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そうやって大人になっていく―丁稚安吉の場合
*1*
「ほんまやて、南御堂の裏手に朽ちたような屋敷があるやろ? 塀は崩れて庭は草むして。あの屋敷に幽霊が出るんやて、隣の辰兄が言うと
った」
彦太の言葉に、安吉とおみよは顔を見合わせた。
「……幽霊て、どんなやねん」
疑わしげな顔の安吉に彦太は少し言いよどむように口を何度か開き、しかし、ぐいと顎を突き出して抗うように言った。
「詳しいはしらんけど、血ぃ流したお侍の幽霊が逆さまになってるんやて」
「お侍? いかに戦うかよりいかに刀を抜かないようにというご時世に、なんでそんなもんがこの辺におるねん。だいたい、辰兄て飲んだくれの地回りやろ? 話半分に聞いとかなあかんことくらい、ええかげん覚えろよ」
この春から奉公の決まった安吉は、弟分の彦太の言葉をせせら笑うように言った。しかし安吉の隣で、おみよが小さく首を傾げる。
「でもな、うち聞いたことあるわ。お江戸とちごて、大坂や京は戦場になったって。太閤はんのお城が落ちた戦いの時でも、ごっつう人が死んだで聞いたことあるで。大坂の町城は残らず焼けたて。せやからお侍の幽霊がおってもおかしないんとちゃう?」
黒目がちの目を見開いて話すおみよの顔を見ていた安吉は、慌てて頷いた。
「そ、そやな。おかしないかも知れん。ほんなら、いっぺん行ってみるか?」
話の風向きが変わったことを感じたのか、彦太は嬉しそうに安吉を見上げる。
「うん、行こう。今夜の木戸番は半三爺やから、閉められても簡単に入れてもらえるで」
「せやな。……おみよも来るやろ?」
伺うように言った安吉に、おみよはあっさりと肩をすくめた。
「うち、あかんねん。最近、お母ちゃんの具合が悪くて、弟らの面倒見なあかんねん。もうそろそろ行くわ。ほなね」
言うなり、くるりと下駄を返して走り去っていく。華奢な足首をすがるように見送る安吉の様子に気づかず、彦太はにこにこと言った。
「ほなら、何時にする?」
そんな彦太の顔を忌々しそうに見下ろしながら、安吉は大げさにため息をついた。
「お前だけやったら、行ってもつまらんねんけど……しゃあない、つきおうたるわ」
再び口調が変わった安吉の顔を怪訝そうに見ながらも、彦太はこくりと頷いた。
夕刻、彦太と安吉は南御堂の裏手の通りにいた。
人通りの多い北御堂と南御堂の筋であるが、二本ばかり裏手に入ると人通りはめっきりと少なくなる。
幽霊が出るという古びた屋敷の陰で、彦太と安吉は中の様子を窺っていた。
穴だらけの縁側の奥の雨戸は所々外れているが、建物の中は暗くて見えない。
「ここからやと分からんな。中へ入るぞ」
崩れ落ちた土壁の隙間から庭へ入った瞬間、彦太と安吉は誰かに口を押さえられた。後ろを振り向こうにも、ものすごい力で体を押さえつけられて、身動きが取れない。
くぐもったような声が、安吉の耳元で聞こえる。
「男の餓鬼が二人だけか。禿にお誂えという別品な女の子はおらんのやったらしょうがないな」
「こんな餓鬼だけやと、なんぼにもならんぞ」
少し離れた場所からも声が聞こえる。男たちが数名いるようだ。
「もっとええ理由考えんかい。侍の幽霊なんぞ、女の子が興を示すわけないやろ」
うっすらと見当がついてきた。この男たちは人さらいだ。おみよが目当てで、誘いだしたに違いない。
ここは幽霊屋敷ではなく、鬼畜屋敷であったのだ。
安吉は勢いよく男の足を踏んづけた。その勢いで彦太を押さえている男に体当りする。
「彦太、逃げるぞ。ついてこい」
大人の男たちから逃げられるかわからないが、今はがむしゃらに暴れるだけだ。
おみよが来なくてよかったと思いつつ、めちゃめちゃに手足を振り回しながら安吉は逃げ道を探していた。2 / 4
*2*
「新しい顔やな。しっかりきばりや」
近所の経師屋の番頭が、お仕着せの糊もまだ固い安吉に目を留めて言った。桶を手に水をまいていた安吉は慌てて頭を下げる。
「へぇ、どうぞよろしゅう」
満足そうに頷き歩み去っていく番頭を見送り、安吉は小さく息をついた。途端に店先から声が飛ぶ。
