのコ可愛いよな。知らない誰かの声。あのコ、というのがぼくではなくてあの店員であることは明らかだ。そうか言われてみるとちこまかとまたカプのほうを取りに戻た彼女は、可愛い。
「もう出よう」
 きみに言うと、きみはようやく店員から視線を外して、オレンジジスを飲みほした。
 喫茶店を出てみると、外は嘘みたいに晴れていた。依然として曇たままではあるけれど、地面はからと乾いている。地下発電機の賜物だろう。
 喫茶店の横の購買に、安い傘が売られているのを今更になて見つけた。「喫茶店で雨宿りをする金で、これを買ていれば良かたな」ときみは言う。でも後悔した様子ではなくて良かた。自動清掃機が購買の前を通る。ホビトちんの新曲がまた流れていた。
 きみは綺麗になた廊下に、あしあとをつける。喫茶店かどこかでなにか踏んだのが、靴の裏についているらしい。わざとそうやて廊下に汚れをおしつけているのか、そうでないのかは、わからなかた。でも上を向いているから、きとわざとではないのだろう。きみは考えたように上を向く。つられてぼくは、上を向く。つられなくても、背の高いきみを見るときは、見上げなくてはならないけど。
「天井、だな」
 きみが納得したように言うものだから、「へえ、そうなんだ」と納得したように返した。「今ので意味わかたのか?」ときみは、顔を綻ばせて言うものだから、「わかるわけないじん」。笑て言た。
「曲だよ。曲は天井から流れていたんだ」
 人差し指を立てるきみの顔は、新たな発見に喜んでいた。そうか。天井か。天井は照明機能だけじなくて、音楽再生機能も備えていたんだ。
「訊かれてから気になて、ずと探してたんだよ」
 そう言うきみは本当に嬉しそうだ。きみは発見をすると、甘たるくて明るくて、子犬みたいな顔をする。だからきみは、発見のありそうな事柄を見つけると、それに飛びついて離れないんだ。子犬みたいに。
「行こうよ」
 と帰宅を促すと、きみは笑顔のまま表情を固めて、ぼくを見下ろす。ホビトちんの曲が終わる。
「おれ、明日の朝には行くから」
 そうやて、急に本題に入る。
「どこに」
「海外に」
 真面目くさた即答。そんなこと、言わなくても知ているのに。きみは発見が好き。初めて会たときから、きみはそんな人だた。
 ぼくは歩きだす。いつまでも購買の傘に未練を持てはいられなかた。きみも遅れてついてくる。歩幅が大きいから、遅れるという感覚もいだく暇はなかただろう。
「おれがいなくなたら」
「大丈夫だよ」
 即答には即答。ぶつ切りの会話が続いていた。生徒証を提示して学校の敷地外に出る。校門を出た先は道路だ。いつまで経ても数の減らない自動車が、規則正しくも速いスピードで通り過ぎていく。道路に発熱機能はないから、まだ残ていた水たまりが、ぴしりとあたりに飛び散た。
「おまえ、おれの他に話す人いないじないか。おしべり好きのくせにさ」
 いつからぼくがおしべり好きになたのだろう。ぼくはきみとしか話さないのだから、おしべり好きなわけがないじないか。信号が青になる。
「半年はいないんだぞ。最低で半年だ」
 研修生兼、研究者連中の雑用係として、きみは新種エネルギーの発掘現場と他国のラボを行き来する。その間、この学校に帰てくることはない。
 ぼくたちが渡り切た後であても、歩行者側の信号がまた赤になるまでは、車は進むことができない。待機している車のうち一台に、迷惑な車があて、大音量でホビトちんのデビ曲を流している。ホビトちんは人気者だ。
「帰てくるんでし
「何か月も先の話だ。その間、おまえは」
「だから大丈夫だて」
 手を掴まれる。あ、と思た。ちがでてる。
「どこが大丈夫なんだよ。自分の怪我にも気づけないやつが」
 きみの大きな手が、ぼくの人差し指を抱えた。きみは常備しているらしい看護シールを、その傷口に貼る。いつ怪我したのだろう。小さな怪我で、気づいてもさほど痛みは感じなかたけれど、血は蟹の吹く泡のような有様だた。つまた呼吸を意識しながら、きみの手のひらに包まれた指を意識しながら、今日一日のことを思い返す。朝起きて、朝ご飯を注文して、学校に出て、授業を受けて、授業を受けて……。ああ、コーヒープの取手が取れたときだ。あのとき、きと欠けた先が指を切たのだろう。
「もういいよ。ありがとう」
 お礼は言いたくなた。でも、もういいよ、だけなのもなにか足りなかた。嫌なお礼を言たところで、その不満は解消されなかた。きみがぼくの手をとたまま、離さないのも、癪に障た。
 信号を渡たところでぼくたちは足を止めていた。そのまま手を掴まれている状況はどこか落ち着かなかた。きみは真面目くさた顔をする。その顔は好きじない。ぼくは好きじない。
「おれは好きだ」
 だから、その真面目なところが嫌なんだ。
 きみが、左手の薬指を突き出す。薬指だけを伸ばすのは難しそうだた。車が通り過ぎる。ぽつりと水滴が落ちてきて目元を濡らした。また降てきたのではなくて信号機についていた水滴だた。
 薬指が、水滴をなぞり取る。視界がぼやけても必死にぼくはきみを見ようとした。そんなことをしてくる奴はどうして、みんな難しい顔をするのだろう。
 また目元が濡れた。続けて濡れた。止まらなかた。きみの左手を掴んだ。それを自分の首に持ていた。それはきみにとて発見だたのかもしれない。きみはようやく嬉しそうな顔をした。きみの左手をつかむぼくの右手で、不器用に貼られた看護シールが磁気に共鳴している。薬指がぼくの首に入ていた。視覚に表示されるフイルが、同期中の案内をする。きみの〈情報〉が、ぼくの。
