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人狼少年
羊を守る子供ありて。或る日戯れに。同村のものを驚かさんと思ひ。狼来れり狼来れり。
――小学修身談 『羊の番する子供の事』より。
その少年には不思議な力が有りました。
鳥や獣、風の音や空の色から、少し先に起きる事を見通す力があったのです。
尤も、歳を経ていればそれは大して珍しい力ではありません。ミツバチを追っていけば甘い蜜を持つ花の在処は分かるでしょうし、沢山の、本当に沢山の空や雲や夕焼けを永い永い間見続け、雨や雷鳴や強い風や雪の日を憶え続けていけば天気の見通しだってつくようになるものです。
問題は少年の老婆と性格に有り、そういった力を只管に厳しく教え込んだ婆と、黙っては居られない彼の性状が村に困った事態を引き起こしていた事でした。
「狼だ! アイツはきっと狼だぞ!?」
今やもう、半ば狂ってしまった少年は村人を見ると、目を血走らせて憎しみに充ちた目で叫ぶのです。最初は笑っていた村人たちも、彼を見るとそそくさと逃げるように、或いは忌まわしいものでも見たように顔を背けると物陰に隠れるのが常になり始めていました。
事の起こりは少年が詩人と出会った事でした。
詩人はこの地方にしかない野の花や食べる事のできる苦味のある草が好きで、森で小さな獣を仕留めては村に一軒しかない酒場に持ち寄り、苦草を添えては皆と食み、詩を歌いました。
紅い花 蒼い花 朝日を浴びて
小さく跳ねる水面の魚 梢を渡る噂好きの鳥
彼方から此方へ 其処から此処へ――
詩人は言います。自分は見たままを歌うのが好きで、詩から何を感じるかは聞いた者の心でしかないと。
少年は本当は知っていました。草花が香るのには理由がありますし、鳥が歌うのも魚が跳ねるのにも、それどころか小さな虫達が騒ぐのにすら理由があるのです。
村には海がありません。
小さな川が二本、それは村一番の大きな畑の先で寄り添い、季節によって形を変える洲を取り巻きながら歩いては渡れない幅となって水車小屋の脇を抜け、遠く離れた山間の谷へと消えているだけです。
鳥達はその先を知っていました。
詩人も昔は海辺に居を構えていた事があるとも言います。
ですが村人達は海を知りません。
水面の花弁 梢を舞う葉
萌葱の嵐は雨に泣き 日差しに焼けた甚三紅――
戯れに酒場の娘が椀に挿した小さな花が、詩人の歌を承けながら静かに夜を越していきます。2 / 5
「あの子は本当に村の事ならなんでも知っているわ。この花もいつ咲くのか分かるもの」
その晩、萎れてしまった花を見詰める詩人に娘が言い、少年は次の晩に羊たちを小屋に追い込んでから酒場に呼ばれました。
「君は花がいつ咲くか知っているんだって?」
詩人が尋ね、歌を聞きに来ていた一人の農夫が朗らかに笑います。
「そんなことくらいなら、俺達でも誰だって分かるさね」
「どこに咲くかも?」
「それはその年によるさ」
「では彼は何が分かるんだい?」
少年は答えて言いました。
天気の事、草花が天気に従う事、獣達は草花に従う事…、それに大きな獣や村人達はそういった全てに従う事。
「僕が分かると言えば、村の人は分かったと思うだけです。刈り入れが近付けば晴れた日を選びますし、魚が食べたければ獲れる日を選ぶでしょう」
「間違う事は?」
「どうして僕が嘘を言うんです? 貴方はこれから詩を歌うでしょう。けれども僕が歌うと言ったから貴方が歌うのをやめれば、僕には何も分からないことになります」
詩人は少し考え込み、小さく笑ってから答えます。
「君は詩人の素質があるよ。哲学にもね」
長く旅を続けてきた詩人の髪は埃に傷つき、日に焼けて耳元で絡まり、襟首でほつれて酒場の明かりを吸い取っています。食卓の上の小さな楽器はその髪を僅かに太くした弦を何本か持っていましたが、異国の楽器であるので名前は誰も知りません。
詩人の指がゆっくりと楽器を撫で、いつの間にか消えてしまった笑顔と共に髪が僅かに流れ、羊飼いの少年は所在なく彼の前に並んだ料理をさ迷います。
その晩、詩人はそれ以上の話はしませんでした。
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詩人が村に来て月が最初に欠けきった頃、少年は自分の立場が徐々に変化している事に気付きました。月のない夜に不吉な知らせを告げる鳥が羊小屋の屋根で鳴き、少年は問いかけますが返事はありません。
それから月は満ち始め、詩人がやってきた夜の月に近付いた頃には手遅れでした。
「考えてみりゃあ、アイツに聞けばいいことだ」
「そうとも、あの子にはなんだって分かっているんじゃないか」