「安松、終わったんやったら早う中入っといで。旦さんがお呼びや」
声に急かされるように桶に残った水を素早く流し、安吉は土間へと入った。奥から主人の幸兵衛が書状を持って出てくる。
「急かして悪いんやけどな、これを鰻谷の角屋のご隠居に届けてくれへんか。場所はいっぺん行ったから覚えてるやろ?」
安吉は汚れた手を前掛けで拭って、主人から書状を受け取る。
「へぇ、返事はもろてきますんやろか?」
「せや。返事を書いてもらう間、軒先で待たせてもろてたらええ」
「ほな行って参ります」
「早うお帰り」
書状を懐に入れた安吉は、急ぎ足で人々の間を抜けて角屋へ向かった。
角屋の隠居は安吉の主の囲碁仲間である。頼まれた書状の内容も、その誘いであろう。
鰻谷へ向かう途中、安吉は行き交う人の中に見覚えのある少女を見つけ、はっと息を呑んで足を止めた。うつむきがちに歩く、華奢な体つきは幼なじみのおみよである。が、顔を上げた途端、全くの別人であることに気付く。気落ちすると同時に後ろを歩いていた棒手振りの男が安吉を怒鳴りつける。
「突然立ち止まったら危ないやないかっ」
飛び上がるようにして道を譲り、慌てて頭を下げる。
「す、すんまへん」
舌打ちをしながら棒手振りは歩き去る。次に顔を上げた時には先程の少女の姿は見えなくなっていた。
軽くため息をつきながら安吉は再び歩き出す。少し前に、弟分の彦太に誘われ、南御堂の裏手にある幽霊屋敷に、肝試しに行った。しかしそこにいたのは幽霊ではなく、人さらいの男たちであった。
彦太と二人、なんとか逃げ出したものの、男たちの話ではどうもおみよが目当てであったように思われる。
おみよの傍を離れたくはなかったが、奉公がすでに決まっている身ではどうすることも出来ない。
心を残したまま安吉は彦太におみよを頼み、生まれ育った長屋を離れたのであった。
人さらいの男たちがおみよだけを付け狙っているとも思えないが、幽霊屋敷の話を彦太に吹き込んだのが、隣店に住む辰兄という無頼漢であったというのも気になっている。
逃げることに必死で確かめることも出来なかったが、あのとき幽霊屋敷にいた男たちの中に辰兄もいたのではないかと思えて仕方がなかった。
気が付くと、角屋の隠居のすむ仕舞た屋の前にいた。考え事をしながらも足は仕事を忘れずにいたとみえる。安吉はわずかに襟を正して、訪いを告げた。
中から下女が出てきたので書状を手渡すと、しばらく待つように言われる。ややあって、四半刻ほど待ってほしい、その間、隣の茶店で団子でも食べておきなさいと、下女に告げられた。片目をつぶって微笑みながら、手に小遣いも握らせてくれる。身を小さくしながら礼を言い、言われた通り安吉は往来の並びにある茶店の床几におずおずと腰を下ろした。注文を取りに来た老女に茶と団子を頼むと、少し大人になった気分がした。
おみよへの心配も残るが、今は奉公に身を尽くすしかない。いつか取り立てられたら、おみよを迎えに行けたら――。
一人で茶店で休憩するということに誇らしさと嬉しさを感じながら往来を見ていた安吉の肩を、誰かが
軽く叩いた。
振り返って安吉は息を止めた。
そこに立っていたのは、同じ長屋に住んでいた辰兄であったからだ。
驚いて言葉も出ない安吉ににやりと笑いかけながら、辰兄は親しげな様子で隣に腰を下ろす。くっつかんばかりの距離に座った辰兄からは、酒の匂いがした。
「久しぶりやな、安吉。今は安松とでも呼ばれてるんか? 河内木綿のお仕着せがよう似合とるやないか」
だらしなく着付けた着流しの裾から、組んだ脛が見える。ちょうど団子が運ばれてきて、辰兄は老女にこっちにも一つ頼む、と団子を頼んだ。
その隙に安吉は落ち着きを取り戻していた。
辰兄が何のために自分に声を掛けたのかは分からないが、この間のことを確かめるいい機会だと思ったのだ。
「辰兄こそ、元気そうでなによりや。ええ匂いさせてるけど、なんかええことあったんか?」
辰兄は横目で安吉を見た。
「奉公に出たら、いうこともいっちょ前になるやないか。おお、そうよ。ええことがあったんや」
嬉しいのか、歯を剥きだして笑いをこらえている。じっと次の言葉を待っている安吉にぐっと身を乗り出して、辰兄は声をひそめた。
