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ひとと生きた鴉
1『彼女』と生きた日々
俺は鴉。この冴えない男の頭上を根城にしている。
人間に飼われる鴉など、人間どもにニ
ャアニャア鳴いては足元にすり寄っていく猫と、毛ほども変わりはないだろう。が、俺はこのもしゃもしゃ感が堪らなく気に入っているのだから、それはそれほど重要なことではなかった。
男はかなりの寝起きの悪さだ。今朝も四角い機械から鳴り響くけたたましい音楽を、一秒で止めてしまって、そのまま寝返りを打って寝息を立てる始末だ。だから、ヨボヨボと男の耳元に近寄って、こう言ってやるのだ。
『おい! 起きろ! 飯だ! 飯を食わせろ!』
俺の鳴き声に、男はけだるそうな表情でこちらを見て、恨み言を言うのだが、残念ながら、俺には人間の言葉なぞ、わからぬ。俺は素知らぬ顔で、男の起床を待ったが、どうやらまたひと寝入りしようとしているらしい。
分からず屋の飼い主にもう一度、ハスキーボイスを聞かせようと、翼を広げたところで、男は心底、嫌そうに身体を起こして目をこする。それから、ゴキゴキと首筋を鳴らして顔を洗うと、いつもの日課に取りかかる。
いそいそと黒い箱の前に座って、引き出しを開けたり、台所に行ったりとバタバタ動き回り、ピンクの座布団の上に男が身を正したとき、バサッと頭の上に乗っかかるのも、もはや見慣れた光景であろう。
俺はいつもと変わらぬ笑顔の『彼女』を見つめる。最期に見たときよりも、ずっと若く美しく、そして幸せそうな『彼女』だ。あのときと同じように、いつか痩せこけ、髪がまだらに抜け、生気のない表情を俺たちに向けてくるんじゃないかと心配していたのだが、いつまでも変わらぬ『彼女』がそこにいて、俺は少しだけ安心する。
チーン。鈴の音だろうか。ひときわ、突き抜けるような高音に、俺は少しだけ眉をひそめる。だが、その音色は『彼す
女』へ贈るに相応しいほど、美しく爽やかに通り過ぎる。その残響が淡く消え去る瞬間を、俺たちは身じろぎ一つせずじっと耳を澄ましていた。
あれから三年になろうとしていた。最初は、『彼女』の喪失に耐えきれず、俺をひとり部屋に残して、夜遅くまで外をふらついていたと思えば、なんでもない日常の一瞬。泣き崩れ、嗚咽を漏らし、『彼女』に縋りつくような日々が続いていたものだったが、最近はかなり調子を取り戻してきているようで、俺も手渡されるポテトチップスを存分に味わえるというものだ。
相変わらず、うめぇ。
俺はボリボリと男の手からポテトチップスをむさぼり食う。『彼女』と出会ったとき、同じようにして食べたポテトチップス。そのときと同じ味のように覚えて、俺はなおのこと、無心になってむさぼる。
人間とは長らく、敵対関係にあった俺だが、『彼女』と出会い、ポテトチップスという人間の英知をこの身に食らい、そして『彼女』の遺した男と出会った。今では、飼い主に向かってだらしなく尻尾を振っている犬と同様、俺もまたこのポテトチップスに飼い慣らされているのだった。
「そろそろ三回忌か……」
男がぽつりと、なにかをつぶやく。俺は、ポテトチップスの美味に溺れながら、男の表情を読み取ろうとちらりと目をやる。寂しそうに小さく笑って、目を伏せている。『ソロソロサンカイキカ』がなにを意味しているのかはわからぬが、どうやら『彼女』に関することでファイナルアンサーだろう。
俺たち、野生の世界では、伴侶を失えば次の伴侶を求めて、雌鴉を
追っかけるものだが、人間はそういう種族ではないようだ。が、鴉史上初。人間に恋をした俺には、男の気持ちが少しだけわかる気がした。
そうは言っても、俺ももう老齢の鴉だ。翼を広げるのもそろそろ、気だるさがつきまとって、そう長くこの男のそばにいてやれないことは、自分でも気づいていた。
『彼女』を失くし、立ち直りかけた頃に俺がいなくなる。男を慰めてくれる人間はいるだろうか。それに、男がもし、突然、死にでもしたら、このポテトチップスは誰がくれるというのか。男には、是が非でも、新たな伴侶を求めて、人間の雌に求愛をしてきてもらいたいものだ。
鴉史上初だろう、人間を心配する鴉は。最後のポテトチップスを丸呑みしながら、そんなことを考えていた。2 / 10
2 君と邂逅した日
「それじゃあ、みやさん。行ってくるよ」
小綺麗に身なりを整えた男が、俺の頭にぽんと手を置く。悪き気はしない。が、俺は孤高の老年鴉だ。ペット扱いは辞めてもらいたいものだ。俺は最大限の抵抗として、男の手のひらに頭を擦りつけて、小さくひと声鳴く。
それを見送りの挨拶と思ったのか、男はうん、と頷きをひとつ。部屋から出て行く。元々、あまり口数の多くない男だ。しかし、電化製品のブーンという音が小さく聞こえるだけの部屋では、鴉一匹には少々、静けさが堪える。
人間と暮らし始めて、かれこれ十五年になる。鴉の寿命はおおよそ二○年だから、鴉人生のほとんどを人間と過ごしているわけだが、それだけ長く、人間の文明というものに触れて生きていれば、それなりに作法とやらを学ぶものだ。
ここのところ、やたらと重たく感じる身体に鞭打って、『彼女』にひと鳴き。窓に近づくと、くちばしで何度もつつき、自分の身体が通れるぶんだけの隙間を作って、身を滑り込ませる。季節は春。刺すような朝の寒さに、俺はぶるっと全身を震わせて、同じ要領で窓を閉める。