そんな事を言う村人は今までには一人だって居はしませんでした。何かが分かったからといってその為にどうするかは村人が決める事で、それは長であれ警吏であれ同じ事です。分かっている事をするのと分かっていないから何もしないのと、分かっているからやらないのはまるで違うのです。
そしてそれは、分かっているかどうかとは関係のない事でした。少なくともそれは村人達にとって当たり前の事で、詩人が来るまでは“分かっている事”だったのです。
「僕が何かを言うのと、みんなが働くことにどうして関係があるんだろう?」
少年は羊に問いかけますが、羊は返事をしません。
羊に食い千切られた牧草が痛そうに悲鳴を上げ、毟られた草地から小さな羽虫が飛び立っていきます。
その時、少年の背後で人の気配がしました。
それは酒場の裏手で交易の荷馬夫をしている男の嫁で、馬の手入れと馬具の直しで生計を立てている女でした。
「ねえ、そうは思いませんか?」
羊飼いが振り返って女に言うと、相手は取り繕った笑みで頭を下げました。
彼女が言うには少年は村の導き手であり、救い手になるべきなのでした。今までの村人は間違っており、勝手勝手に無意味な苦労をしていたと言うのです。
牧場のなだらかで小さな丘を下り、傾きに密生した小指ほどの小さな白い花を踏み躙りながら女は近付いてきて続けます。
「関係がないなんてそんな。ねぇ? 冷たい言い方をするものじゃないわ」
そういう意味じゃないんです――、
そう、口を開きかけて羊飼いは黙り込みます。
ゆっくり、ゆっくりと荷馬夫の嫁は少年に迫りました。そうして両肩に手を掛け、村の未来と彼の言葉がいかに大切であるかを教え諭したのです。
この時彼に分かったのは、話をしても無駄だという事だけでした。
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詩人がやってきて、二度目の満月が過ぎました。
「おい、アイツは今何をしてる?」
羊小屋の中の藁を均していると、少年の耳に小屋の外から声が届きます。
「卑怯者め。あの野郎、最近じゃとんと口を開かんくなっちまいやがって」
藁の脇に寄せられた穢から慣れた香りが立ち、彼は何時になくのその匂いに咽るようになりながら体を固くしました。近頃ではどこに行けども少年の体に視線がまとわりつき、誰かが耳をそばだてています。
詩人はいつの間にか他の村に移って行きましたが、酒場では羊飼いを称える詩が口伝てで広まり、時折歌われている事も彼は知っています。以前は誰も気にしなかった事が予言になり、川の水嵩が増したと言っては少年の家に贈り物が届けられ、牛が孕んだと言っては助言が請われます。
その程度ならば良かったのかもしれません。しかし彼の言葉が誰かの助けになればなる程、酒場では詩が歌われ次の言葉への期待が大きくなるのです。
「次の取引じゃ隣村より肥えた鳥を用意せにゃウチの名折れなんだ。何考えてやがる」
呆れた事に村の長までもが来年の収穫を教えてくれと押しかけ、一度は婆に追い返されていました。警吏は盗みをしそうなは誰かと詰問し、少年が黙ると村の平和に協力をしないのかと脅す有り様です。
少年の心にはすっかり疑いと悪意が植え付けられ、やせ細った羊と毛皮のように彼の話だけが膨らんでいくのを恨めしく思うだけでした。
詩人が去ってから最初の月のない夜、つまり詩人がきて二度目の新月の晩が過ぎる頃、少年は泣きながら婆に相談をしました。けれども婆は黙って糸を紡いでいるだけです。
三度目の満月が来て羊小屋に石が投げつけられ、三度目の新月が来ます。
誰かが小屋に火をかけ、酒場の詩は羊飼いを呪うものに変わっていました。
少年が叫ぶようになったのはこの頃からです。
「狼だ! この中に狼人間がいるぞ!!」
もちろん、最初は狂ってしまったのかと笑い出す村人が大半でした。
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けれども狼だと言われた村人は良い気分ではありません。
「あの野郎、すっかり狂っちまいやがって」
最初に狼だと言われたのは酒場の娘を目当てに通い詰めていた綿畑の息子でした。迷信深い女の何人かが怖がったりからかったりするようになり、男は酒場に現れなくなりました。そうなると面白くないのは酒場の主人で、主人は羊飼いを呼び出すと皆の前で怒鳴りつけます。
一体何を考えているのかと酒瓶を振り上げた時でした。
「オマエも狼だ!!!」
気をつけろ、襲われるぞ、きっと夜になると変身するに違いない。羊飼いの少年は獣のような顔つきで叫び、大声で喚きながら焼け跡の残る羊小屋に駆け出します。
狼だ、狼だ! 狼だ!! 狼だ!!!
少年は口から泡を吹きながら、誰かが寄ってくる度に大声を出すようになりました。
狼来れり狼来れり。
或る日戯れに、羊を守る子供ありて。
詩人が何を考えていたのか、そして何処へ向ったのかは謎のままです。