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7 旅の終わりに
それから、俺は来る日も来る日も、子猫のもとにポテトチップスを届け続けた。メス猫の旅はいつ果てるとも知れず、俺たちはただただ歩き続けた。
あれ以来、メス猫も休むことを覚えたようだった。安全な寝床は、俺が探し回って見つけた。念には念を入れて、そのあたりで拾ってきた木の枝や木の葉を、小さな鼓動を続けるメス猫の身体にかけてやる。匂いは、どうにもならないかもしれないが、せめて姿だけは、外敵から守ってやる必要があったのだ。
そのおかげだろうか。三年前、『彼女』がこの世を旅立った日が過ぎてもなお、メス猫は歩き続けることができたのだった。俺と君が出会って、もう二週間になるだろうか。俺たちはずいぶん、いろいろな話をした。もっとも、それが対話になっているかは、未だ以て不明であるが。『忘れそう』
子猫は、なにかにせっつかれるかのように、俺の匂いを嗅ぎ回り、そして体中を舐め回した。その都度、俺は悲痛な叫びをあげるのだが、いつまで経っても、子猫がそれを辞めることはなかった。
俺はいつか、メス猫に聞いた。
『なぜ、匂いを嗅ぐ』
それに対して、メス猫は非常に簡潔に応えた。
『知ってる。あなたの匂い』
俺には、ついぞメス猫が言おうとしている意味はわからずじまいであったが、とにかく人間の匂いが気になるのだろう、と勝手に解釈しておくことにした。
「みやさんが甘えてくるって珍しいね」
不本意ではあるが、人間の匂いが好きだと言うのなら、俺はこうして、男の身体に身を寄せて、匂いを強めてやるほかなかった。男は、俺が甘えていると勘違いして、喉元や頭。身体を優しく撫でてくるが、正直なところ、とても心地の良い気分ではあるものの、俺は憮然とその行為を受け入れるしかなかったのである。
『違う匂い。でも、知ってる』
俺の身を挺した行為もあって、メス猫はますます激しく匂いを嗅ぎ回り、そして舐め回した。体中を這い回る痛みは別にしても、どうやらメス猫にとっての最適解だったようで、俺はメス猫の旅路が有意義なものになると確信していた。
『あなたの匂い。忘れても思い出せる』
子猫は時折、不思議な表情で俺を見るようになった。疑問を呈しているわけでもなければ、俺のなにかを不審がっているわけでもなかった。俺は、メス猫のその顔が気になって、なんども問いかけたが、やはりその真意を知ることは、今後なさそうに思えた。
あるとき、小休憩のため木陰で腰を下ろしていたとき、俺の翼の古傷に気づいたのだろう。メス猫が鼻先で俺の翼を優しく突く。
『痛かったね。ここ』
『彼女』があの日そうしたように、メス猫がまるで俺を労るかのように舐めた。心配されるのはそれほど悪き気はしない。相変わらず、メス猫の舌はざらついていたが、そのときばかりは文句のひとつ漏らさず、彼女のされるがままになることにしたのだった。
そうして迎えたある日の晩。
メス猫が不意に脚を止める。俺の身体を嗅ぎ回るのと同じくらい、激しく鼻先を動かして、懸命に周囲の匂いを嗅いでいる。
実のところ、メス猫は特に根拠もなく歩いているものだと思っていた。が、どうやら、それは見当違いだったようで、彼女には彼女の、ちゃんとした道しるべに従った旅路だったようだ。
『近いのか?』
これまで見せたことのない彼女の反応に、俺はこの旅の終わりを感じていた。気づけば、すでに春が夏に変わろうとしていた。じめじめと沸き返る空気と、照りつけてくる日射しは、まさにそのときを知らせようとしていた。
『たぶん』
珍しく、俺の想像通りの返答だったに違いない。俺たちは、互いの対話に疑問を挟むことなく、周囲を見渡す。人間たちが無尽蔵に建て続けた、無機質な建造物がそそり立つ、その中心とも言える場所に俺たちはいた。
鴉と子猫。その組み合わせは人間たちにとって、非常に奇異に見えるのだろう。四角い機械を俺たちに向けて、カシャカシャ音を立てている。あるいは、俺を子猫から引き離そうとして、手で追い払われたり、棒で突かれたりしたが、メス猫は体毛を逆立てにして、人間たちを威嚇してくれただけで、俺には十分だった。
ほとぼりが冷めるまで、その場を離れて、上空から子猫の様子をうかがう。それでも、石を投げてくる輩もいたが、時間が経てば、やがて興味を失って、もしくは彼らには彼らにも行く場所がある。辛抱強くそれを待って、子猫の隣に戻れば良かった。
『ひどいね!』
出会った頃よりも体躯が良くなったメス猫が、感情的にフーッと声をあげる。
所詮、人間は人間。鴉の天敵だ。そして、『彼女』のように辛抱強く、子猫に寄り添うことのできる人間は、この世にはただひとりしかいないのではないかと思えてくる。
いや……男にも帰るべき場所があるわけだから、子猫にとって、あの男もほかの人間と変わらない存在であろう。当然だ。男にとっても、このメス猫はなんのゆかりもない、ただの野良猫にしかすぎないのだから。
そこで、俺はふと、この景色が見慣れたものであることに気づいた。ここは――
男の部屋の近くじゃないか。