『彼女』も不用心だったが、この男も不用心だ。一度、『彼女』の元を去った日のことを思い出して、ベランダの柵から身を身を乗り出し、レースのカーテンでぼんやりとしか見えない部屋のなかに向かって、大きめに鳴いてみせる。
必ず、帰ってくるからな。死ぬときは、君と一緒だ。
俺は、もう一度だけ、部屋のなかを覗き込んでから、大空に翼を広げるのだった。
空はいい。鴉に刃向かうような天敵もいなければ、衣食住が完璧に満たされた状態だ。血眼になって獲物を探し回る必要もない。加えて、同族に襲われることもなかった。『鴉人間』と忌避されている俺だ。遠巻きに、見つめられたからといって特に気に病むこともない。
俺は、いつものように悠然と空を飛び、本当に自由な時間を満喫する。あの頃の友人や親兄弟はすでにこの世を去っている。運が良ければ、たしかに二○年。しかし、そう簡単でもないのが、この世の理なのだ。
鴉にとっての益獣は人間。同時に人間は鴉の最大の天敵でもある。空を飛べば、電線にひっかかり、不運な鴉は感電死だ。路上で餌を漁れば、ホウキや棒で追い払おうとしてくるし、果てにはエアーガンとやらで狙い撃ちされる始末だ。特に、子どもは遠慮がないぶん、容赦がない。俺も羽根を何枚も毟られて、なんとも醜い翼になってしまった。
『だいじょうぶ? 痛くない? ここ』
不意に、『彼女』と出会った頃を思い出して、俺は思わず滑空の力を緩める。人間にはずいぶん警戒していた俺だったが、『彼女』の優しさにいつか、鴉というものを忘れてしまっているのだった。
人間のなかにも信用していい人間がいる。大発見だった。もちろん、友人たちは俺の言葉を信じようとはせず、逆に人間に飼い慣らされたペットだと嘲笑われたものだ。だが、最後には、心が折れた俺を叱咤激励してくれた。そうして再び、鴉として『彼女』のもとに舞い戻ることができたのだ。彼らに、どれだけ感謝しても尽きることはないだろう。
鴉にはあるまじき、センチメンタルを覚えて、地上を見下ろしたとき、一匹の子猫が目に入る。生まれて間もないのだろう。なんとも頼りない足取りで、歩を進めている。周囲を見渡してみても、母猫や兄弟猫が見当たらない。かわいそうに。はぐれてしまったのだろうか。それとも、人間に捨てられてしまったのか。
子猫の頭上を何羽もの同族が飛び回っていて、どうひいき目に見ても、長生きはできないだろう。元気なうちは狙わない。疲れ果て、空腹に倒れたときが狩りの時間だ。残酷なようだが、それがこの世の理だ。俺にはどうすることもできないし、否定する気もない。だが――
『彼女』の顔がちらつき、俺はため息交じりに、大きく吠える。途端に、子猫の頭上を飛んでいた鴉たちは、四方八方に飛び散っていく。この辺りの鴉たちは、俺のことをよく知っているし、年功序列なところもある。老齢の鴉に、獲物を譲ったつもりだろう。まったく、そのつもりはなかったのだが。
かく言う子猫は、頭上の顛末についてまったく気づいていないようで、相変わらず歩き続けている。どこか、目指す場所があるのだろうか。もしかすると、興味本位で外に飛び出してみて、今、その帰路にいるだけなのかもしれない。
子猫をつけ狙う動物は鴉だけではない。せめて、この子猫がもとの居場所に戻れることを祈るだけだ。
俺はさらに強めな声を空に放って、帰路につくことにした。
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3 君の目指す場所
ポテトチップスをたらふく食べて、でっぷりと太った腹を指先で突きながら、俺はまた空を飛んでいた。
鴉の生涯なぞ、子孫をもうけでもしなければ、獲物の狩りと睡眠で終わる。ただ惰性を貪るがごとく、空を飛ぶ鴉は俺ぐらいなものだろう。目の血走った同族たちを見ていると、それはそれで同情はするが、今さら彼らに混じって生きるつもりもなければ、彼らに『彼女』の恩恵を与えるつもりもなかった。俺と『彼女』と。そして、男との時間は、きっと彼らには理解できないだろう。ならば、その場に彼らを招き入れるのも妙な話だった。
それはともかくとして、いつもはなんの目的もない、なんとも虚しい滑空であったのだが、今日の俺には、ぼんやりとした目的があった。
そう遠くへは行ってはいまい。あの足取りだ。あの子猫は、まっすぐ歩き続けていた。普通なら、あちこち草むらに入り込んだり、木に登ったりして、ジグザグにゆくものだが、あの子猫にははっきりとした目的地があるように思えた。できることなら、それを知ってみたい気がしたのだ。もちろん、あのあと、無事に夜を明かせていれば、の話だが。
どこか、身の隠せるところを見つけられただろうか。人間に捕まってはいないだろうか。蛇や野犬に追い回されはしなかっただろうか。飯にありつくことはできたろうか。しまった。ポテトチップスを持って来てやればよかった。
俺はいつしか、子猫の心配ばかりをしていた。人間も同じだと思うが、やはり暇がなければ、他人。しかも、他族のことなど、気にも留めることはなかったであろう。どいつもこいつも、自分の生きることでいっぱいいっぱいだ。ギリギリ、自分たちのグループのことは心配しても、それ以上のことは、到底考えられはしない。
当然だ。今日、明日。生きていられる保証はどこにもないのだから。だから、こうして子猫を探して飛び回ることができるのも、暇を持て余している、衣食住が満たされた上流階級ゆえのことなのだ。
