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4 君の旅する理由
『あなただあれ?』
残念ながら、俺には猫語が理解できないようだ。ただの鳴き声にしか聞こえぬ。が、人間と暮らしてきたというアドバンテージが俺にはある。視線。目の形。耳の向き。表情。ひとつひとつの仕草。それらすべてを加味した結果、どうやらこいつは、俺が誰なのかを聞いているようだった。だから、俺は返してやった。俺は鴉。人間飼いの鴉だ、と。
『わからない。だあれ?』
言葉が通じないのは、メス猫も同じのようだ。先ほどと同じような疑問を口にした。気がする。もっとも、こちらが敵ではないと思ってくれたようだ。俺の周囲をぐるぐる回って、鼻先を突き出して、匂いを嗅いでくる。
『知ってる。この匂い』
鼻先の動きを止めて、おっちん座り。ニャオンとひと鳴き。匂いでなにか、気づいたことがあるようだったが、それがなんなのか、まではわからなかった。
『匂いが気になるのか?』
俺は無駄だと思いつつも、紳士な俺は律儀に返事を返してしまう。その言葉に、メス猫はまた首を傾げる。だが、今度はさらに俺の身体に近寄って匂いの正体を突き止めようと、せわしなく鼻先を動かす。やがて、ざらりとした舌で舐めてくるものだから、俺は飛び上がって思わず、羽根をバサバサとする。
『いきなり、ひとを舐めるとはいい度胸だ、メス猫。いいか、覚えておけ。お前の舌は痛みが強い。舐める前に、一言告げるべきだぞ』
いつもの癖で、つい饒舌に諭してしまう。鴉史上初だろう。猫を説教する鴉なぞ。人間と暮らし始めて、鴉史上初な出来事に遭遇することが多くて、それはそれで退屈しなくて済むが。
『知ってる匂い。これ、なあに?』
メス猫は、俺の説教はどこ吹く風。どこか嬉しそうな顔で匂いを嗅ぐ。懐かしがっているような、それでいて安心するような。そんな匂いに感じているようだ。最初は、汗臭かったかとか、そちらのほうを気にしたのだが、『彼女』同様。男も綺麗好きなようで、週に1回は風呂というものに入れさせられる。初めて生ぬるい水をかけられたときには暴れてしまったが、男は幸運だ。すでに、俺は風呂というものに慣れていたのだから。
つまり、俺の身体からは野生から遠ざかった匂いがぷんぷんしているわけだ。こいつも、人間飼いなら、風呂というものに入れられてたことはあるだろう。だから、懐かしくて安心する匂い。それは――
『人間の匂いがするだろ? お前もよく知っているはずだ』
俺の言葉に、きょとんとしてメス猫は目を丸くするが、ややあってなにかを理解したのか、ニャオンと鳴いてまた歩き出す。その後ろ姿を、ピョコピョコと俺はついていく。端から見れば、子猫をつけ狙う嫌らしい鴉にしか見えないだろう。だが、今はそれで十分だ。外敵に狙われる確率はこれで下がるわけだから。
『お前。足、怪我しているだろ。そんなに急いでどこに行くんだ?』
せこせこと前を歩く子猫に問うてみる。
『なんでついてくるの?』
歩は止めず、メス猫がちらりとこちらを見て鳴く。不思議そうな表情だ。これは、話が終わったのにずっとついてきている理由を聞いているのだろう。俺の明晰な推理が果たして、どこまで正解なのかはわからないが、とにもかくにもこうして奇妙な会話が成り立っている。俺はちょっと得意げな顔で、
『お前に聞きたいことがあるんだ。なあ、どこに行くつもりなんだ?』
と、同じ疑問を口にする。なんども言っていれば、そのうちこいつも気づいてくれるんじゃないか。そういう淡い期待をこめて。
『わかんない。でも、あなたは話してくれる。えっとね。行くところがあるの。どこかわかんないけど。変だよね? でもね。こっちで合ってると思うの』
メス猫が珍しく、長く喋る。もしかすると、俺の疑問に見当がついて、正解を話してくれているのかもしれない。が、顔が見えない以上、推理することはできない。
俺は、メス猫よりもさらに足早に横を通り過ぎて、振り向きざま、後ろ向きにピョンピョン跳ねながら、子猫の歩調に合わせる。これで、俺の明瞭な観察眼は世界一になる。
『すまない。もう一度、言ってくれないか。お前のケツしか見えてなかったんだ』
そう口にしてから、メスと交尾をしたがるオスのような言い方に、俺は苦笑いする。だが、ケツはケツだ。それ以上でもそれ以下でもない。メス猫は、俺の目を見つめながら、言葉の意味を探っている。しばらくして、またメス猫が口を開く。
『あのね。早く行かなきゃ、なの。そうしないとね。忘れちゃう気がするから』
メス猫がそう言ったきり、俺がなんど話しかけても、取り合わなくなってしまった。