「安吉、おまえ、口は堅いか?」
辰兄の血走った目を見返しながら、安吉は力強く頷いてみせる。
「口が堅いんだけが、わての取り柄だす」
にやにや笑いながら、辰兄は安吉に肩をぶつけながらささやいた。
「近々、大金が入る当てができたんや。うまく手に入ったら、お前にもなんかご馳走したるさかいな。こんな茶店の団子なんか、比べ物にならんようなうまいもんをな」
黙って聞きながら、安吉は薄く目を細めた。
大金が入る当てとは何であろう。先日の幽霊屋敷に関することであろうか。
両手を強く握りしめながら、安吉はじっと考え込んでいた。
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*3*
晩御飯の後、夜間の寺子屋へ向かおうと用意をしていた安吉に丁稚仲間が声を掛けた。
「安松、お前、呼ばれてるで」
顔を上げると、階段口から先輩分である手代の顔がひょいと覗いた。
「安松、お前に客人や。すぐ降りてこい」
こんな自分に誰だろうといぶかりつつも、「へぇ」と返事を返して急いで狭い階段を駆け下りる。
土間にいたのは、同じ長屋に住んでいた彦太の父親であった。彦太とはいつも遊ぶ中であったが、朝は早く帰りはいつも遅い左官職人である彦太の父親とはほとんど話したことがなく、安吉は戸惑いながらも頭を下げた。
彦太の父親と話していた番頭が振り返る。四角いその顔に、気遣うような色が浮かんでいることに安吉は気付いた。
「来たか、安松。ええか、気を落ち着けて聞くんやで。お前のお袋さんが怪我をしたらしい。材木問屋の前を通っとる時に、木材が倒れてきてその下敷きになったんやて。近くにおった人らが戸板に乗せて運んでくれはったらしいねんけど、どうもあんまりええことないらしい。このお人は同じ長屋のお方やろ? わざわざ知らせに来てくれはったんや」
安吉はすっと血が引くのを感じた。息を詰めながら、沈鬱な表情の彦太の父親の顔を見上げる。彦太の父親は小さく顎を引いて頷いた。
安吉の肩に手をおきながら、番頭は言った。
「旦さんは寄合で出てはるけど、わてからちゃんと言うといたるから今夜は家に帰ったらええ」
声も出ぬままに、安吉は番頭に向かって深々と頭を下げた。
提灯の灯りに照らされながら、安吉と彦太の父親は夜道を急いだ。長屋に辿り着いた時には四ツ時を少し回っていたが、安吉の家には数人がいるようであった。
「千五郎はん、安坊が帰ってきたで」
近所の女房の声に出迎えられて、安吉は押し出されるようにして家の中に入った。奥の板間に母親は寝かされており、その傍に父親の千五郎と医師らしき男が腰を下ろしていた。
母親は薄い布団に寝かされて、目を閉じている。
「お、お父ちゃん、お母ちゃんは……」
震える声で言った安吉に、父親の代わりに医師が答えた。
「心配ない。ちょっと胸を強う打っただけや。二、三日横になってたら大丈夫やろ」
唖然としながら父親の顔を見ると、困ったように微笑みながら父親も頷く。
「……ちょっと、うろたえてもうたわ。悪いな、お前まで帰ってきてもろて。芳次郎はんも、わざわざ呼びに行ってもろてすんまへんでした」
安吉の後ろに立っていた彦太の父親を振り返ると、小さく微笑みながら頷き、手を上げて出て行った。
「す、すんまへんでした。ありがとうさんどした」
安吉も彦太の父親の背中に頭を下げた。と、戸口から彦太がひょいと顔を覗かせる。
「おかえり、安ちゃん。おばちゃん、たいしたことあらへんかって、良かったな」
ようやく安吉はほっとして、彦太に笑いかける。心配して集まってきていた長屋の連中たちも、皆、笑みを浮かべて自分の店に戻っていった。
外に出た安吉は、それらの人々に頭を下げて見送った。
安堵した途端に、安吉は先日からの懸念を思い出した。例の幽霊屋敷での一件である。
「お父ちゃん、ちょっと外に出てるわ。お母ちゃんが起きたら呼んでもろてええかな」
頷くのを見届けて、彦太の肩を抱いて歩き出す。どぶ板の上を通って奥の井戸へと向かう。
「彦太、ちょっとええか。聞きたいことあるんやけど、最近、辰兄の様子、どないや?」