もしいるとしたら、この辺りなのだが。
俺は、子猫を探し求めて、周囲を飛び回る。身を隠しているのなら、飛んでいるだけでは、見つけることは至極、困難だ。身体を傾けて、高度を下げ、ちょうど良い高さの電柱のてっぺんに舞い降りる。
いつもよりも長く飛んでいたからか、息切れを感じる。子猫探しは、ここいらで休憩だ、とばかりに身体を沈めようとして、ぴくっと顔を上げる。
いた。
子猫は、昨日と同じように、ただただまっすぐ歩き続けている。昨日は、頭上から眺めていただけだったが、こうして近くで見ると、痩せ細ってあばらが浮き出ている。点々と、足跡のうえには小さな血だまりができていて、足裏はすでに擦り切れているようだ。それでも、子猫は顔を下ろすことなく、まっすぐ前を見て先を急いでいる。
そこまでしてまで行かなければならないところ。俺は、余計に気になって、電柱から飛び立つ。
警戒させないよう、近づく前になんどか、声をかけるが、どうやら耳に届いていないようだ。いや、歩くことに夢中で聞こえていないのかもしれない。仕方なく、俺は子猫より少し先のところに降りたって、距離が近づくのを待つ。
ここまで来て、ようやく子猫は俺の存在に気づいたのか、初めて歩みを止める。が、警戒した様子は見られない。むしろ、好奇心でいっぱいといった顔で、こちらを観察してくる。
人間飼いの猫だ。
俺は直感でそう思った。幼すぎて、鴉がどのようなものか知らない、というわけではないだろう。それならば、母猫が最初に教えることのひとつだろうし、周りの様子から自発的に学んでいる。ここまで、外敵に無邪気なれるのは、人間と暮らしていた経験があるからだ。
子猫は、首を傾げながらも少しずつ距離を詰めてくる。そこに、やはり警戒感といったものは見られなかった。
こんな無防備な様子で、よくここまで生きてこれたものだ。人間のもとから逃げてきたのか、それとも捨てられたのかはわからないが、運のいいやつだ。しかも――
丸みの強い身体つきや、野生のときの経験からすぐにわかった。こいつ、メス猫だ。だからどうだというわけではないが、俺は少々、紳士的なのだ。どう声をかけるべきか逡巡する。
やあ、メス猫。僕は、君の敵ではないよ。だから、安心して聞いてくれ。君は――
いやいや。どこの不審者だ。敵じゃないと言い張るやつほど、腹黒なやつはいない。それならば、いっそ直球で問うてみるべきだ。お前はどこに行くのだ、と。もっとも、鴉語が通じればの話ではあるが。
まとまらない。どうしたものか。
俺がうんうんと頭を捻っているうちに、メス猫は目の前にまで迫っていた。しばらく、向かい合って見つめ合う。そうして、口火を開いたのは意外にもメス猫のほうからだった。
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4 君の旅する理由
『あなただあれ?』
残念ながら、俺には猫語が理解できないようだ。ただの鳴き声にしか聞こえぬ。が、人間と暮らしてきたというアドバンテージが俺にはある。視線。目の形。耳の向き。表情。ひとつひとつの仕草。それらすべてを加味した結果、どうやらこいつは、俺が誰なのかを聞いているようだった。だから、俺は返してやった。俺は鴉。人間飼いの鴉だ、と。
『わからない。だあれ?』
言葉が通じないのは、メス猫も同じのようだ。先ほどと同じような疑問を口にした。気がする。もっとも、こちらが敵ではないと思ってくれたようだ。俺の周囲をぐるぐる回って、鼻先を突き出して、匂いを嗅いでくる。
『知ってる。この匂い』
鼻先の動きを止めて、おっちん座り。ニャオンとひと鳴き。匂いでなにか、気づいたことがあるようだったが、それがなんなのか、まではわからなかった。
『匂いが気になるのか?』
俺は無駄だと思いつつも、紳士な俺は律儀に返事を返してしまう。その言葉に、メス猫はまた首を傾げる。だが、今度はさらに俺の身体に近寄って匂いの正体を突き止めようと、せわしなく鼻先を動かす。やがて、ざらりとした舌で舐めてくるものだから、俺は飛び上がって思わず、羽根をバサバサとする。
『いきなり、ひとを舐めるとはいい度胸だ、メス猫。いいか、覚えておけ。お前の舌は痛みが強い。舐める前に、一言告げるべきだぞ』
いつもの癖で、つい饒舌に諭してしまう。鴉史上初だろう。猫を説教する鴉なぞ。人間と暮らし始めて、鴉史上初な出来事に遭遇することが多くて、それはそれで退屈しなくて済むが。
『知ってる匂い。これ、なあに?』
メス猫は、俺の説教はどこ吹く風。どこか嬉しそうな顔で匂いを嗅ぐ。懐かしがっているような、それでいて安心するような。そんな匂いに感じているようだ。最初は、汗臭かったかとか、そちらのほうを気にしたのだが、『彼女』同様。男も綺麗好きなようで、週に1回は風呂というものに入れさせられる。初めて生ぬるい水をかけられたときには暴れてしまったが、男は幸運だ。すでに、俺は風呂というものに慣れていたのだから。
つまり、俺の身体からは野生から遠ざかった匂いがぷんぷんしているわけだ。こいつも、人間飼いなら、風呂というものに入れられてたことはあるだろう。だから、懐かしくて安心する匂い。それは――
『人間の匂いがするだろ? お前もよく知っているはずだ』
俺の言葉に、きょとんとしてメス猫は目を丸くするが、ややあってなにかを理解したのか、ニャオンと鳴いてまた歩き出す。その後ろ姿を、ピョコピョコと俺はついていく。端から見れば、子猫をつけ狙う嫌らしい鴉にしか見えないだろう。だが、今はそれで十分だ。外敵に狙われる確率はこれで下がるわけだから。
