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真っ赤に染まったシングルベル
ジングルベル、ジングルベル、鈴が鳴る♪
なんてよく知られた歌詞があるわけだけど、これ、「ジ」の濁点を取ると、なんとも言えないし
ょっぱい響きの歌になる。
シングルベル、シングルベル、鈴が鳴る♪
『シングルベル』ってなんだよって突っ込みは置いておいて。『シングル』という単語に漂うそこはかとない哀愁に、街のイルミネーションは歪んでしまいそうだ。
そういえば、クリスマスはどうせボッチですよー、なんて言った私に、じゃあシングルベルだなー、と笑ったのはそういえば彼だったか。
少なくとも。先月の時点では、こんなシングルベルのはずじゃなかったのに。
サンタクロースの衣装よろしく真っ赤に染まった両手を見て。どこで間違えたんだろう、なんて私は立ち尽くす。
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友情に免じてちょっと付き合ってくれと、電話越しにアンジーに頼まれた。午後五時過ぎ、外はすっかり暗くなっていた。
「お前にしかこんなこと頼めないし」
飲み仲間でDJ仲間のアンジーに対して私が抱いていた感情は友情ではなかったのだけれど、それでも私は少なからず嬉しくて、即刻OKした。
だって、今日は十二月二十四日。キリスト教徒なんて人口全体の数パーセントだろうに、世の中は無駄に浮き足立ち、恋人たちがキャッキャウフフと我がもの顔で街を闊歩するせいで私みたいなボッチ野郎は肩身の狭い思いをしないといけないクリスマス・イブ。
そんな日に、こちらは憎からず思っているアンジーから呼び出されたのだ。そりゃ、コージーコーナーで買ったショートケーキはとりあえず冷蔵庫にしまって駆けつけるというもの。しかも、アンジーが指定してきたのは彼のマンションだ。
会ったことはなかったけど、アンジーに彼女がいるのは知っていた。ので、もしかして、喧嘩して彼女が出ていってしまって、寂しいから来てくれ、だったりして。
常にボーイッシュな私らしからぬスカートなど履いてみて、こんなんじゃアンジーに笑われるかもしれないなぁなんて思ってズボンに履き替え、いつものスカジャンを羽織ってバタバタして家を出たのはアンジーから電話があった四十分後だった。新宿と新大久保の間くらいにある彼の家までは、うちから電車と徒歩で三十分ほど。
気持ちばかりがせいて、二十五分で彼のマンションに着いてしまった。インターフォンを鳴らすと、「井岡か?」と彼の声がした。井岡佑香こと私は嬉々としつつも「しょうがねーから来てやったよ」なんて答え、ドアが開くのを待った。
アンジーはなんだか顔色が悪かった。本当に彼女にフられたのかもしれない。
「イブにどうしたさ?」
「一人か?」
私が二人でくるわけなどないのに、アンジーは挨拶もなしにそんなことを訊いてきた。当たり前じゃん、なんて答えた私は、そのわずか一分後、彼の言葉の真意を知ることになる。
八畳ほどの部屋。その中央に、髪の長い女がうつ伏せに倒れていた。
もしもーし、そんなところで寝たら寒いですよー、あ、もしかして彼女さんですか、初めましてー、なんて声をかける必要はなかった。
ベージュ色のカーペットに、じんわりと赤い染みが広がっている。
「お前とこの女が喧嘩になって、それを俺が助けようとしたらこの女が勝手に転んで頭打った。そういうことにしてくんね?」
クリスマス・イブに彼氏でもない男に呼びだされても、のこのこ行くもんじゃない。
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「別れたい」
目を覚ましたのは午後二時過ぎだった。でもって起きた早々、そう宣告された。
その瞬間、俺が思ったことは二つだ。
人の家で一晩明かしたあとに言うな。
でもって何よりも、もっと早く言え。こんな日に――クリスマス・イブなんかにわざわざ言うな。
「昨日の今日でそれはないんじゃないの?」
ソファベッドに敷きっぱなしの煎餅布団から裸の上半身を出したままタバコをふかしつつ、さっさと身支度を整えた美咲を見上げた。
長くてまっすぐな黒髪。大きな目。長いまつ毛。目鼻立ちのはっきりした意志の強そうな顔。初めて出会ったのは、新宿歌舞伎町の一角にある薄暗い飲み屋。心もとない照明の下でもその顔は強烈な印象を俺の中に刻んだ。いかにも扱いにくそうなところもまた、好みだった。井岡佑香みたいな、従順な忠犬タイプではない。素っ気ない猫みたいな女。毛並みのいい、すっとした手足が細い黒猫。
「理由は?」
すっと伸びてきたその手に、くわえていたタバコを取られた。まだ半分以上残っていたタバコは、テーブルの上の吸い殻ですでにいっぱいの灰皿に押しつけられる。