真っ先におみよの様子を聞きたいところであるが、彦太相手に気恥ずかしい感じがして、安吉はあえて辰兄のことを尋ねた。彦太は首を傾げる。
「なんや最近は忙しいみたいで、ここにもあんまり戻ってへんみたいやな。うちのお母ちゃんが賭場にでも入り浸ってんちゃうかて言うてたけど」
「賭場……」
暗がりの中で、安吉は彦太の顔を見つめる。安吉より二つ年下だけで、そろそろ奉公話が持ち上がる頃であろうが、彦太はその辺りの七歳より幼く感じられる。安吉は辛坊強く尋ねた。
「わては、ここを出て行く時に言うたな? 辰兄に気をつけろて。おみよを頼むて。幽霊屋敷での事件を忘れたわけやないやろ?」
叱られたと思ったのか、彦太の声に拗ねるような響きが混じった。
「そやかて、わいもいろいろ忙しいし。そや、おみよ言うたら、この間、辰兄と話しとったで。何や、辰兄が熱心に色々言うとったみたいやった」
「あほか、お前は、わてはそれを言うとんじゃ。何を話しとってん」
むっとしたように黙り込んだ彦太に、安吉は声を潜めて言葉を続ける。
「あんな、ついこの前、偶然辰兄に会うたんじゃ。そのとき辰兄は近々、大金が手に入る当てが出来たと言うてた。幽霊屋敷での人さらいの中に辰兄がおったんやないかとわては思てる。お前、どう思う?」
「そんなん分かれへん、言うてるやろ。あん時かて逃げることに必死で後ろを振り返ることなんかできんかったし。……でも、辰兄がおったとは思えんのや。たまに顔合わせることあるけど、そんな風な感じないし。ふらふらしてるけど、前と変わらん感じで話し掛けてくれてる」
「お前なんかあしらうのわけないさかいな」
「安ちゃんは、分かるんか? 辰兄が何考えとるんか。ちょっと奉公出たから言うて偉そうに言うのやめてんか」
とうとう彦太は本気で怒ったらしい。両手をぴんと伸ばして突っかかるように安吉に言った。
「辰兄をそんなに疑うんやったら、会うたときに聞いたらよかったやろ。自分ができへんこと、人に言わんといてんか」
吐き出すように言うと、彦太は安吉を押し退けるようにして走り去った。
安吉は呆然と、その小さな背中を見送ることしか出来なかった。
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*4*
四半刻前、安吉は井戸で顔を洗っていた。そのときに、声を掛けられたのである。
「おはよう」
慌てて振り返った安吉は、小さく息を呑んだ。そこに立っていたのはおみよであった。
しばらく見ないうちに、おみよはすっかり大人びていた。すっきりと結い上げられた髪は黒々と光り、肌の白さを際立てていた。黒目がちの瞳は憂いを帯び、小さな唇はわずかに微笑んでいる。
手ぬぐいで顔を拭った安吉は、眩しげに目を細めた。
「お、おはよう」
「夕べはおばさん大変だったね。今朝はどう?」
おみよの問いに、安吉は小さく頷きながら礼を言った。
「ず、ずいぶん良くなったみたいだ。おれが戻るまで、お袋の面倒を見てくれていたんだってな。ありがとう」
おみよはふわりと微笑んだ。
「たいしたことあらへん。最後まで見てあげられへんで気になっててんけど、良くなったんならよかった」
「おみよのおばさんこそ、まだ調子悪いんか?」
おみよの笑みに苦味が加わった。
「寝たり起きたりやね、無理するとあかんみたい」
「そうか……大変やな」
安吉の言葉におみよは曖昧な笑みを浮かべていたが、
「それじゃ、うち、行くところあるから」
と、懐に抱えた風呂敷包みを持ち直して、木戸へと向かった。
「あ、ああ、気をつけてな」
つられるように言葉をかけた安吉であったが、おみよの姿が木戸の向こうに消えた途端に聞くべき言葉を思い出した。
辰兄のことである。最近不審なことはないか聞こうと思っていたのに、久しぶりにおみよの姿を見た途端に、すっかり抜け落ちてしまったようである。
急いで後を追った安吉は、橋の袂にいるおみよを見つけた。声をかけようとして、息を呑む。
隣に立っていたのは、辰兄であった。
辰兄が何かを話しかけるとおみよは小さくうなずき、一緒に歩き出す。安吉は混乱した。二人は連れ立ってどこへ行くのだろう。