『お前。足、怪我しているだろ。そんなに急いでどこに行くんだ?』
せこせこと前を歩く子猫に問うてみる。
『なんでついてくるの?』
歩は止めず、メス猫がちらりとこちらを見て鳴く。不思議そうな表情だ。これは、話が終わったのにずっとついてきている理由を聞いているのだろう。俺の明晰な推理が果たして、どこまで正解なのかはわからないが、とにもかくにもこうして奇妙な会話が成り立っている。俺はちょっと得意げな顔で、
『お前に聞きたいことがあるんだ。なあ、どこに行くつもりなんだ?』
と、同じ疑問を口にする。なんども言っていれば、そのうちこいつも気づいてくれるんじゃないか。そういう淡い期待をこめて。
『わかんない。でも、あなたは話してくれる。えっとね。行くところがあるの。どこかわかんないけど。変だよね? でもね。こっちで合ってると思うの』
メス猫が珍しく、長く喋る。もしかすると、俺の疑問に見当がついて、正解を話してくれているのかもしれない。が、顔が見えない以上、推理することはできない。
俺は、メス猫よりもさらに足早に横を通り過ぎて、振り向きざま、後ろ向きにピョンピョン跳ねながら、子猫の歩調に合わせる。これで、俺の明瞭な観察眼は世界一になる。
『すまない。もう一度、言ってくれないか。お前のケツしか見えてなかったんだ』
そう口にしてから、メスと交尾をしたがるオスのような言い方に、俺は苦笑いする。だが、ケツはケツだ。それ以上でもそれ以下でもない。メス猫は、俺の目を見つめながら、言葉の意味を探っている。しばらくして、またメス猫が口を開く。
『あのね。早く行かなきゃ、なの。そうしないとね。忘れちゃう気がするから』
メス猫がそう言ったきり、俺がなんど話しかけても、取り合わなくなってしまった。
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5 君にあげられるもの
「みやさん、今日は遅かったね」
俺が部屋に戻った頃には、周囲はどっぷりと闇に浸かっていた。メス猫のことは気にはなるものの、俺は『彼女』に必ず帰ると約束している。それはつまり、男に顔を見せるということだ。『彼女』が遺した男のもとに戻るということは、『彼女』との約束を守るということ。少なくとも俺はそう解釈していた。
男は、俺が外で遊びほうけていたと思っているのだろう。俺が催促するより早く、ポテトチップスの袋に手をかける。そう、それだ。それがほしい。今すぐ出せ。
ポテトチップスの味を思い出して、俺は思わず舌鼓を打ってしまう。が、はっと忘れそうになっていたことを思い出して、俺はただでさえ男前な顔をさらにキリッとさせる。
「はいはい、お腹空いたって顔だ。ハハハ」
そんな俺の真面目な決意をちっともわかってくれないようだ。俺は、少し苛立ってポテトチップスの袋をくちばしで突く。
「待って待って。今、開けるから」
微妙に、男との対話がすれ違っている気がして、俺の明晰な頭脳も疑いたくなる。男は、『彼女』と同じ仕草でポテトチップスの封を切る。いや、この場合は、男と同じ仕草で『彼女』が開けていたのかもしれないが。なにせ、『彼女』の愛した男なのだから。
封の切られたポテトチップスの袋から、目には見えぬ、馨しい香りが立ちこめ、俺は男が手に取るのも待てず、顔を突っ込んで一枚、一枚拾い上げては丸呑みする。
うめぇ!
「本当に、ポテチ好きだよね、みやさんは」
そう言って、男は寂しそうに目を伏せる。『彼女』がポテトチップスを備蓄していたことを思い出したのか。そういう顔をしている。この男は、『彼女』のこととなると、やはりダメな人間だ。だが、当たり前だ。『彼女』が男を愛したと同様、男もまた『彼女』を愛していたのだから。それだけ、深い愛情が心の奥底まで根づいているのだろう。
俺は、男のセンチメンタルには取り合わず、むしゃむしゃとポテトチップスを貪る。なにか、大事なことを忘れている気がするが、今はこれを完食するほうが先だ。考え事は、空腹を満たしてからだ。腹減りは、思考に多大な影響を与える。明晰な頭脳をフルに活用するには、まずは食うことだ。食う。食らう。食べる鴉。
そうして、そろそろ袋の中身が空になりそうになったとき、俺は唐突にメス猫の顔を思い出して、口に取ったポテトチップスを落としてしまう。危ない。危うく、ポテトチップスの魔力にやれてしまうところだった。
「あれ、みやさん。もういいの? 珍しいなあ」
食べるのを辞めた俺を見て、袋のなかに目を落として、男が驚いた顔をする。うるさい。好きで残しているわけではない。俺だって、あともう少し味わっていたかった。だが、今は思い出した使命に、俺はぐっと本能を理性で押さえ込む。
数枚のポテトチップスを口に丁寧に咥え込んで、窓のほうに向かう。そんな俺の後ろを、男がついてきて、
「今日は珍しいことがあるね。こんな時間に、みやさんが散歩とはね。よしよし、開けてあげよう」
口の塞がっている俺のために、男が窓を開ける。夜の冷気が部屋になだれ込んで、男がくしゃみをする。外にいるときのおやつとでも思われていそうだが、いい加減、俺の背負っている使命というやつをわかってほしいものだ。
「まだ寒いから、風邪ひかないようにね。鍵は開けておくから、ちゃんと帰ってくるんだよ」
