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8 君の帰る場所
『本当にこの辺りなのか?』
近寄ってくる人間の匂いを片っ端から嗅ぐメス猫に、多少の動揺とともに問いかける。が、匂いに夢中で、メス猫は俺の言葉にちっとも反応を寄越さない。
『違う』
ミャオ。
「かわいい! こっち来て、ね? チチチ……」
人間のメスどもが、機械片手にメス猫の回りを囲んでいる。メス猫がなにかすれば、黄色い悲鳴だ。しかし、当の本人と言えば、人間に媚びることなく、次々に差し出される手の匂いや、足の匂いを、確かめるかのように鼻先を動かしている。
『違う。これ。違う』
なにかを探しているようにも見える。だが、どうやらメス猫のお目当ては、やはり人間だったのだ。それが、飼い主かどうかは知らぬが、この様子を見る限りはそうであると断定するほかない。
『忘れた』
しばらく離れていようと翼を広げたところで、いきなりメス猫が近寄ってきて、身体中の匂いを嗅ぎ始める。もしかすると、そんな深い意味はなく、ただの匂いフェチなのだろうか。動物のなかには、匂いに酔うほど、鼻のいい動物がいるが、猫はどうだっただろうか。
人間どもの怨嗟の視線を一身に受けながら、メス猫のボディチェックを受ける。どこに行っても、鴉は嫌われ者だ。とは言っても、メス猫を邪険にすることもできず、ただひたすら、嗅がれ続けるしかなかった。
そろそろ、本格的に嫌悪なムードが漂ってきた頃、ようやくメス猫がまた、人間どもの輪のなかに戻っていく。
『いこ。ここ。違う』
たっぷり、人間どもの匂いを堪能したメス猫が、俺に合図を送って、また歩き出す。そして、その先はますます、男の家に近づいていく。
これはただの直感だ。当てずっぽうだし、なんの根拠もない話だ。が、俺の直感は当たると、もっぱらの噂だ。だから、そんなこともあるのかもしれない。メス猫が探している人間とは、男のことではないか。どこかで会ったことがある。わけでもないだろうが、なぜか、そんな気がしてならないのだ。
空を見上げると、夕暮れが近づいてきている。早めに、寝床を探しておいたほうがいいだろう。だが、こんな人間の巣の真ん中に、安全な場所など、すぐには思いつかない。
いや。
ひとつだけ、浮かんでいる場所がある。そこは確かに安全で、そしてメス猫が探し求めている人間が誰であるかを、簡単に確認できる場所。
これまでの旅路の経験から、メス猫も俺が寝床を探しに行く頃合いであることを理解している様子だ。近くの茂みのなかに身を伏せっている。
俺は、茂みのなかに顔を突っ込んで、これまでと同様に合図を送る。メス猫は、俺の言葉になんの疑問も持たぬ表情で、後ろをとてとてとついてくる。 男の部屋まで、ここからそう遠くはない。これなら、暗くなる前に着くことができるだろう。
俺たちは、人間たちの雑踏のせわしさのなかを縫って、今夜の寝床へとまっすぐに向かうのだった。
男はまだ帰宅していなかった。部屋の電気がついていない。
好都合だ。あれこれ、なにか言われるのは必須だろうから、いないうちに入れてしまえば、あの男のことだ。一晩くらいは置いてくれるだろう。
メス猫が柵を器用に登って、ベランダに身を乗り出したところで、彼女の鼻先が見たこともないほどの早さで動き始めたのがわかった。
『知ってる。知ってる』
彼女がなんと鳴いているのかはわからない。けれど、そこにはやはり、深い意味が込められているように思えてならない。
『どうだ。ここがお前の目的地か?』
俺の問いかけに、メス猫はじっと窓のなかに注ぎ込まれる。応えは別に期待していなかった。俺は、いつもの通りに。今夜はいつもより窓を大きく開いて、メス猫よりも先に部屋に入る。
後ろを見やると、俺にならって、そっと部屋のなかに足を踏み入れていた。そのときの表情は、俺はきっと忘れない。
メス猫の目は、丸く大きく見開かれ、口は半開き。キョロキョロと部屋のなかを見回して、驚いているというよりは、これまで確認してきたイメージと寸法違わぬ様相にあっけにとられているといった感じだ。
やがて彼女は、のそのそと歩き始め、ソファーをよじ登り、その一角にそっと身体を下ろした。俺は彼女の選んだ場所を見て、いよいよ自身の推論に確信を持った。そこは、『彼女』のお気に入りの場所だったのだ。まるで、これまでもそこにいたかのように、なんとも自然なふるまいだった。
では、彼女はいったい、誰なんだろう。俺は、次に芽生えた疑問に頭を抱えた。もはや、彼女は『彼女』と言っていい。しかし、俺の知っている『彼女』は、今まさにそこにいて、色あせることなく微笑んでいるのだから。
ふいに玄関の錠が落ちる音がして、俺たちは顔を上げた。