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夢と現実の境界が曖昧だったり、思い出と今現在が混ざって存在している方々を相手に、私もこの話に登場するヘルパーの方と同じ仕事をしているので、ヘルパーさんの目線で読んでしまいます。
主人公はまだまだはっきりとした認知機能を持っており、今現在は体調を少し崩した中で夢と思い出が現実と重なっているのかも知れません。
キューブラー・ロスの「死の五段階受容」と言う説があるのですが、
1.否認(そんなはずはないと言う強い否定)
2.怒り(なぜ自分が……)
3.取引(延命への交渉を行う)
4.抑うつ(無力感)
5.受容(運命を受け入れる)
死と言うか、老いに対しても繋がると思います。
過去の自分の後悔や、歳をとって行き、体の自由が効かなく、自分の思うように行かなくなる事への苛立ちと焦燥感。
それが過去の自分への後悔や羨望にとって変わってしまうのでしょう。
些細な事への苛立ちは、それらが全て繋がって今の自分があるという事を受容できることになるのかも知れません。
それでも、普段は「もうね、長生きしてもしょうがないから、朝起きるたびにね私は思うの。お父さん(旦那さん)早くそっちに連れて行ってちょうだいって。子供たちも何人も私より先に逝っちゃってるから私もそっちに行きたいのって」という97歳の方がいるのですが、体調を崩して呼吸が苦しくなった時に、聞いたことが無いような大きな声で「助けて‼︎」と叫んでいたのが、人間の根本だなと思ったりしました。
何歳になろうとまだまだ生きていたいのだと。
別の方で今年100歳になる方がいるのですが、夜中に起きては「煮付けを作らなきゃいけないの。材料はどこにあるかしら?」と車椅子で徘徊を始める元気な方なのですが、その方も少し体調を崩すと泣きながら大きな声で「まだ死にたくないの‼︎」と叫ぶわけですがとても元気です。
認知機能が高い人も、低下している人も高齢者に言えることは、「自分本位」になっていくことが実感として思っています。
「腹減った」とずっと繰り返す人や、「助けて〜」と一日中叫んでいる人。転倒するのに歩こうとする人。そんな方々を介助しているヘルパーさんには、怒鳴られる程度なら日常的にあることだなと思ったりしました。