第29回 てきすとぽい杯
 1  2  3 «〔 作品4 〕» 5  15 
最後の音
みお
投稿時刻 : 2015.10.17 23:25
字数 : 1992
5
投票しない
最後の音
みお


 
 世界は薄暗い。目を開けても、ただ闇しかみえない。僕の目は、病に冒されているのだ。
 意識は朦朧とし、過去と未来と現実が入り交じる。
 突然怒りが湧き出る時もあれば涙が止まらないこともある。
……Ten little Indian boys went out to dine」
 ただ喉だけは動くので、僕は時々こうして歌をうたうのだ。
「Nine little Indian boys sat up very late……
 歌う間だけ様々なことを思い出した。かつて海を旅したこと。美しい青空、打ち寄せる白波。輝く太陽の光。僕の手に触れた乙女の指先。
 ……全ては夢だ。遠い夢だ。
「Eight little Indian boys traveling in Devon……
 闇に落ちる意識の中で、僕は必死に歌をうたた。
 そうでもしなければ気が狂いそうだた。
……Three little Indian boys walking in the zoo…Two Little Indian boys sitting in the sun」
 僕は腕を上げる。目を開ける。涙が溢れる。
 僕の目の前にあるのは、年老いて皺の寄た手だ、腕だ。
 かつては煌びやかな宝石が自慢げに輝いていた指には、もう何の飾りもない。そこにあるのは、死に近づいた老人特有の、どす黒い染みである。
 手の向こうにあるものは、薄暗い天井のみ。かつては美しい文様で飾られていた天井は、いまや一面ムカデが這い、蜘蛛が巣をかける。
 あれほどまでに僕を守てくれた近衛兵はもういない。じいやも、ばあやも消えた。優しい父も母も、殺された。
 ……僕の頭の中がどんどんとクリアになていく。そうだ、僕は、かつて王子であた。若かりし頃、恋をした、美しい女に恋をした。
 その手は、掴みきれず泡となた。
……そうして誰もいなくなた」
……
 歌を歌いきると同時に、ふと優しい風が僕の頬を撫でた。僕は、掠れた目を見開く。
 さてこれは幻だろうか。目の前に、美しい女が微笑んでいる。
……いなくなてないわ、私がいるもの)
 彼女はゆくりと、唇をあけた。声は出ていない。しかしそれは波を伝わる風のように僕の耳に届くのだ。
「きみは」
(私は)
 金の髪をゆるやかに結び、質素な服に身を包んだ女である。彼女は赤い唇で微笑んで僕の側に座る。そうだ、僕はもう長くベドの上で眠ていたのである。
 いつでも彼女だけは、そばに居てくれたのに、なぜ気がつかなかたのだろう。
……きみだけは」
(私だけは)
 女は優しくその手で僕の手を撫でる。もう、何の価値もなくなた僕の手を。
「いつも僕のそばにいた」
(いつもあなたのそばにいた)
 僕の目から涙が幾筋もあふれ、ベドに吸い込まれてきえた。
……そうだ、この手だ。僕をいつか水の底から救たのは、この手だ。なぜ、今まで気付かなかたんだろう」
 僕はかつて王子であた。難破船で溺れた僕を救たのは、この手だた。なのに、今まで愚かな僕は気がつかなかた。
 僕は違う娘を命の恩人と誤解して、結婚した。この、優しくも悲しい女を捨てて別の女と結ばれた。
 のちに政変があり、父は死んだ母も死んだ。妻は逃げ、近衛兵たちも皆、逃げ出した。
 僕はただ一人、牢という名の部屋に閉じ込められて死を待ち行くばかりとなた。 
 そんな時、歌が聞こえたのだ。いや、声ではない。波を伝わる波動のような気配が、僕を包み込んだ。いつでもその気配はそばにあた。
 そして、今、はじめて姿を見た。
 ……君だたのか。と僕は声なき声でいう。彼女は蒼い目で微笑む。もう何十年も見ていない、青空がそこにあた。
……足を見せて」
 僕は震える手で、彼女の膝に触れる。暖かな足である。彼女がそと、スカートを持ち上げると、そこに美しい二本の白い生足が見えた。
 しかりと大地を踏みしめるそれは、凜として美しい。
……ああ、僕のための足だ」
 難破船より救てくれたこの優しい人は、僕のために声を代償として人となた。僕はその愛に気付かず、彼女を忘れた。
 僕は亡国の主である。国は滅び、一人にな……一人になたと思ていた。
(マザーグースの歌なんて寂しいからもう止めて。大丈夫、私はあなたの死に水を取ると決めていたから)
 彼女は優しく僕の顔を撫でた。目から溢れる涙にそと彼女は口付ける。
「さようなら、世界で一番大嫌いで大好きなあなた」
 その赤い唇が、初めて声を放た。目の前の彼女は泣き濡れて、笑ている。
 僕も数十年振りに、笑た。
「さようなら、僕の大好きな人」
 

 男の腕がゆくりと、ベドに沈む。
 埃をあげて落ちたその手が動くことはもうない。女はしばらくその手に触れていたが、やがて男の涙を口に含んで乾いた唇を濡らしてやる。
 彼女はゆくりと、立ち上がた。
……そして誰もいなくなた」
 最後、床に散たのは小さな泡である。
 やがてその泡も、ぱちんと弾けて消えた。
 それがこの部屋から聞こえた最後の音である。
← 前の作品へ
次の作品へ →
5 投票しない