もちろんだ。俺は帰る。お前のもとに。ひいては、『彼女』のもとに。安心しろ。俺は、俺の命がある限り、お前のそばを離れない。『彼女』がお前にしたように、俺はこの部屋にいると決めた。
しかし、その対価には当然のことだが、ポテトチップスが必要だ。棚に仕舞われた残数を目でアピールする。男も、それについてはわかったようだ。頷きを返してくる。
俺は、それを見届けて、夜の冷え切った空気のなかに身体を放り出した。
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6 俺は君と旅する
ポテトチップスを口に結わえて、俺は夜の空を飛ぶ。あれから、メス猫はちゃんと寝床を見つけただろうか。さっき、別れた場所まで戻ってくるが、メス猫の姿はない。周囲を飛び回ってみるものの、それらしい影は見えない。
メス猫はもはや限界のようだった。足取りはどんどん悪く、なんども地面に倒れ込みながら、脚を引きずるようにして、先に進もうとしていた。あの様子では、飯どころか、ろくに睡眠も取ってはいないだろう。いつから、ああしているのかはわからないが、このままでは行き倒れがいいところだ。
草むらや木の上をあちこち。けれど、メス猫の姿はやはりなかった。もう、ほかの動物にやられたか。俺は最悪な想像をしてかぶりを振って、その衝撃で一枚、ポテトチップスを飲み込んでしまう。
『うめぇ!』
バカか。俺は。
口に咥えているポテトチップスを地面に落として、数を数える。残り三枚。ポテトチップスはたしかに美味だ。だが、俺はいつでも食うことができる。むしろ、すでにたらふく食った。これは、メス猫のぶんだ。
もう誤飲してしまわないように、慎重にポテトチップスを咥え直して、メス猫の行きそうなところを考える。あの感じでは、どんな身体になろうと、目的地に向かって歩き続けるだろう。だとすれば――
俺は、最後に別れた場所にもう一度戻って、そこからまっすぐピョコピョコ歩き始める。この暗闇だ。どれだけ、鴉が闇夜に慣れていようと、あの小さな体躯は空の上からでは見落としてしまう。ならば、俺も歩こう。君と同じように。歩は、鳥の俺のほうが早いほど、疲弊していた。いつもの二倍速で追いかければ、すぐに追いつくだろう。
メス猫が歩いたであろう道を、俺は歩く。姿はないけれども、まるで君と旅をしているようだ。目的地は、俺にはわからない。もしかすると、メス猫ですらその場所をわかっていないのかもしれない。
果てのない旅。もし、メス猫が行き倒れになったら。そのときは、男の部屋に連れていってやろう。あいつは、人間の匂いを求めていた。きっと気に入るだろう。快適な部屋と、外敵の心配のない安らぎ。それに、鴉を飼い慣らした『彼女』の遺した男だ。暖かく迎えてくれる。
そうなのだ。行き場のない俺たちにも居場所はあるのだ。探し求めれば、必ず。それまで、諦めてはいけない。心が折れても、なんどもトライするのだ。そうして、たどり着いた場所は、楽園に等しい。
いや。
俺は、ふっと笑いをこぼす。そんなことは、子猫といえど、わかっているだろう。だから、歩き続けているのだ。この先の見えない旅路を。
普段、これだけ長く地面を歩くことはなかった。土。アスファルト。足元はいくつも姿を変え、その都度、脳天に響き渡ってくる。それは、あいつも同じだ。俺は諦めない。あいつを見つけて、目指すその最果てを見届けるまでは。
どれぐらい時間が経ったであろう。どれだけの決意と根性を以てしてでも、疲労というものはいきなり襲ってくる。できれば、もうこれ以上、歩きたくはない。俺はついに真夜中の街の外れで、脚を止めてしまう。これだけ歩いても見つからなかったのだ。もう、メス猫も歩くのを辞めて、どこか草陰でこれまでの疲労に眠っている頃だろう。ならば、明るくなってからもう一度――
ぐるぐると決意と諦めが頭のなかを回り始めた頃、俺はもう見慣れた身体を見つけて、老体に鞭を打って駆け寄る。
『おい、大丈夫か』
口に大切な食料を咥えていたのも忘れて、俺は口を開いてしまう。メス猫は、精も根も尽きたとばかりにぐったりと地面に倒れ込み、か細い声で呼び続けている。母猫だろうか。それとも兄弟猫。あるいは、元いた場所の飼い主に向かってだろうか。俺には、その言葉がまるで、謝罪のように聞こえた気がして、なおのこと、メス猫の身体をくちばしで揺さぶる。
『あれ……帰ってきたんだ……』
ふと生気の灯った目で、俺を見上げて、思わず安堵のため息をつく。
『だから、休息を取れと言ったんだ。急いでいる理由はわからないが、死んでしまったらなにもかも、終わりだぞ』
『彼女』の柔らかな笑顔を思い出して、俺はぐっと喉元に力を入れる。
『とにかく、これを食え。美味いぞ。疲れたときには、これだ。ポテトチップスというらしい。人間の最大の発明だ』
地面に落としてしまったポテトチップスを一枚、一枚拾い上げて、メス猫の鼻先に置いてやる。
『これ、なあに』
鼻先でポテトチップスを突いて、匂いを嗅ぐ。どうやら、それが食い物だとはわかっていないようだ。仕方ない。実演してみせるか。
俺は、一枚をくちばしで半分に割って、子猫に見せつけるようにして、ポテトチップスの破片を飲み込む。そして、大げさに、
『うめぇ!』
と、翼を広げてみせる。もちろん、それは本音であったのだが。
『食べ物? 美味しい?』