「こういうところ」
じゃあね。俺には美咲の言いたいことも言っていること何一つも理解できないのだが、言うだけ言ったという態で美咲は部屋を出ていこうとする。勝手な奴。でもそれはお互いさまという気もしてきて。
だったら、こっちも勝手にするだけの話。
「――待てよ!」
布団を跳ねのけ、その細い腕を思い切り掴んだ。やめてよ、とかなんとか言って彼女が身を捩る。が、仮にも男である俺がそんなか弱い力に負けるわけがない。自分の力を誇示するように、美咲を引き寄せるつもりで俺はその腕を引いた。
美咲の体が床を滑ったのと、テーブルがごつっと鈍い音を立てたのと、灰皿の吸い殻が宙を待って辺りに散らばったのは同時だった。少し遅れて、ガシャンと派手な音を立てて百円ショップで買った白いお皿が割れる。あぁ、そういや昨日の夜、一日早いけどケーキ食べたんだったっけ――なんて、ぼんやりと思い出した。
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「無茶言わないでよ!」
私の言葉に、だがアンジーは一切たじろがなかった。
「じゃ、お前、警察に通報すんの?」
私は何も関係ないのに。どうしてアンジーの方が偉そうなんだろう。
アンジーはいつもいつもそうだ。
いつもみんなの輪の中心にいて、快活で、豪快で、偉そうで。寄ってくる女は絶えない。けど、私のことは『相棒だ』と言って何かとそばに置いてくれた。俺ら男友だちみたいなものだし、なんて言われて、そうそう、と私も頷いた。でもきっとアンジーは気づいている、私がそうは思っていないこと。だから私の話なんていつもろくに聞いてくれない。それでも私を邪見にしないのは、きっと都合がいいからだ。いると便利だから。使いっぱしりにもできる。ちょっとお金を借りることもできる。
殺人のあと処理を頼むことも。
「頼むよ。頼れんの、お前しかいないし」
偉そうと思ったら、今度は情けない声を出す。
「協力してくれんなら、俺」
本能的に悟った。この続きは聞いちゃいけない。聞いちゃいけないと思うのに。
「お前と付き合ってもいいよ」
まさかアンジーも、私がこんな行動を取るなんて思ってもみなかったに違いない。
全力で正面からタックルした。
うぐっと変な声を上げて、アンジーは近くの本棚にぶつかって、そのままずるずると床に座り込んだ。いってぇ、と顔を歪める。
「ふざけんなふざけんなふざけんな!」
私の想いをなんだと思ってるんだ。チクショウチクショウチクショウ!
「なめんじゃねぇ!」
私が地団太を踏んだそのときだった。
本棚の上に置いてあった何かの箱が、アンジーの頭目がけて落ちてきた。
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頭全体が熱を持っていて、ぐわんぐわんとひどい頭痛がした。
冷たい床にうつぶせに倒れていた。どうしてこんなところで転がっていたのか思い出せない。目蓋をうっすらと開ける。見覚えのある乱雑なタバコ臭い部屋。経済的じゃないから禁煙すればいいのにといくら言っても安東くんはタバコを辞めてくれなかった。いい加減付き合ってんだから名前で呼べよ、なんて言うので、タバコを辞めないなら名前で呼んであげない、と言っても安東くんはタバコを辞めようとはしなかった。一も二もなく私への愛よりもタバコを取るのかこの男は、と思ったら途端に興ざめした。付き合い始めて一ヶ月ちょうど。結局安東くんのことを名前で呼ぶことはなかったなぁ、なんて。あぁそうだ、別れ話をしてたんだっけ。
ゆっくりと体を起こして、気がつく。
すぐそばに、ショートカットにスカジャンというなんともボーイッシュな格好の女が立っていた。立ち尽くしたまま、微動だにしない。こちらに背を向けている。
何を見ているんだろうと思ったら、本棚にもたれて首を変な方向に傾けている安東くんの姿が目についた。
そうだった。私は安東くんに引っぱられて転んで――で、なんで安東くんがこんなことになってるんだ? この女は何?
一体何が起きたんだ?
そろそろと立ち上がった。なんだか顔が湿っぽい。頭から出血しているようだ。救急車を呼んでもらおう。声をかけるつもりで、その女の肩を背後から叩いた。
ばっと振り返って私の顔を見た瞬間、女が「ぎゃぁぁぁ!」というかわいげもクソもない悲鳴を上げた。
女は私の手を振り払おうとして足をもつらせ、安東くんの隣にうつ伏せの状態でびたんと倒れた。
大丈夫? と声をかける間もなかった。
何の不幸か、割れたお皿の破片が彼女の首の側面を深く抉っていた。真っ赤な血潮が噴き出て私の視界を染める。
そして私は一人、この部屋に残された。
シングルベル、シングルベル、鈴が鳴る♪