[同期完了しました。この記録媒体は安全に取り外すことができます。]
「ごめん。その」
 きみが言うより先にぼくは全力で首を振る。穴は既に塞がている。
「帰てきてよ。半年後には。そしたらぼくのも、あげるから」
 うまく言えたかどうかは、わからない。
 そんなことは言いたくなかた。
 それはただの言葉だ。
 でもきみは、ぼくの言葉を、ただぼくの言葉だけを選択する。
 そしてその後、ぼくがぼくの〈情報〉をきみにあげる瞬間は、永遠に訪れなかた。
 きみが帰てくることは、なかたからだ。
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 ぼくは中学生のころに、大人の男から乱暴を受けた。ひとりの人間が選択し保存できる〈情報〉は、自分のものを合わせて三人分まで。ぼくはもちろんそのころ中学生だたから、誰の〈情報〉もみだりに受け取らずに、ただ自分だけの認識を育んできた。
 それをあの大人がぶち壊したのだ。
 あいつは最初から動物的な生殖行為には興味を持ていなかた。人間的な、〈情報〉の同期を求めた。新人類は種の可能性を閉じ込める。ただ保守的に保存の道を歩む人間は、人間でありながら動物という枠組みをわずかに外れた。
 人間は「主観」というものに支配されている限り、決して分かり合うことはできない。なにごとにも個人の認識によて世界は確約された。同一のものを見ているはずなのに人によてそれに対する認識は大きく異なた、そしてそうだというのに、その認識の溝を埋めることもなければ、ともすればその「主観」の存在さえも認識することができないことが大半だた。人間は個人で見て、聞いて、感じて考えている限り、クオリアから抜け出すことも、イデアを知覚することもできない。
 あいつはぼくを押し倒したかと思うと、すぐさま薬指をぼくの首に突き刺した。強制的にあいつの〈情報〉がぼくの中に――あのときはまだ「わたし」だ――なだれ込んでくる。
 死んだな、と思たのに、そんなことはなかた。ぼくは肉体的にはなんの不自由もなく生活することができたし、なによりも怪我ひとつつかない行為だたのだ。あいつはただぼくのなかにあいつをばらまいて、それだけで逃げていたのだ。それは放課後の教室の出来事だたから、初めは家族に知られることもないことだた。あいつは教師だた。
 けれど、日を追うごとに、ぼくの頭はおかしくなていた。たまに、ふと気が付くと、友達のことをこどもだな、おさないなと思たりする。かわいいな、こいつもやちまいたいな。それは教師のリアルタイムの思考だた。ぼくは成人男性の思考を眺めていたのだ。
 頭のなかで上映される彼の「主観」は、いつも冷酷なのに同時にとても幼稚だた。大人になてもずとこどもでいるみたいだた。でもそもそも、大人になるてどういうことだろう。いくつになても大人にはなれないんじないか。ずとこどものままなんじないか。ぼくたちが見ている大人たちの、ぼくたちが予想している内側は、むなしい空想にすぎないんじないか。ぼくにはわからなかた。
 次第に、彼の「主観」がぼくの「主観」を侵してくるようになた。ぼくが「ぼく」になたのは、だからそのころだ。情報係数がゼロに近づく。ぼくは、ぼくは……。頭がずきずきと痛む日々が続いた。ぼくは、ぼくは……。吐き気が続いてもなぜか学校を休もうとは思わなかた。それは教師としてのぼくが、仕事面倒だな、と思いながらも、通帳のことを心配しているからだた。
 女の子がぼくなんて言うんじありません! ついには母親に叱咤された。それはそうだ。ぼくはぼくの意識に関係なくぼくのことをぼくと言ていた。ぼくのことをわたしと呼んでいた当時、自身をわたしと呼ぶことになんの違和感もいだかないように、ぼくはそのころ、完全にぼくだた。
 そしてばれた。教師が現行犯で捕またのは、ぼくが強く人を押し倒して自由にしてしまいたい衝動に駆られたときのことだた。急遽執り行われた〈情報〉検査で、ぼくがあいつの被害に遭ていたことが発覚した。そのころになてようやく母親がぼくに対して優しくなた。でももう遅かた。賢明な治療がほどこされた。ある程度の回復は望めたけれど、完璧ではなかた。完璧な「ぼく」の除去は既に不可能な領域になていたのだ。ぼくはぼくだた。ぼくはぼくであて、ぼくでしかなかたんだ。
 そのあいつが、先日、死んだ。釈放された後、懲りずに生徒目当てに研究船に乗たところ、その船がその船だたのだ。
 海に沈んで。
 水にのまれて。のみこんで。
 暗闇の底へと沈んでいたのだ。

 **

 慰霊ホールを出る。外は雨が降ていた。
 どこか清々しい気分だた。事故に遭た人たちには悪いけれど、過去と完全に決別できた気がしたんだ。
 携帯通信機に、着信が入ていた。メセージを選択する。
[やあ。久しぶり。そちはどう? こちは忙しくて大変だ。最近あた沈没事故のせいで、こちの研究は大打撃だよ]
 きみからのメセージ。二人が卒業して、もう何年も経つのに、きみは一度も帰てくることなく、向こうで頑張てみるみたいだ。
 わたしは、――わたしは、空を仰いだ。
 きみには、感謝している。きみはいわゆる、初恋の人で、結ばれることはなかたけれど。きみがくれた〈情報〉のおかげで、わたしは人と出会うすべを学んだ。
 いま、わたしのお腹のなかには種の可能性が宿ている。
 
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