俺の演技がかった仕草に、しかし疲れていることも忘れて、子猫が不思議そうに俺を見つめる。俺は、大きく頷いて、くちばしでポテトチップスの破片を押しやる。
子猫は、なんどか鼻先で突いて躊躇ったあと、思い切ってポテトチップスの端をむしゃむしゃと食べ始める。
『わあ。美味しいね、これ!』
どうやら、俺の気持ちは通じたようだ。嘘のように、子猫はポテトチップスを食べ始め、あっという間に平らげてしまう。
『もう全部食べちゃった。でも、美味しかった。ありがと』
子猫が、お礼のつもりか、身体を起こして、俺の腹を舌でまさぐる。
『おい、やめろ! 痛い! 痛いって! 言っただろ……お前の舌は痛いんだって! 痛ァッ!!!!』
俺の悲痛の叫びは、しかし無情にも夜の闇に消えていくのだった。
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7 旅の終わりに
それから、俺は来る日も来る日も、子猫のもとにポテトチップスを届け続けた。メス猫の旅はいつ果てるとも知れず、俺たちはただただ歩き続けた。
あれ以来、メス猫も休むことを覚えたようだった。安全な寝床は、俺が探し回って見つけた。念には念を入れて、そのあたりで拾ってきた木の枝や木の葉を、小さな鼓動を続けるメス猫の身体にかけてやる。匂いは、どうにもならないかもしれないが、せめて姿だけは、外敵から守ってやる必要があったのだ。
そのおかげだろうか。三年前、『彼女』がこの世を旅立った日が過ぎてもなお、メス猫は歩き続けることができたのだった。俺と君が出会って、もう二週間になるだろうか。俺たちはずいぶん、いろいろな話をした。もっとも、それが対話になっているかは、未だ以て不明であるが。『忘れそう』
子猫は、なにかにせっつかれるかのように、俺の匂いを嗅ぎ回り、そして体中を舐め回した。その都度、俺は悲痛な叫びをあげるのだが、いつまで経っても、子猫がそれを辞めることはなかった。
俺はいつか、メス猫に聞いた。
『なぜ、匂いを嗅ぐ』
それに対して、メス猫は非常に簡潔に応えた。
『知ってる。あなたの匂い』
俺には、ついぞメス猫が言おうとしている意味はわからずじまいであったが、とにかく人間の匂いが気になるのだろう、と勝手に解釈しておくことにした。
「みやさんが甘えてくるって珍しいね」
不本意ではあるが、人間の匂いが好きだと言うのなら、俺はこうして、男の身体に身を寄せて、匂いを強めてやるほかなかった。男は、俺が甘えていると勘違いして、喉元や頭。身体を優しく撫でてくるが、正直なところ、とても心地の良い気分ではあるものの、俺は憮然とその行為を受け入れるしかなかったのである。
『違う匂い。でも、知ってる』
俺の身を挺した行為もあって、メス猫はますます激しく匂いを嗅ぎ回り、そして舐め回した。体中を這い回る痛みは別にしても、どうやらメス猫にとっての最適解だったようで、俺はメス猫の旅路が有意義なものになると確信していた。
『あなたの匂い。忘れても思い出せる』
子猫は時折、不思議な表情で俺を見るようになった。疑問を呈しているわけでもなければ、俺のなにかを不審がっているわけでもなかった。俺は、メス猫のその顔が気になって、なんども問いかけたが、やはりその真意を知ることは、今後なさそうに思えた。
あるとき、小休憩のため木陰で腰を下ろしていたとき、俺の翼の古傷に気づいたのだろう。メス猫が鼻先で俺の翼を優しく突く。
『痛かったね。ここ』
『彼女』があの日そうしたように、メス猫がまるで俺を労るかのように舐めた。心配されるのはそれほど悪き気はしない。相変わらず、メス猫の舌はざらついていたが、そのときばかりは文句のひとつ漏らさず、彼女のされるがままになることにしたのだった。
そうして迎えたある日の晩。
メス猫が不意に脚を止める。俺の身体を嗅ぎ回るのと同じくらい、激しく鼻先を動かして、懸命に周囲の匂いを嗅いでいる。
実のところ、メス猫は特に根拠もなく歩いているものだと思っていた。が、どうやら、それは見当違いだったようで、彼女には彼女の、ちゃんとした道しるべに従った旅路だったようだ。
『近いのか?』
これまで見せたことのない彼女の反応に、俺はこの旅の終わりを感じていた。気づけば、すでに春が夏に変わろうとしていた。じめじめと沸き返る空気と、照りつけてくる日射しは、まさにそのときを知らせようとしていた。
『たぶん』
珍しく、俺の想像通りの返答だったに違いない。俺たちは、互いの対話に疑問を挟むことなく、周囲を見渡す。人間たちが無尽蔵に建て続けた、無機質な建造物がそそり立つ、その中心とも言える場所に俺たちはいた。
鴉と子猫。その組み合わせは人間たちにとって、非常に奇異に見えるのだろう。四角い機械を俺たちに向けて、カシャカシャ音を立てている。あるいは、俺を子猫から引き離そうとして、手で追い払われたり、棒で突かれたりしたが、メス猫は体毛を逆立てにして、人間たちを威嚇してくれただけで、俺には十分だった。
ほとぼりが冷めるまで、その場を離れて、上空から子猫の様子をうかがう。それでも、石を投げてくる輩もいたが、時間が経てば、やがて興味を失って、もしくは彼らには彼らにも行く場所がある。辛抱強くそれを待って、子猫の隣に戻れば良かった。
『ひどいね!』
出会った頃よりも体躯が良くなったメス猫が、感情的にフーッと声をあげる。
所詮、人間は人間。鴉の天敵だ。そして、『彼女』のように辛抱強く、子猫に寄り添うことのできる人間は、この世にはただひとりしかいないのではないかと思えてくる。
