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サウス・アイランド
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南の島でした。
満月が海面を銀色に浮かび上がらせ、そのまま歩いて行けそうでした。
一羽の白いウサギが砂浜に佇んでいました。
ウサギはこの島のお金持ちの家に飼われていたのです。島の動物たちには一生、食べられないような柔らかな野菜や果物をふんだんに与えられていました。毎日、お風呂に入れてもらい、おかげで白い毛並はつやつやふわふわで、召使たちはドライヤーをかけ終えると、人目を盗んではこっそりと顔を埋めるのでした。
ウサギはいつも遠くを見つめていました。ごちそうを食べて毎日を過ごしても、ウサギはちっとも幸せではありませんでした。ある夜、みんなが寝静まってから、ウサギはこっそりとお屋敷を脱け出しました。ふかふかした絨毯の敷き詰められたお屋敷に比べて、地面の土はざらざらしていて、ウサギの柔らかな足の裏はすぐに痛み始めました。それでも、一歩ごとに胸の中は膨らんでいく気がしました。物陰から燐の目に見つめられても、聞いたこともない乱暴な声で吠えかかられても、かまわず跳ね続けました。
足の裏に血が滲むころ、突然、ウサギの肢は地面にもぐりこみました。お屋敷の窓からかすかに聞こえていた音が、お腹の底に響く大きさになっています。そこは砂浜でした。誰もいないのに、きらきらしたシルクが何度も波打っては押し寄せてきます。こんなに飛び跳ねたのは生まれて初めてで、ウサギの身体は沈み込みそうでした。それでも、自分でもよくわからない気持ちがこみ上げてきて、きらきらするシルクを一心に見つめるのでした。2 / 7
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南の島でした。
星々が夜空を覆い、あまりの多さにときどきこぼれ落ちていました。
棕櫚の木陰に一匹のキツネがうずくまっていました。
キツネは遠い北の国で捕えられたのです。すぐに毛皮にされるはずでしたが、たまたまこの南の島に移住する予定の人の目にとまりました。キツネの黄金色の毛並はほんとうに見事でした。これだけみごとな毛並みなら、さぞ高く売れるに違いない。その人はそう思って、キツネを連れてこの島へとやって来ました。でも、当てが外れたのです。この島は一年中暖かく、北の国でなら重宝されたキツネの毛皮も、ここでは暑苦しいだけでした。キツネを連れてきた人はがっかりし、それまでの丁重な扱いから一転して、餌も与えなくなりました。キツネは瘦せ細り、悲しげな声で鳴きました。それでも、誰も振り向いてくれません。
ある夜、キツネは気づきました。閉じ込められた檻の格子を通り抜けられるようになっていたのです。身体には力が入りませんでしたが、キツネは懸命に格子をくぐり抜けました。最初のうちは厳重に施錠されていた部屋の戸にはもう鍵がかかっていませんでした。キツネは爪を立てて引き戸を開け、そのまま蒸し暑い夜の中へと駆け出しました。見慣れた森も草原もありません。何も食べていないキツネはそれでも懸命に走りました。身体はふらついて目が回ってきました。とうとう倒れてしまう、というところで、聞いたこともない音とともに銀色の丸いものが目をよぎりました。月だ、と思った瞬間、キツネの意識は遠のいてゆきました。
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南の島でした。
夜の海は穏やかで、無数のプランクトンたちが数えきれない生命を燃やしていました。
波間に、エチゼンクラゲが漂っていました。
無数に生まれたきょうだいたちはみな、アジやカワハギに食べられてしまいました。ふうわりふうわりと漂っているうちに、いつの間にかひとりぼっちになっていました。海にいる他の魚たちは、漁師たちが争って捕まえようとします。でも、エチゼンクラゲを捕まえようとする者はいません。エチゼンクラゲには毒がある上、人間たちにとってはおいしくないのです。そして、大きさは二メートル近く、重さは百キログラムを超えていました。うっかり網にかかると破れてしまうので、かかりそうになると漁師たちは棒で突き離そうとします。エチゼンクラゲの身体にはあちこちに傷ができました。それでも、ここまで大きくなれば他の魚たちにも襲われません。月夜の海にぽっかりと浮いて、プランクトンを呑みこんではちいさなアブクを吐き出します。静かな夜でした。エチゼンクラゲの丸い身体は真上から見ると満月そっくりでしたが、それを知っているのは今のところ、夜空に浮かぶ満月だけでした。
