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「新しい顔やな。しっかりきばりや」
近所の経師屋の番頭が、お仕着せの糊もまだ固い安吉に目を留めて言った。桶を手に水をまいていた安吉は慌てて頭を下げる。
「へぇ、どうぞよろしゅう」
満足そうに頷き歩み去っていく番頭を見送り、安吉は小さく息をついた。途端に店先から声が飛ぶ。
「安松、終わったんやったら早う中入っといで。旦さんがお呼びや」
声に急かされるように桶に残った水を素早く流し、安吉は土間へと入った。奥から主人の幸兵衛が書状を持って出てくる。
「急かして悪いんやけどな、これを鰻谷の角屋のご隠居に届けてくれへんか。場所はいっぺん行ったから覚えてるやろ?」
安吉は汚れた手を前掛けで拭って、主人から書状を受け取る。
「へぇ、返事はもろてきますんやろか?」
「せや。返事を書いてもらう間、軒先で待たせてもろてたらええ」
「ほな行って参ります」
「早うお帰り」
書状を懐に入れた安吉は、急ぎ足で人々の間を抜けて角屋へ向かった。
角屋の隠居は安吉の主の囲碁仲間である。頼まれた書状の内容も、その誘いであろう。
鰻谷へ向かう途中、安吉は行き交う人の中に見覚えのある少女を見つけ、はっと息を呑んで足を止めた。うつむきがちに歩く、華奢な体つきは幼なじみのおみよである。が、顔を上げた途端、全くの別人であることに気付く。気落ちすると同時に後ろを歩いていた棒手振りの男が安吉を怒鳴りつける。
「突然立ち止まったら危ないやないかっ」
飛び上がるようにして道を譲り、慌てて頭を下げる。
「す、すんまへん」
舌打ちをしながら棒手振りは歩き去る。次に顔を上げた時には先程の少女の姿は見えなくなっていた。
軽くため息をつきながら安吉は再び歩き出す。少し前に、弟分の彦太に誘われ、南御堂の裏手にある幽霊屋敷に、肝試しに行った。しかしそこにいたのは幽霊ではなく、人さらいの男たちであった。
彦太と二人、なんとか逃げ出したものの、男たちの話ではどうもおみよが目当てであったように思われる。
おみよの傍を離れたくはなかったが、奉公がすでに決まっている身ではどうすることも出来ない。
心を残したまま安吉は彦太におみよを頼み、生まれ育った長屋を離れたのであった。
人さらいの男たちがおみよだけを付け狙っているとも思えないが、幽霊屋敷の話を彦太に吹き込んだのが、隣店に住む辰兄という無頼漢であったというのも気になっている。
逃げることに必死で確かめることも出来なかったが、あのとき幽霊屋敷にいた男たちの中に辰兄もいたのではないかと思えて仕方がなかった。
気が付くと、角屋の隠居のすむ仕舞た屋の前にいた。考え事をしながらも足は仕事を忘れずにいたとみえる。安吉はわずかに襟を正して、訪いを告げた。
中から下女が出てきたので書状を手渡すと、しばらく待つように言われる。ややあって、四半刻ほど待ってほしい、その間、隣の茶店で団子でも食べておきなさいと、下女に告げられた。片目をつぶって微笑みながら、手に小遣いも握らせてくれる。身を小さくしながら礼を言い、言われた通り安吉は往来の並びにある茶店の床几におずおずと腰を下ろした。注文を取りに来た老女に茶と団子を頼むと、少し大人になった気分がした。
おみよへの心配も残るが、今は奉公に身を尽くすしかない。いつか取り立てられたら、おみよを迎えに行けたら――。
一人で茶店で休憩するということに誇らしさと嬉しさを感じながら往来を見ていた安吉の肩を、誰かが
軽く叩いた。
振り返って安吉は息を止めた。
そこに立っていたのは、同じ長屋に住んでいた辰兄であったからだ。
驚いて言葉も出ない安吉ににやりと笑いかけながら、辰兄は親しげな様子で隣に腰を下ろす。くっつかんばかりの距離に座った辰兄からは、酒の匂いがした。
「久しぶりやな、安吉。今は安松とでも呼ばれてるんか? 河内木綿のお仕着せがよう似合とるやないか」
だらしなく着付けた着流しの裾から、組んだ脛が見える。ちょうど団子が運ばれてきて、辰兄は老女にこっちにも一つ頼む、と団子を頼んだ。
その隙に安吉は落ち着きを取り戻していた。
辰兄が何のために自分に声を掛けたのかは分からないが、この間のことを確かめるいい機会だと思ったのだ。
「辰兄こそ、元気そうでなによりや。ええ匂いさせてるけど、なんかええことあったんか?」
辰兄は横目で安吉を見た。
「奉公に出たら、いうこともいっちょ前になるやないか。おお、そうよ。ええことがあったんや」
嬉しいのか、歯を剥きだして笑いをこらえている。じっと次の言葉を待っている安吉にぐっと身を乗り出して、辰兄は声をひそめた。
「安吉、おまえ、口は堅いか?」
辰兄の血走った目を見返しながら、安吉は力強く頷いてみせる。
「口が堅いんだけが、わての取り柄だす」
にやにや笑いながら、辰兄は安吉に肩をぶつけながらささやいた。
「近々、大金が入る当てができたんや。うまく手に入ったら、お前にもなんかご馳走したるさかいな。こんな茶店の団子なんか、比べ物にならんようなうまいもんをな」
黙って聞きながら、安吉は薄く目を細めた。
大金が入る当てとは何であろう。先日の幽霊屋敷に関することであろうか。
両手を強く握りしめながら、安吉はじっと考え込んでいた。