いや……男にも帰るべき場所があるわけだから、子猫にとって、あの男もほかの人間と変わらない存在であろう。当然だ。男にとっても、このメス猫はなんのゆかりもない、ただの野良猫にしかすぎないのだから。
そこで、俺はふと、この景色が見慣れたものであることに気づいた。ここは――
男の部屋の近くじゃないか。
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8 君の帰る場所
『本当にこの辺りなのか?』
近寄ってくる人間の匂いを片っ端から嗅ぐメス猫に、多少の動揺とともに問いかける。が、匂いに夢中で、メス猫は俺の言葉にちっとも反応を寄越さない。
『違う』
ミャオ。
「かわいい! こっち来て、ね? チチチ……」
人間のメスどもが、機械片手にメス猫の回りを囲んでいる。メス猫がなにかすれば、黄色い悲鳴だ。しかし、当の本人と言えば、人間に媚びることなく、次々に差し出される手の匂いや、足の匂いを、確かめるかのように鼻先を動かしている。
『違う。これ。違う』
なにかを探しているようにも見える。だが、どうやらメス猫のお目当ては、やはり人間だったのだ。それが、飼い主かどうかは知らぬが、この様子を見る限りはそうであると断定するほかない。
『忘れた』
しばらく離れていようと翼を広げたところで、いきなりメス猫が近寄ってきて、身体中の匂いを嗅ぎ始める。もしかすると、そんな深い意味はなく、ただの匂いフェチなのだろうか。動物のなかには、匂いに酔うほど、鼻のいい動物がいるが、猫はどうだっただろうか。
人間どもの怨嗟の視線を一身に受けながら、メス猫のボディチェックを受ける。どこに行っても、鴉は嫌われ者だ。とは言っても、メス猫を邪険にすることもできず、ただひたすら、嗅がれ続けるしかなかった。
そろそろ、本格的に嫌悪なムードが漂ってきた頃、ようやくメス猫がまた、人間どもの輪のなかに戻っていく。
『いこ。ここ。違う』
たっぷり、人間どもの匂いを堪能したメス猫が、俺に合図を送って、また歩き出す。そして、その先はますます、男の家に近づいていく。
これはただの直感だ。当てずっぽうだし、なんの根拠もない話だ。が、俺の直感は当たると、もっぱらの噂だ。だから、そんなこともあるのかもしれない。メス猫が探している人間とは、男のことではないか。どこかで会ったことがある。わけでもないだろうが、なぜか、そんな気がしてならないのだ。
空を見上げると、夕暮れが近づいてきている。早めに、寝床を探しておいたほうがいいだろう。だが、こんな人間の巣の真ん中に、安全な場所など、すぐには思いつかない。
いや。
ひとつだけ、浮かんでいる場所がある。そこは確かに安全で、そしてメス猫が探し求めている人間が誰であるかを、簡単に確認できる場所。
これまでの旅路の経験から、メス猫も俺が寝床を探しに行く頃合いであることを理解している様子だ。近くの茂みのなかに身を伏せっている。
俺は、茂みのなかに顔を突っ込んで、これまでと同様に合図を送る。メス猫は、俺の言葉になんの疑問も持たぬ表情で、後ろをとてとてとついてくる。 男の部屋まで、ここからそう遠くはない。これなら、暗くなる前に着くことができるだろう。
俺たちは、人間たちの雑踏のせわしさのなかを縫って、今夜の寝床へとまっすぐに向かうのだった。
男はまだ帰宅していなかった。部屋の電気がついていない。
好都合だ。あれこれ、なにか言われるのは必須だろうから、いないうちに入れてしまえば、あの男のことだ。一晩くらいは置いてくれるだろう。
メス猫が柵を器用に登って、ベランダに身を乗り出したところで、彼女の鼻先が見たこともないほどの早さで動き始めたのがわかった。
『知ってる。知ってる』
彼女がなんと鳴いているのかはわからない。けれど、そこにはやはり、深い意味が込められているように思えてならない。
『どうだ。ここがお前の目的地か?』
俺の問いかけに、メス猫はじっと窓のなかに注ぎ込まれる。応えは別に期待していなかった。俺は、いつもの通りに。今夜はいつもより窓を大きく開いて、メス猫よりも先に部屋に入る。
後ろを見やると、俺にならって、そっと部屋のなかに足を踏み入れていた。そのときの表情は、俺はきっと忘れない。
メス猫の目は、丸く大きく見開かれ、口は半開き。キョロキョロと部屋のなかを見回して、驚いているというよりは、これまで確認してきたイメージと寸法違わぬ様相にあっけにとられているといった感じだ。
やがて彼女は、のそのそと歩き始め、ソファーをよじ登り、その一角にそっと身体を下ろした。俺は彼女の選んだ場所を見て、いよいよ自身の推論に確信を持った。そこは、『彼女』のお気に入りの場所だったのだ。まるで、これまでもそこにいたかのように、なんとも自然なふるまいだった。
では、彼女はいったい、誰なんだろう。俺は、次に芽生えた疑問に頭を抱えた。もはや、彼女は『彼女』と言っていい。しかし、俺の知っている『彼女』は、今まさにそこにいて、色あせることなく微笑んでいるのだから。
ふいに玄関の錠が落ちる音がして、俺たちは顔を上げた。
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9 君の魂八つまで
「ただいま。お、みやさん帰ってるな」
男が靴を脱ぎ捨て、すり足でこちらに向かってくる。そして、壁のスイッチを押して――
