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9 君の魂八つまで
「ただいま。お、みやさん帰ってるな」
男が靴を脱ぎ捨て、すり足でこちらに向かってくる。そして、壁のスイッチを押して――
「うわっ!」
『お兄ぃ!』
部屋に明かりが灯ると同時に、メス猫が飛び出していた。男のちょうど太ももあたりに飛びつき、しがみつく。だが、俺が驚いたのは、その突発的な行為ではなかった。
俺は、メス猫をじっと観察する。いや、聞き違いだったのかもしれない。明らかに、猫の声ではない声。そう、あれはまさしく『彼女』の声だった。が、男の太ももにしがみついて、ミャアミャアと鳴いているのを聞くに、これまで俺とともに旅してきたメス猫だった。
「え? なんで、猫?」
男は、見ていて気持ちの良いほど狼狽した表情で、俺を見る。見るな。俺は、男の視線から逃れるべく、顔を逸らしたが、それですべてを理解されたらしい。いつも、そのぐらいの察しの良さがあればいいのだが。
「ちょっ、みやさん。猫連れてきたのか……。外でなにやってると思ったら、猫と……。というか、うち、ペット禁止なんだよ……どうすんだよ……」
男が困った顔で、メス猫の頭を撫でる。メス猫は、それに応えるかのように、喉から絞り出すようなか細い声で、男の太ももをよじ登ろうと、ガジガジとしている。
すでに、鴉を部屋に招き入れている男が言う台詞ではないが、とにかく、彼にとってこの状況は摩訶不思議といったところか。
男は、仕方ないといった顔で、太ももにぶら下がったメス猫を抱き上げて、じっと腕のなかに収まったメス猫を見つめる。
『お兄ぃ』
まただ。鴉史上初になる。幻聴を聞く鴉。どうやら、この連日の緊張感で心身にストレスがたまっているようだ。しばらくどころか、もう外に出る理由もなくなった。せいぜい、あのうめぇポテトチップスを食べながら、ソファでごろ寝をするとしよう。
と、そんなくだらないことを考えていたが、今度ばかりは聞き違いではなかったと、男の表情を見て、俺は思った。
一瞬、表情が固まったあと、目が大きく開かれ、そこから涙の滴が溢れかえり、ぽつりと頬を伝う。男にも聞こえたようだった。紛れもない『彼女』の声が。
彼女は、姿は違えども『彼女』なのだ。どういう原理かはわからぬ。だが、『彼女』は死んではいなかったのだ。なぜなら、今ここに彼女として生きているのだから。
そう思ったとき、これまでの疑問が一気に解決した気がして、俺は満足げに『彼女」のお気に入りとは反対の一角に身体を沈めて、目を閉じる。
男のしゃくりあげる声が聞こえてきて、そこにメス猫の声が重なる。『彼女』になったり、彼女になったり、忙しいやつだ。けれど、それも悪くはない。
俺は老齢の鴉。そろそろ寿命が近づいている。その最後に『彼女』ともう一度、出会うことができた。なんという奇跡だろう。それと同時に、寂しくも思った。俺がここを旅立つとき、もう『彼女』はこの空にいない。『彼女』がここを旅立ったとき、いつかそこに還ると約束した。でも、君はここにいる。ならば、俺が向かう先はひとりぼっちということ。
それならそれでいい。
眠りに落ちる間際、俺はこう考えた。
『彼女』は彼女としてここに還ってきた。それなら、俺も還ってくればいい。次は、鴉ではなく、もっと自由な姿で。三年はどうも、我慢しなければならないらしい。けれど、三年が過ぎれば俺もまた三人で――