本文全体を通して「僕」の一人称で一貫して書かれていること、「彼女」にはイマジナリーフレンドがおり、彼女は「僕」の目の前でイマジナリーフレンドと会話しているということは、作者ご本人のツイッターでの解説を見て理解しました。作者解説を通さないと、理解するのは難しかったと思います。
まず、「僕」と「彼女」の位置関係が書かれていない。解説に触れるまでは、「ガラスに語りかけ、彼女は1人で笑う」という叙述から、「僕」は喫茶店の外におり、喫茶店の中にいる彼女が窓ガラスの外に見える「僕」に笑いかけているのだと解釈しました。そこから発展して、「国を悪くするのは云々と」演説しているのは「僕」なのではないか、とも。しかし解説に触れ、本文全て「僕」の一人称だと理解できましたので、(僕の)「目の前で」という叙述が機能し、両者とも店内にいることが理解できました。
また、「素敵な人よね」と「やっぱりそう思う!?誠実だし……」が同一人物による台詞だと気付く判断材料が乏しいため、「友達」と「彼女」を別人だと解釈していました。「友達」が「素敵な人よね」と発言し、それに対して「やっぱりそう思う!?誠実だし……」と「彼女」が答えるというように見るのが自然に思えてしまいます。しかし解説を通して、イマジナリーフレンドの存在を知りましたので、「彼女は1人で笑う」の意味が通り、「コーヒー2つとジュース」が僕・彼女・イマジナリーフレンドの3人分だと理解できました。
理解は通りましたが、「僕」が目の前にいるのになぜ彼女たちはそんなにあけっぴろげに「僕」の話をするのだろうか、と違和感が残っています。しかも「ガラスに語りかけ、彼女は1人で笑う」とある通り、彼女たちは「僕」を会話に加えようとしていない。その後の「僕」の発言も、彼らの会話への返答というより、独り言にしか見えません。
作者さんは340文字程度の拡張版を「小説家になろう」に投稿されていまして(
https://ncode.syosetu.com/n9088er/)、そちらも参考にさせていただいたのですが、拡張版の場合は「僕」の発言に「彼女」が返答しているので、ある程度会話として成り立っている印象はあります。ただし拡張版も同様に、「麻里」がイマジナリーフレンドであることや、「僕」と「彼女」の位置関係を伝える叙述が不足しています。ただ末尾の会話と独白によって、タイトル「冷血漢」の意味するところ、つまり「僕」のパーソナリティについて伝わってくるところはありました。
「彼女」が「狂ってしまった人」であるという前提を置いたうえで、それに接する「僕」のパーソナリティを描かれたかったようですが、その前提を理解する情報が本文に不足していたため、パーソナリティの是非まで感想が及ばないのだと思います。どの文の主語を省略するか、誰がどこにいるかという情報が出ているか、などを確認しながら書いていくと、素敵な作品になったと思います。
最後に、解説を読んで得られた面白さではありますが、「僕」からは彼女を「友達」と見ているのだというギャップと、それでも「責任なら、最後まで果たす」という義理堅さが出ているのは、面白かったです。