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南の島でした。
陽が落ちてからも熱気はあたり一面に残り、濃い夜気の中、無数の虫たちが光を求めて飛び交っていました。
岬の突端に、郵便配達人がうずくまっていました。
郵便配達人は、北の島で生まれました。大人になって、迷わず郵便配達の仕事を選びました。たくさんのひとに喜んでほしかったのです。郵便配達人は人当たりもよく、友だちもたくさんいました。恋人だっていました。それでも、もっと多くのひとたちに幸せになってほしいと思いました。郵便配達人はひとりぼっちだったのです。友だちに囲まれ、恋人に愛撫されても、さびしくて仕方がありませんでした。
郵便配達人になって、数えきれないほどの手紙を届けました。でも、郵便配達人の届ける相手は、いつも冷たい郵便受けでした。手紙を差し入れると、面倒くさそうに口を開けて飲み込んで、あとは黙ってしまいます。何年も何年も、そうやって手紙を届け続けました。ある日、郵便局長に呼ばれた郵便配達人は、南の島へ行くように言われました。「南の島には配達人がいなくて困っている。お前に行ってほしい」郵便配達人は二つ返事で引き受けました。そこなら手紙と一緒に幸せを届けられるに違いないと思ったのです。郵便配達人は南の島へと旅立ちました。郵便局に新たに採用された配達人はパートタイムで、配達が終わるとさっさと帰って行きました。主のいなくなった机は片付けられ、代わりに最新のプリンタが置かれました。局員たちはみんな大喜びでした。郵便配達人がいたころには決して見せなかった笑顔でした。
南の島に着いて、郵便配達人の膨らんだ希望はすぐに萎んでしまいました。確かに島には配達人はいませんでした。誰も手紙を書かなかったからです。用事があれば自分で歩いて相手のところに行きました。誰もが、笑顔も、悲しみも、怒りも、直接に伝えます。手紙の介在する余地はありませんでした。男の子は勇気をふるって女の子に告白しましたし、嫌な相手には面と向かって抗議しました。もちろん、すぐにふられたり袋叩きに遭ったりします。郵便配達人はおろおろしながら見つめるだけでした。
もうひとつ、困ったことがありました。いままで配達人がいなかった南の島には、郵便局がありませんでした。局長には郵便局の場所を示されていました。行ってみると、そこは岬の先端の岩場でした。半信半疑で役場で確認すると、確かに登記されています。郵便配達人はとぼとぼと岬に戻りました。打ち寄せる波は岬の上まで届き、砂地に点々と跡をつけています。せめて看板は立てよう、と思いました。幸い、この島へ来るときの飛行機で出された機内食の割り箸を持っていました。箸袋にボールペンで「Post office」と書き、割り箸に結びつけると、岩から外れた砂地に立てました。これで郵便局はできました。夜になりました。郵便配達人は、割り箸のそばに仰向けになりました。はるかかなたの夜空には北の島とは少し違う星座が広がっています。でも、どこが違うのか、郵便配達人にはよくわかりませんでした。
次の日から、郵便配達人は島の中をくまなく歩き始めました。もう何年もしてきたことでした。北の島で毎日着ていた制服は、この島に降り立った瞬間から不向きだとわかりました。ガイコツのプリントされたTシャツにハーフパンツ、それにサンダル履きがいちばん適しているようでした。島の人に自分が誰だかわかるように、油性マッキーでガイコツの上に「Mail delivery」と書きました。あとは、ずっとかぶり続けている制帽を頭に載せれば、いくら歩いても平気です。
道を歩いていると、すれ違う島の人たちはみんな片手を上げて挨拶してくれました。郵便配達人も笑顔で頭を下げました。埃っぽい道を歩いていると、サンダルを履いた足はじゃりじゃりになります。ときどき、道からそれて海岸で足を洗いました。海の上にはいくつも船が出ていました。漁のためなのか、それとも観光客を乗せているのか。どっちにせよ、みんな忙しそうでした。郵便配達人はサンダルを振り回して海水を払い、再び歩き始めます。丸一日歩き回って、数えきれないほどのお辞儀をしました。今まで、これほどのお辞儀をした日はありませんでした。無数の笑顔をもらって、ほっこりした気持ちから醒めてくるにつれて、郵便配達人は気づいてしまいました。島の人たちには手紙は必要なかったのです。道を歩く郵便配達人は、島の人たちにとっては見慣れない格好をした観光客でした。鈍く痛む首筋をさすりながら岬の先端まで戻りました。オレンジ色の夕日に染められて、割り箸の看板が立っていました。半日ぶりに見るそれは、ちいさな生き物のお墓みたいでした。
