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【二夜】
雨でも降り出しそうな、生ぬるい夜である。気の早い蚊が耳障りな音とともに飛んで、行灯に影を残す。轆轤がそれを白い指でつまんで、火に落とした。
ちゅ。と可愛らしい音を立てて蚊の影は消えた。それだけで、部屋はまた静けさを取り戻す。
「今宵も暇だね」
「今日は幽霊屋敷もお休みだからね、余計暇だ」
鬼子は、轆轤の煙管を横から浚って飲む。憎らしくその頭を小突いて取り返せば、鬼子はぷうと膨れ顔。
幼くも見える少年だが、意外に年を経ていることを轆轤は知っている。そもそも、鬼だの妖怪だのに年はあってないような物。この幽霊屋敷を率いる座長なぞ、とうに付喪神の分類だ。だのに、輝くばかりに美しい。
煙管からすう、と煙を吸い上げて轆轤は首を傾げる。
今宵も暇な幽霊屋敷。闇の中で膝を抱えるのは轆轤と鬼と、天井に染みついた血まみれ武士のみ。
「そういや、座長は?」
「あにぃ? あいつは女衒の輩と飲みに出てるさ。吉原で上手くやってくには、そういう輩とも付き合いをしなくちゃいけないらしいぜ」
女衒。と聞いて轆轤は眉を寄せた。つん、と鼻の奥にいやな香りが蘇る。皮膚がちりりと焼けた気もする。
「まあ」
「どうしたい、姐さん」
「あたしは、何が嫌いって女衒の野郎が一番嫌いさ。喰うのも嫌だ。おぞましい」
轆轤は震える指を押さえるように、煙管を火鉢に放り込んだ。灰が闇に舞う。舞う灰が轆轤の指を汚した。
「あいつらはね、女をかっさらって、大金に換えるんだ。見目のいいのを浚って、金に換えて……ええ、おぞましい。あいつらは女を、金としか見ちゃいない。まだ、吉原で女を買う男の方がいくらかましだ」
「姐さん、ひどく辛辣だが過去になにかあったか」
鬼子が、目を光らせた。歯がかちかちと鳴る。妖怪は基本的に、いつでも暇だ。このように幽霊屋敷に閉じこもり、たまに人を食うくらいしか余生を過ごさない妖怪達は特に、何をやることもない。
野次馬、好奇心に下衆の勘ぐり。鬼子が興味津々膝をすすめてきたので、轆轤は首を長く伸ばしてあさってを向いて見せた。
「……さてね」
「そういや、おいら姐さんの過去を聞いたことがない。不思議な縁で結ばれたとはいえ、今じゃこの小さな部屋ん中で、同じ人間を喰う仲じゃねえか。どうだい姐さん。余興に過去話なぞ」
「女が長く生きてりゃあ、色んなことがあるさ。ほじくり返すような男は嫌われるよ」
轆轤の記憶にある過去は、遙か遠くも遠く。もう、薄れて断片しか浮かばない。しかしその記憶では彼女は人であった。確かに、生きた人であった。
まだ人であった轆轤に向かって、太った男が凶悪な手を伸ばした。笑顔のくせに、張り付くような笑みであった。
故郷の父母は金を握り締めてべろりと舌をだした。その赤い赤い舌は、まるで蛇のよう。呆然と佇む轆轤は闇に押し込まれた。
暴れて腕に当たり散った火鉢の灰を、噛み殺した悲鳴を、逃げようと駆け出した足を掴む太い手を、無理矢理に剥がされた着物を、力いっぱい締められた首の痛みを、殴られた痛みを、そして屈辱を。
轆轤は時折夢に見る。
「……妖怪の道より、人の道のほうがいくらも恐い」
そして同時に、思い出すのだ。冷たい骸の自らを、誰かが拾い上げたことを。「さぁいきましょう」拾い上げた男は伸びきった轆轤の首を撫でて、そういった。
「あなたは轆轤首になりましょうか」
覗き込んだ顔は恐ろしく、美しい笑顔であった。
「ただいま皆さん」
座長が部屋に戻ってきたのは、それから一刻ほどあとのことである。
彼は着物をわざと着崩して、髪も緩く解いている。それが今の流行りであることを、轆轤は知っている。白い首筋を襟元から覗かせて、彼はいかにも女好きするような顔で微笑んで手を振る。
