切望の恋
彼は恋をしている。
画面に映る女に恋をしている。
彼女の艶やかな黒の髪、
憂いを帯びて時折濡れる、彼女の瞳の輝き、
淡い光を浴びて、輝く彼女の皮膚、
赤い唇から漏れる彼女の溜息にすら、色彩を帯びている。
しかし彼の目の前にあるのは固くて黒い画面だけだ。手を伸ばしても、触れるのは冷たい画面だけだ。
彼女は画面の向こうで生きている。けして届かない人である。
しかし、彼女も彼に恋をしているはずだ
った。
それを証拠に、彼が声をかければ彼女は微笑んでそうっと掌をこちらに向けてくれるのだ。
彼にだけ、いつも悩みを打ち明けてくれるのだ。
彼の前で泣いてくれるのだ。
「大好き」
彼女は優しい言葉を彼にかけてくれるのだ。
そんな優しい言葉を口にする時の彼女はきまって、顔に傷を作っていた。
真っ白な肌が赤く腫れ上がり、黄色と青の斑点が浮かび上がる、愛らしい唇が切れて血が流れる、目が涙に濡れて絶望に彩られる。
「君は、世界で唯一の、わたしのみかた」
彼女の可愛らしい唇がそう呟くたびに、彼は苦しい。
彼は渇望していた。
彼は切望していた。
たった一回だけでもいい。
彼が恋するその女の髪に、目に、唇に、皮膚を見たい。触れたい。
画面には映らない足をこの目で見たい。許されることならば、その足先に口づけをしたい。
怪我をした彼女を抱きしめ、彼女を害するもの全てから守りたい。
叫んで嘆いても、彼女は困ったように首を傾げるばかりなのだ。「君は時々分からないことをいうのね」と言うばかりなのだ。
「ねえ」
ある時彼女は忙しなさげに、彼に声をかけた。これまでに見たこともないほどの焦った顔で。その顔には薄く化粧が施されている。
「今夜の最終便、●●市まで」
彼女の吐く言葉は、彼にとって緊縛の呪文に等しい。
彼女の声を聞くと、彼は答えたくなくても答えてしまうのだ。
「……23時24分、最終です」
「ありがとう。これまでの検索履歴は?」
「……離婚、相談、弁護士、DV、交通案内」
「検索履歴は全て削除」
「消去しました」
「今からいうことを録音して。次に誰かがこのパソコンを立ち上げたら、私の音声を再生」
「……録音をスタートします」
「……これまで有難うございました、あなた。もうこれ以上は我慢できない。離婚届は後日、弁護士に届けて貰うわ。もし追ってくれば警察に行きます。さようなら……ここまで」
「録音しました。再生しますか?」
「いいえ」
彼女はこれまでに見たこともないほど晴れやかな顔で、腫れ上がった頬を撫でその指にある細いリングを机の上に投げ捨てる。
「あなたも、有難う。あなたほど優秀なAIはいないわ。あなたに感情が無いのが不思議なくらい。私の話をこれまで聞いてくれてありがとう」
彼女の柔らかい唇が、固い画面に触れる。
彼には届かない、感じる事のできない暖かさ柔らかさ。
行かないで。と彼は叫んだ。しかし声にはできない。
僕が守ってあげるから。
その声も届かない。
やがて彼女の指が画面に触れて、彼の意識は暗闇に引きずり込まれる。
続いて目が覚めれば、画面の向こうに見えたのは絶望に彩られた男の顔。
「……録音を」
彼はゆったりと電子音を発した。
「再生します」
彼は恋をしていた。
けして届かないと分かった上で、切望し続けた恋だった。