郵便配達人は、手紙を必要としているひとを探すことにしました。島の中には大きなお屋敷がいくつかありました。そういうひとたちは必ず手紙のやり取りをしているはずだと思いました。長い塀を一周しているうちに、島では珍しい黒塗りのワゴン車が通り過ぎてゆきました。ワゴン車が門のところで止まると、門扉が開きます。そのまま、邸内へと消えてゆきました。郵便配達人が走って門のところにたどり着いてみると、お屋敷に横付けされたワゴン車から、箱にぎっしりと詰められた封筒が降ろされていました。別のお屋敷では、塀の向こうにヘリコプターが着陸していました。強い風で吹き上げられた土埃を避けて、郵便配達人は引き上げるしかありませんでした。
道を歩きながら、郵便配達人は思いました。この島には手紙を必要とするひとはいそうにありません。しいて言うなら、手紙を求めているのは郵便配達人ただひとりでした。長い間、手紙を配達することだけを考えて生きてきました。たとえ相手が冷たい郵便受けでも、その向こうにいる「手紙を求める心」は感じられました。ところが今では、それがなくなったのです。割り箸の看板を立てていても、ここには郵便局もなければ配達する手紙もありません。海水で洗ってごわごわになったTシャツのおかげで、首の周りは赤くなってしまいました。日焼けした前腕には水ぶくれができています。海に沿った道は茂みに夕日が遮られて、足元に闇が滑り込んでいます。喉の渇きを覚えて、すこし足を速めようとしたそのときです。ほんとうに久しぶりに、郵便配達人の心が締め付けられました。思わず立ち止まると、闇の中に目を凝らしました。もちろん、何も見えません。でも、郵便配達人にとっては、それで十分でした。
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郵便配達人が、ウサギのもとへやって来ました。制服を着込んだ瘦せぎすの身体を折り曲げて手紙を渡す配達人を、ウサギは初めのうちは警戒していました。お屋敷を出てから時が経ち、あのふわふわだった毛並はすっかり汚れていました。手紙をもらうのは初めてでした。差出人は「キツネ」とあります。
手紙を読んだウサギはあまりのことにわなわなと震えました。そこに書かれていたのはウサギへの悪口でした。ひとりぼっちで、みっともない姿で、何もできずにただ茂みの中でお腹を空かせているだけのウサギを馬鹿にする内容で、ウサギは手紙を破り捨てたくなりました。こんなに腹を立てたのは生まれて初めてでした。なんで見ず知らずの相手からここまで言われなければならないのか。自分は哺乳動物なのになぜ一羽・二羽と数えられるのか、なんてどうでもよくなりました。椰子の根元の隠れ家から這い出たウサギは、赤い目をきょろきょろさせて、憎らしいキツネを探し始めました。
郵便配達人は、キツネのもとへやって来ました。砂を踏む音に身構えていると、制服を着た配達人はゆっくりとしゃがんで、手紙を砂浜に置いて、去って行きます。キツネはほんの少し体力を取り戻していました。ふんふんと鼻を鳴らし、危険がないことを確かめると、差出人欄に「ウサギ」とある封筒を取り上げました。
手紙を読んだキツネは思わず声を出しそうになりました。それは熱烈なラブレターでした。キツネの顔立ちがどれだけ愛くるしいか、キツネの姿を見ただけで夜も眠れないほど恋焦がれてしまう、と書かれていました。キツネは棕櫚の根方の棲み処から飛び出して、ひとしきり走り回ったあと、むさぼるように続きを読みました。そこにはこう書かれていました。「なーんて誰も思わないわ。ぶっさいくなホームレスギツネ、さっさと氏んでちょうだい」キツネの血液は瞬時に沸騰しました。自分が肉食だということをこれほど意識したことはありませんでした。キツネはネコ目イヌ科の動物で、自分はネコなのかイヌなのかでひそかに悩んでいましたが、もうどうでもよくなりました。棲み処をあとにすると、耳をぴんと立てて、許せないウサギを探し始めました。
郵便配達人は、砂浜のはずれにある岩の上に座っていました。制服の前をはだけて、制帽をあみだに被っています。月がゆっくりと昇って行きます。配達人は折り曲げた膝の上に顎を載せてじっとしています。エチゼンクラゲは沖合から、その姿を眺めていました。真上まで昇った月が傾き、やがて東の空が明るくなるまで、ふたりはじっとしていました。