「いやですね。皆さん、こんな蒸し暑い部屋でじめじめと」
「あにぃが仕事を休んだせいでな。こちとら暇で死んでしまいそうだ。この際、普通の客でもいいから引き入れておくれよ。脅かして、きゃぁと言われるだけでも、ちょっとは気持ちがすっきりする」
「それもいいですが……ちょっと外に出ませんか。丁度、川沿いに旨い鰻を出す店がある。酒も上方の、樽で運んだいいのを揃えているらしい
座長はにこにこと楽しげに、轆轤と鬼子の間に座る。鬼子の腹がぐうとなり、彼は今にもよだれをたらさんばかりの顔で座長に詰め寄った。
脂の乗った鰻の味を思い出したのだろう。
「なんだい、あにぃよ。ひどくいい景気じゃないか」
「いやね、たまには人のように楽しみたいなぁ、なんておもいまして」
「金もないくせに」
「ありますよ」
何事も無いように、彼は懐から紙入れを取り出す。それは、ずしりと重い。床に落とせば、闇に黄金が光る。
……庶民ならば、一年は軽く遊んで暮らせる大金である。
「どうしたの、こんな大金」
「あにぃ。とうとう、お金作れるようになったの?」
「聞くも野暮です。まあ……良い事をすれば、お金はころり、とね」
座長はにこりと笑った。
「ああ、畜生。俺にも胃があれば付いて行く物を」
「天井が生意気を言うもんじゃねえや。無い指でもしゃぶってない」
座長は何事もなく言うが、轆轤は目を細めて彼を見る。鬼子はすっかり楽しげに、天井の武士と言い合いなどをしている。
轆轤は音もなく立ち上がり、座長の袖をひいた。
「ちょっといいかい、座長」
しなだれるように、彼の胸元にそっと頬を寄せる。男にしては薄い胸だ。触れても、ぞっとするほどに冷たい。耳を押し当てても、鼓動は無い。
それは轆轤も同じ事。
「……アア」
鼻を寄せると、着物の奥底から旨そうな香りが漂う。
「血の香りだねぇ」
それは、流れたばかりの血の香り。
「すでに、座長一人で楽しく食事をされてきたようだねぇ」
「……轆轤はいかにも、鼻が良い」
座長の笑みは崩れない。この顔で彼は人を食うのだ。何人喰ってきたのかと鼻を動かせば、轆轤の胸にすとんと落ちるものがあった。
今宵、座長の飲み相手は、誰だったか。
「太った男の香りだ。金の亡者の香りだ。一人二人じゃないねえ。女の涙の染みこんだ、醜い男の身体の香りだ。あぁ、そうか。ひどく食あたりのするものを、座長は一人でいただいたらしい」
「ええ、おかげで胸焼けが」
胸をさすって、彼は手の平で小判を弄んだ。
「鰻は毒素を流すといいますから、さぞや効力があるでしょう。そしてこの金は……そうですね、浄財です。悪貨は浄財として生まれ変わるのです」
「かつて、あたしを轆轤にしたようにかい。座長」
轆轤は彼の返事を待たずに、座長の腕に手を差し入れた。そして寄り添い、彼の肩に頭を寄せる。
「あたしは気分がいいから今宵は腕を組んであげようね。どうだい、冥利に尽きるだろう」
「はは。どうぞ鰻のように絡みつかないでくださいよ、姐さんの締め付けは少々手痛い」
「姐さん、座長。さぁいくよ。腹が減ってしかたねえや」
鬼子の元気の良い声が響く中、行灯に散ったはずの蚊が不意に目の前を飛んでいく。
それは、不気味な赤い目を持つ蚊となった。
(この部屋の中じゃぁ、仕方の無い話)
何が起きても不思議では無い。それが吉原の片隅、幽霊屋敷のしきたりだ。そっと座長に寄り添い久々外に出てみれば、そこは花の行灯輝く夜の町。楽しげにさんざめく蝶たちの何人が、隠れて涙を流しているのだろう。と轆轤は思った。
「おや、雨ですねぇ。しかしたまには濡れて歩くも楽しいものです」
頬を濡らした雨が大地に染みを作る。
それを踏みしめ歩き、やがて彼ら小さな百鬼夜行の影は闇夜に紛れてかき消えた。
残ったのは、本日休業の立て看板が揺れる小さな小屋のみである。