「うわっ!」
『お兄ぃ!』
部屋に明かりが灯ると同時に、メス猫が飛び出していた。男のちょうど太ももあたりに飛びつき、しがみつく。だが、俺が驚いたのは、その突発的な行為ではなかった。
俺は、メス猫をじっと観察する。いや、聞き違いだったのかもしれない。明らかに、猫の声ではない声。そう、あれはまさしく『彼女』の声だった。が、男の太ももにしがみついて、ミャアミャアと鳴いているのを聞くに、これまで俺とともに旅してきたメス猫だった。
「え? なんで、猫?」
男は、見ていて気持ちの良いほど狼狽した表情で、俺を見る。見るな。俺は、男の視線から逃れるべく、顔を逸らしたが、それですべてを理解されたらしい。いつも、そのぐらいの察しの良さがあればいいのだが。
「ちょっ、みやさん。猫連れてきたのか……。外でなにやってると思ったら、猫と……。というか、うち、ペット禁止なんだよ……どうすんだよ……」
男が困った顔で、メス猫の頭を撫でる。メス猫は、それに応えるかのように、喉から絞り出すようなか細い声で、男の太ももをよじ登ろうと、ガジガジとしている。
すでに、鴉を部屋に招き入れている男が言う台詞ではないが、とにかく、彼にとってこの状況は摩訶不思議といったところか。
男は、仕方ないといった顔で、太ももにぶら下がったメス猫を抱き上げて、じっと腕のなかに収まったメス猫を見つめる。
『お兄ぃ』
まただ。鴉史上初になる。幻聴を聞く鴉。どうやら、この連日の緊張感で心身にストレスがたまっているようだ。しばらくどころか、もう外に出る理由もなくなった。せいぜい、あのうめぇポテトチップスを食べながら、ソファでごろ寝をするとしよう。
と、そんなくだらないことを考えていたが、今度ばかりは聞き違いではなかったと、男の表情を見て、俺は思った。
一瞬、表情が固まったあと、目が大きく開かれ、そこから涙の滴が溢れかえり、ぽつりと頬を伝う。男にも聞こえたようだった。紛れもない『彼女』の声が。
彼女は、姿は違えども『彼女』なのだ。どういう原理かはわからぬ。だが、『彼女』は死んではいなかったのだ。なぜなら、今ここに彼女として生きているのだから。
そう思ったとき、これまでの疑問が一気に解決した気がして、俺は満足げに『彼女」のお気に入りとは反対の一角に身体を沈めて、目を閉じる。
男のしゃくりあげる声が聞こえてきて、そこにメス猫の声が重なる。『彼女』になったり、彼女になったり、忙しいやつだ。けれど、それも悪くはない。
俺は老齢の鴉。そろそろ寿命が近づいている。その最後に『彼女』ともう一度、出会うことができた。なんという奇跡だろう。それと同時に、寂しくも思った。俺がここを旅立つとき、もう『彼女』はこの空にいない。『彼女』がここを旅立ったとき、いつかそこに還ると約束した。でも、君はここにいる。ならば、俺が向かう先はひとりぼっちということ。
それならそれでいい。
眠りに落ちる間際、俺はこう考えた。
『彼女』は彼女としてここに還ってきた。それなら、俺も還ってくればいい。次は、鴉ではなく、もっと自由な姿で。三年はどうも、我慢しなければならないらしい。けれど、三年が過ぎれば俺もまた三人で――
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エピローグ
「みやさん! また、ユリコさんにポテチ食べさせたでしょ!」
そう騒ぐな。年寄りにがなり声は、朝っぱらから少々、つらいものだ。それに、俺が食べさせたのではない。自ら、袋に頭を突っ込んで貪り食っている場面を俺はついさっき見たのだ。
「猫に、こういうのはダメだからな。まったく……目を離したらすぐにこうなんだから……」
湿り気のあるティッシュで、メス猫の口の周りを吹きながら、男がブツブツと不平を言う。確かに、そいつにポテトチップスの味を覚えさせたのは俺の所業ではあるが、メス猫専用の餌まで用意されて、戸棚のポテトチップスを盗み食う真似を教えたつもりはない。
毎度毎度の騒々しさに、俺は少し嬉しく思った。
メス猫がここに居着いて、はや一ヶ月というところか。最初は、男もすぐにいなくなるだろうと踏んでいたようだが、ソファーの上に身を投げ出して寝ている姿を見て、飼うことを決めたようだ。
あれから『彼女』の声は聞かない。至って、普通のメス猫だ。そういえば、旅路をゆく彼女は、どこか急いでいた。足を怪我しても、空腹も耐え、疲労にも耐え、ただひたすら歩き続けていた。
あれは、『彼女』でいられる時間がなくなっていくという恐ろしさがあったのではないかと、俺は分析する。現に、今の彼女はただのメス猫だ。『彼女』でいられるうちに、もう一度、男に会いたい。そう考えれば、すべてに合点がいくのだ。
が、本人と対話ができない以上、どこまで行っても推論の域を出ない。『彼女』に呼びかけてみれど、相変わらずのミャアミャア声なのだから。
けれど、俺は信じたいのだ。命の不思議さを。
幸い、まだ俺はこうして息をして暮らしている。いつ、その日が来るのか、それは来てみなければわからない。それでも、もうしばらくだけ、この部屋で奇妙な同居人たちと暮らしていたいと思う。
俺は鴉。年老いた、けれど人生の大半を人間と生きた鴉。鴉史上初だろう。魂などという、人間の思想を信じる鴉は。
だが、それも悪くない。
俺は、静かに遠ざかる喧噪のなかで、そっと目を閉じた。『彼女』の声を聞きながら。
(了)