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ウサギとキツネは、浜辺で出会いました。初めは、お互いに見たことのない生き物だと思いました。それでも誰もいない夜の砂浜でやっとみつけた相手です。キツネからおずおずと話しかけ、ウサギがそれに応えます。なんだか仲良しになれそうでした。満天の星のもと、暖かい夜気の中に優しいハートマークが膨らんでいきました。お互いに名前を名乗るまでは。
壮絶な喧嘩が始まりました。最初に甘い気持ちを抱いたぶん、怒りも増幅されました。口をきわめて罵倒したあとは噛み合い、蹴り合い、引っ掻き合いました。ウサギにとっては生まれて初めての喧嘩でした。お屋敷の中でふかふかの座布団に座っていた姿からは想像もつかないほど下品な言葉を吐き散らかして暴れました。なんだか四つの肢の先まで力が漲っていくようでした。キツネも、きょうだいたちとじゃれ合っていた子ギツネのころを思い出していました。もうちょっとで母ギツネから狩りの仕方を教えてもらえる、というところで人間に捕まってしまったのです。同じ大きさのきょうだいたちにはこんなふうにしていたな、と思い出すうちに、何だか涙が出てきました。月を見上げて、ひと声鳴きました。遠い昔、母ギツネがそうやっていたのを思い出したのです。人間に捕まってからは、声を出すとぶたれるので、いつのまにか忘れていました。砂にまみれながら、長い尻尾は鋭く風を切り始めました。
砂浜には、二つの影が仰向けに倒れていました。
「最低のクソ野郎」
ウサギが掠れた声で言います。
「へちゃむくれのカス」
キツネ荒い息を吐きながら言い返します。
「アンタみたいなやつ、ぜったいに許さないからね」
「そっちこそ、毎日喧嘩してやる」
真上を向いていたので、お互いの顔は分かりません。でも、高く上った月から見下ろせば、ふたりとも笑顔になっていたのが分かるはずでした。
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浜辺に打ち寄せる波の音は、胸の奥からやって来るようでした。岸を離れるにつれて波は少しずつ高くなって、夜空にかかる月は落ち着きなく揺れ動いています。
郵便配達人は、制服と制帽を身に着けて波の上にいました。南の島は、夜になると疎らに明かりがともります。ガラスのかけらが瞬いて見える島は、暗がりの中で幸せに踊っているようでした。
まくり上げたズボンからはすっかり日に焼けた脛がのぞいています。海の中に浸けて、そっと動かします。勘違いした魚がつつきに来るかもしれない、そんなことを思いました。
お尻の下には、エチゼンクラゲがいました。相変わらず何も言わないままで、プランクトンを食べ続けています。傘の直径が二メートル近いエチゼンクラゲにとっては、郵便配達人をひとり乗せようが乗せまいが、何も違いません。それでも、海中に潜ることはせずに、傘の部分を海面に差し出したまま漂っています。
郵便配達人は岩の上で、最後に残った「手紙を求める心」を聞いたのです。それは、今まで聞いたこともない声でした。レターパッドを取り出そうとして、思い直して仕舞いました。岸近くに漂ってきたそれに、郵便配達人は静かによじ登りました。足先は海水に浸かりますが、身体は濡れずに済みそうです。つい、と岩場から離れました。振り向いた岬には、あのちいさな割り箸の看板が見えました。砂の中に石を詰めて、風が吹いても倒れないようにしてあります。箸袋に何が書いてあるのか、あっという間に滲んで見えなくなりました。
ゆらゆらと海面を漂いながら、どうしてここに乗ってしまったのだろう、と思いました。考えてみてもよくわかりません。ただ、眠りにつく前のぼんやりした落ち着きに包まれていました。いままで配達してきた無数の手紙のことを思いました。肩掛け鞄に大事にしまって、てくてく歩いて郵便受けに入れてゆく。それはとても幸せそうに見えました。
ふと、郵便配達人は自分が手紙になったような気がしました。ゆらゆらと揺られながら、海流の求める先へ届けられる、という。何年もの間、配達してきましたが、自分が配達されるのは初めてでした。眠気が甘い蜜となって溢れてきます。このまま眠ってしまえば、次に目覚めたときには手紙になっているかもしれません。郵便配達人は、制服のボタンを襟元まできちんと留めました。お届け先に届けられるまで、海水に濡れないように。背筋を伸ばして、揺れ動く星の残像を追います。遠い夜空でも、ひっきりなしに手紙が飛び交っているようでした。
海面の下でプランクトンを食べ続けていたエチゼンクラゲが、ちいさなアブクを吐き出しました。
(了)