視線の先に
五十歳の誕生日を迎えたばかりの妻が死んだ。交通事故だ
った。
突然のことに信じられず、葬儀の最中も、死んだのは実は妻によく似た別人で「あら、何しているの?」と妻が外から帰ってくるのではないかと頭の片隅で考えていた。
それでも四十九日の法要を終えて納骨を済ませたあたりには、いくらか心の整理がついてきて、会社が休みの日には妻の遺品整理を少しずつ進められるようになっていた。
その頃からだ。
妻の幽霊が見えるようになったのは。
幽霊でもいいから、もう一度会いたい。
妻が死んでから、私は何度もそう思った。
だが、自宅の居間で妻の幽霊を初めて見た時、足がすくんだ。食べかけていたコンビニ弁当を落とし中身が床にこぼれたが、気にする余裕もなく、私は叫びながら居間を飛び出していた。
恐かった。
幽霊が、と言うよりも、無言でたたずむ妻の顔が、妻が私に向けた恨みがましい視線が恐ろしかった。
(アイツは私を恨んでいるのか?)
……そうかも、しれない。
私はずっと仕事中心の生活をしていた。朝早く家を出て、帰りは深夜になることもあった。
そんな私のために、妻は私よりも先に起きて朝ごはんを作り、お弁当を用意してくれた。夜も私が帰るまで寝ないで待っていて、温かい夕飯を食べさせてくれた。
私が今まで仕事に専念できたのは妻のおかげだ。
それなのに、私は妻を旅行に連れて行くこともなく、外食すらほとんどなかった。
あと五年で定年。
それから二人でのんびりと旅行に行って美味しい物を食べればいい、それからでも遅くない。私はずっとそう思っていた。
だが、妻は死んだ。
何も返せないまま、妻は死んでしまった。
そして、残された私は、好きな仕事をしながら気ままに暮らしている。
妻に任せっきりになっていた家事をすることになり最初は頭を抱えたが、外食、コンビニ、コインランドリー、お掃除ロボット……自分でやらなくても済む方法はいくらでもあった。
特に食事は自分で作らなければ洗い物が出ないので、その日の気分で出来合いの弁当を買ったり外で食べたりしている。
酒を飲む機会も増えた。
妻が死んで気を落としている私を、同僚が飲みに誘ってくれるようになった。以前なら誘われても妻が待っているからと断ることが多かったが、今は一人。急いで家に帰る理由もなかった。
昔の友人たちからも声がかかるようになった。飲み会だけでなく旅行にも誘われた。前日に休日出勤が決まることのある会社だ。旅行なんて無理だと思っていたがなんとかなるもので、一人でも遠出するようになった。
仕事ばかりだった私の人生は変わった。
私に尽くしてくれた妻が死んでしまったというのに、毎日が充実している。
……これでは、恨まれても仕方がない。
最初は時々しか家に現れなかった妻の幽霊は、飲み会や旅行先でも見え始め、回数も増えていき、今では毎日現れるようになっていた。
その度に「すまない」と心の中で謝り続け、一年が過ぎようとしていた。
今年も健康診断の時期が来た。
レントゲンに始まり、検尿、体重、視力、聴力、血圧、心電図……と順番に行っていく。
そして、最後は医者の問診。
今までは「何か気になることはありますか」「いえ、特には」「そうですか。何も問題ありませんね」という簡単なやり取りで終わっていたが、
「……体重が、かなり増えましたね」
結果を見るなり医者が眉をしかめた。
「え?ああ、まあ、そうですね……」
家で体重を計ることはないが、半年ほど前にズボンのボタンがはまらなくなったので買い換えている。その新しいズボンも最近きつくなってきたので新調しようかと検討中だ。
「それに血圧も高い……最近、食生活が変わりましたか?」
「最近というか一年前に妻が亡くなりまして」
「そうでしたか。それまでは食事の用意は奥様が?」
「はい。なので今は外食か、コンビニやスーパーで弁当を買うことががほとんどです」
「お酒の量も増えましたね」
「飲みに行く機会が増えまして」
話していくうちに医者の表情がどんどん険しくなる。
少しの間をおいて、医者が言った。
「まず血圧が高すぎます。紹介状を書きますので、すぐにでも病院に行ってください。それと……」
食事についていろいろと注意を受けたが、正直に言うと、わからないことだらけだった。
栄養バランスがとれた食事?
いったい何を食べればいいんだ?
カロリーを抑える?
どうやって計算すればいいんだ?
好きなものを食べていてはいけなかったのか?
……わからない。今まで食事はずっと妻に任せていた。
できれば食生活を戻すようにと言われたが、妻がいた頃と同じ食事にするなんて絶対に無理だ。
途方にくれながら、それでも会社からの帰りにコンビニで弁当と缶ビール、そしてとりあえずサラダも買って家に帰る。
電気をつけると、居間の片隅に妻の幽霊が見えた。いつものように恨みがましい目を私に向けている。
……いや、違う。
妻の視線は私の手元に注がれている。
私が持つビニール袋の中には、弁当と缶ビール。
――せっかく私が気をつけていたというのに、毎日そんなものばかり食べ続けて。
そんな妻の声が、初めて聞こえたような気がした。