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2 君と邂逅した日
「それじゃあ、みやさん。行ってくるよ」
小綺麗に身なりを整えた男が、俺の頭にぽんと手を置く。悪き気はしない。が、俺は孤高の老年鴉だ。ペット扱いは辞めてもらいたいものだ。俺は最大限の抵抗として、男の手のひらに頭を擦りつけて、小さくひと声鳴く。
それを見送りの挨拶と思ったのか、男はうん、と頷きをひとつ。部屋から出て行く。元々、あまり口数の多くない男だ。しかし、電化製品のブーンという音が小さく聞こえるだけの部屋では、鴉一匹には少々、静けさが堪える。
人間と暮らし始めて、かれこれ十五年になる。鴉の寿命はおおよそ二○年だから、鴉人生のほとんどを人間と過ごしているわけだが、それだけ長く、人間の文明というものに触れて生きていれば、それなりに作法とやらを学ぶものだ。
ここのところ、やたらと重たく感じる身体に鞭打って、『彼女』にひと鳴き。窓に近づくと、くちばしで何度もつつき、自分の身体が通れるぶんだけの隙間を作って、身を滑り込ませる。季節は春。刺すような朝の寒さに、俺はぶるっと全身を震わせて、同じ要領で窓を閉める。
『彼女』も不用心だったが、この男も不用心だ。一度、『彼女』の元を去った日のことを思い出して、ベランダの柵から身を身を乗り出し、レースのカーテンでぼんやりとしか見えない部屋のなかに向かって、大きめに鳴いてみせる。
必ず、帰ってくるからな。死ぬときは、君と一緒だ。
俺は、もう一度だけ、部屋のなかを覗き込んでから、大空に翼を広げるのだった。
空はいい。鴉に刃向かうような天敵もいなければ、衣食住が完璧に満たされた状態だ。血眼になって獲物を探し回る必要もない。加えて、同族に襲われることもなかった。『鴉人間』と忌避されている俺だ。遠巻きに、見つめられたからといって特に気に病むこともない。
俺は、いつものように悠然と空を飛び、本当に自由な時間を満喫する。あの頃の友人や親兄弟はすでにこの世を去っている。運が良ければ、たしかに二○年。しかし、そう簡単でもないのが、この世の理なのだ。
鴉にとっての益獣は人間。同時に人間は鴉の最大の天敵でもある。空を飛べば、電線にひっかかり、不運な鴉は感電死だ。路上で餌を漁れば、ホウキや棒で追い払おうとしてくるし、果てにはエアーガンとやらで狙い撃ちされる始末だ。特に、子どもは遠慮がないぶん、容赦がない。俺も羽根を何枚も毟られて、なんとも醜い翼になってしまった。
『だいじょうぶ? 痛くない? ここ』
不意に、『彼女』と出会った頃を思い出して、俺は思わず滑空の力を緩める。人間にはずいぶん警戒していた俺だったが、『彼女』の優しさにいつか、鴉というものを忘れてしまっているのだった。
人間のなかにも信用していい人間がいる。大発見だった。もちろん、友人たちは俺の言葉を信じようとはせず、逆に人間に飼い慣らされたペットだと嘲笑われたものだ。だが、最後には、心が折れた俺を叱咤激励してくれた。そうして再び、鴉として『彼女』のもとに舞い戻ることができたのだ。彼らに、どれだけ感謝しても尽きることはないだろう。
鴉にはあるまじき、センチメンタルを覚えて、地上を見下ろしたとき、一匹の子猫が目に入る。生まれて間もないのだろう。なんとも頼りない足取りで、歩を進めている。周囲を見渡してみても、母猫や兄弟猫が見当たらない。かわいそうに。はぐれてしまったのだろうか。それとも、人間に捨てられてしまったのか。
子猫の頭上を何羽もの同族が飛び回っていて、どうひいき目に見ても、長生きはできないだろう。元気なうちは狙わない。疲れ果て、空腹に倒れたときが狩りの時間だ。残酷なようだが、それがこの世の理だ。俺にはどうすることもできないし、否定する気もない。だが――
『彼女』の顔がちらつき、俺はため息交じりに、大きく吠える。途端に、子猫の頭上を飛んでいた鴉たちは、四方八方に飛び散っていく。この辺りの鴉たちは、俺のことをよく知っているし、年功序列なところもある。老齢の鴉に、獲物を譲ったつもりだろう。まったく、そのつもりはなかったのだが。
かく言う子猫は、頭上の顛末についてまったく気づいていないようで、相変わらず歩き続けている。どこか、目指す場所があるのだろうか。もしかすると、興味本位で外に飛び出してみて、今、その帰路にいるだけなのかもしれない。
子猫をつけ狙う動物は鴉だけではない。せめて、この子猫がもとの居場所に戻れることを祈るだけだ。
俺はさらに強めな声を空に放って、帰路につくことにした。