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四半刻前、安吉は井戸で顔を洗っていた。そのときに、声を掛けられたのである。
「おはよう」
慌てて振り返った安吉は、小さく息を呑んだ。そこに立っていたのはおみよであった。
しばらく見ないうちに、おみよはすっかり大人びていた。すっきりと結い上げられた髪は黒々と光り、肌の白さを際立てていた。黒目がちの瞳は憂いを帯び、小さな唇はわずかに微笑んでいる。
手ぬぐいで顔を拭った安吉は、眩しげに目を細めた。
「お、おはよう」
「夕べはおばさん大変だったね。今朝はどう?」
おみよの問いに、安吉は小さく頷きながら礼を言った。
「ず、ずいぶん良くなったみたいだ。おれが戻るまで、お袋の面倒を見てくれていたんだってな。ありがとう」
おみよはふわりと微笑んだ。
「たいしたことあらへん。最後まで見てあげられへんで気になっててんけど、良くなったんならよかった」
「おみよのおばさんこそ、まだ調子悪いんか?」
おみよの笑みに苦味が加わった。
「寝たり起きたりやね、無理するとあかんみたい」
「そうか……大変やな」
安吉の言葉におみよは曖昧な笑みを浮かべていたが、
「それじゃ、うち、行くところあるから」
と、懐に抱えた風呂敷包みを持ち直して、木戸へと向かった。
「あ、ああ、気をつけてな」
つられるように言葉をかけた安吉であったが、おみよの姿が木戸の向こうに消えた途端に聞くべき言葉を思い出した。
辰兄のことである。最近不審なことはないか聞こうと思っていたのに、久しぶりにおみよの姿を見た途端に、すっかり抜け落ちてしまったようである。
急いで後を追った安吉は、橋の袂にいるおみよを見つけた。声をかけようとして、息を呑む。
隣に立っていたのは、辰兄であった。
辰兄が何かを話しかけるとおみよは小さくうなずき、一緒に歩き出す。安吉は混乱した。二人は連れ立ってどこへ行くのだろう。
動揺が収まらないままに、安吉は二人の後を追っていたのであった。
大坂の朝は早い。明六つの町には、空のたらいを肩に担いで小走りに行く棒手振りに、駕籠かき、同行二人と書かれた笠を持つ巡礼者たちなど、様々な者が往来を行き交っていた。
その中を、いかにも破落戸といった風の辰兄と、風呂敷包みを胸に抱えたおみよが歩いて行く。辰兄は時折、背の高い体を折り曲げるようにしておみよに話しかけているが、おみよは小さく頷いているだけのようであった。
どこまで行くのかと不安を押し殺しながら、安吉は二人に見つからぬように後を追っていく。
御堂筋を越えて二人の向かう先が例の幽霊屋敷であることに気づき、安吉は足を止めた。こんな所に何の用があるのであろう。
辰兄とおみよは朽ちかけた幽霊屋敷の門をくぐり、中へ入った。慌てて安吉も後に続く。
荒れた庭へ入り、草木に体を隠しながら奥へと進んだ安吉は目を見開いた。
辰兄とおみよの前に、数人の男たちがいた。どれも人相の悪い顔つきをしている。正面の懐手をした男が、にやにやとおみよを見つめながら何かを言っている。安吉は声が届く位置まで、体を隠しながら近寄った。
「言うた通りのなかなかの別品や。これやったら文句はないわ。お母ちゃんのために、親孝行するとはえらい子や」
懐手をした男に辰兄は尋ねる。
「他の娘はどこにおりますのんや?」
「河岸の小屋や。今回は他に二人集まった」
辰兄を見ながら下卑た笑いを浮かべる男たちに、安吉はすべてを悟った。人さらいの一味と思っていた辰兄は、女衒に成り果てているのだ。
かっと頭に血の昇った安吉は茂みから飛び出した。
「おまえら、おみよをどこへ連れて行く気や」
そう言っておみよの手を取ろうと腕を伸ばした。
「おみよ、こんな奴らについて行ったらあかん。どこに売り飛ばされるか分からんぞ」
凍りついたように立ちすくむおみよの腕を取る前に、安吉は傍にいた男に勢いよく頬を張り飛ばされた。
「何じゃこの餓鬼。どっから来たんじゃ」
懐手をした男が、表情を変えずに言った。
「顔を見られたからには帰すわけにはいかんやろ。始末せえ」
安吉の頬を張り飛ばした男は頷き、安吉の襟を掴んで立ち上がらせる。懐に入れた男の手に匕首が握られていることを知った安吉は、恐怖に息を止めた。と、そのとき
「待ってくれはりまっか。この子はおれの知り合いや。やめたってくれ」
と、辰兄が安吉を庇うように間に入った。
「辰政、なにさらす。そいつをよこせ」
辰兄は振り返らぬまま安吉を後ろへ突き飛ばした。
「早う、この場を離れろ」
「辰政、おまえ、わしらに逆らうつもりか」
辰兄の前に立つ男が匕首を振り上げたとき、何者かが男に横から飛びかかった。組み敷くように地面を転がり、手から匕首を取り上げる。そのとき、呼子笛の音が辺りに響き渡った。
「大坂町奉行である。神妙にいたせ」
塀を乗り越え、捕物姿をした同心たちがばらばらと集まってきた。なすすべもなく立ちすくむ、女衒の一味はたちまち取り押さえられた。
安吉は意味がわからず、呆然とその様子を見守るだけであった。
そんな安吉に、辰兄が手を差し伸べる。
「大丈夫か、安吉」
「……辰兄」
わけがわからぬまま、安吉はその手を掴んだ。辰兄の手は温かく、力強かった。
「辰兄……女衒の一味やなかったんか?」
安吉の問いに辰兄は吹き出した。
「おみよ、聞いたか? おれもえらい信用ないもんやな」
青ざめてはいたが、おみよの顔に笑みが浮かんでいた。
「辰兄は、下っ引きに取り立てられたんよ。賭場に入り浸って、情報を集めとったんや。女衒の一派を捉えるために、うちは囮役になったんよ」
安吉は、言葉もないままに辰兄の顔を見上げた。
「せかやて、大金が手に入るって言うとったやろ」
「ああ、それか」
辰兄はきまり悪げに髷を掻いた。
「大金……というか、この仕事がうまいこと言ったら褒美ははずむと言われたからな。ちょっと、格好つけて言うただけや。紛らわしいこと言うて、悪かったな」
微笑む辰兄を見て、安吉は安心した。安心した途端、涙が溢れ出してきた。
涙は後から後から溢れだし、安吉は声を上げて泣きじゃくった。安堵の涙であった。
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