動揺が収まらないままに、安吉は二人の後を追っていたのであった。
大坂の朝は早い。明六つの町には、空のたらいを肩に担いで小走りに行く棒手振りに、駕籠かき、同行二人と書かれた笠を持つ巡礼者たちなど、様々な者が往来を行き交っていた。
その中を、いかにも破落戸といった風の辰兄と、風呂敷包みを胸に抱えたおみよが歩いて行く。辰兄は時折、背の高い体を折り曲げるようにしておみよに話しかけているが、おみよは小さく頷いているだけのようであった。
どこまで行くのかと不安を押し殺しながら、安吉は二人に見つからぬように後を追っていく。
御堂筋を越えて二人の向かう先が例の幽霊屋敷であることに気づき、安吉は足を止めた。こんな所に何の用があるのであろう。
辰兄とおみよは朽ちかけた幽霊屋敷の門をくぐり、中へ入った。慌てて安吉も後に続く。
荒れた庭へ入り、草木に体を隠しながら奥へと進んだ安吉は目を見開いた。
辰兄とおみよの前に、数人の男たちがいた。どれも人相の悪い顔つきをしている。正面の懐手をした男が、にやにやとおみよを見つめながら何かを言っている。安吉は声が届く位置まで、体を隠しながら近寄った。
「言うた通りのなかなかの別品や。これやったら文句はないわ。お母ちゃんのために、親孝行するとはえらい子や」
懐手をした男に辰兄は尋ねる。
「他の娘はどこにおりますのんや?」
「河岸の小屋や。今回は他に二人集まった」
辰兄を見ながら下卑た笑いを浮かべる男たちに、安吉はすべてを悟った。人さらいの一味と思っていた辰兄は、女衒に成り果てているのだ。
かっと頭に血の昇った安吉は茂みから飛び出した。
「おまえら、おみよをどこへ連れて行く気や」
そう言っておみよの手を取ろうと腕を伸ばした。
「おみよ、こんな奴らについて行ったらあかん。どこに売り飛ばされるか分からんぞ」
凍りついたように立ちすくむおみよの腕を取る前に、安吉は傍にいた男に勢いよく頬を張り飛ばされた。
「何じゃこの餓鬼。どっから来たんじゃ」
懐手をした男が、表情を変えずに言った。
「顔を見られたからには帰すわけにはいかんやろ。始末せえ」
安吉の頬を張り飛ばした男は頷き、安吉の襟を掴んで立ち上がらせる。懐に入れた男の手に匕首が握られていることを知った安吉は、恐怖に息を止めた。と、そのとき
「待ってくれはりまっか。この子はおれの知り合いや。やめたってくれ」
と、辰兄が安吉を庇うように間に入った。
「辰政、なにさらす。そいつをよこせ」
辰兄は振り返らぬまま安吉を後ろへ突き飛ばした。
「早う、この場を離れろ」
「辰政、おまえ、わしらに逆らうつもりか」
辰兄の前に立つ男が匕首を振り上げたとき、何者かが男に横から飛びかかった。組み敷くように地面を転がり、手から匕首を取り上げる。そのとき、呼子笛の音が辺りに響き渡った。
「大坂町奉行である。神妙にいたせ」
塀を乗り越え、捕物姿をした同心たちがばらばらと集まってきた。なすすべもなく立ちすくむ、女衒の一味はたちまち取り押さえられた。
安吉は意味がわからず、呆然とその様子を見守るだけであった。
そんな安吉に、辰兄が手を差し伸べる。
「大丈夫か、安吉」
「……辰兄」
わけがわからぬまま、安吉はその手を掴んだ。辰兄の手は温かく、力強かった。
「辰兄……女衒の一味やなかったんか?」
安吉の問いに辰兄は吹き出した。
「おみよ、聞いたか? おれもえらい信用ないもんやな」
青ざめてはいたが、おみよの顔に笑みが浮かんでいた。
「辰兄は、下っ引きに取り立てられたんよ。賭場に入り浸って、情報を集めとったんや。女衒の一派を捉えるために、うちは囮役になったんよ」
安吉は、言葉もないままに辰兄の顔を見上げた。
「せかやて、大金が手に入るって言うとったやろ」
「ああ、それか」
辰兄はきまり悪げに髷を掻いた。
「大金……というか、この仕事がうまいこと言ったら褒美ははずむと言われたからな。ちょっと、格好つけて言うただけや。紛らわしいこと言うて、悪かったな」
微笑む辰兄を見て、安吉は安心した。安心した途端、涙が溢れ出してきた。
涙は後から後から溢れだし、安吉は声を上げて泣きじゃくった。安堵の涙であった。